アニメウマ娘の視聴者に送る、サイレンススズカの史実
「ウマ娘 プリティーダービー」の放映が開始された。
擬人化された競走馬たちが走って踊って学園生活を送るアニメに視聴者は皆「ヒヒ^~ン」と喜びのコメントを打ち込みながら楽しんでいる。
筆者も第三話を視聴し終え、様々な感想記事を追いながら楽しませてもらっている。
アニメ「ウマ娘 プリティーダービー」は史実をふんだんに取り入れながら、史実にはないif展開も繰り広げており、それもアニメを楽しむ魅力的要素の一つである。
さらにネットでは往年の競馬ファン達が、たくさん出てくる競走馬達の史実を語ってくれている。普段競馬を見ないアニメオタク達にとってはありがたい事だ。
そしてその中で、競馬ファン達がこぞって危機感を抱いている馬が居る。
サイレンススズカだ。
「このアニメで、サイレンススズカはどうなってしまうのか」
そんな競馬ファン達の不安、心配、思いを理解するには、
日本競走馬界の歴史を知り、その中で走った一頭の馬、
サイレンススズカを知らなくてはならない。
1、"人"が語る、もっとも強い"馬"
武 豊(たけ ゆたか)という騎手が居る。
別業界である羽生善治やイチローと並べられるほどの"天才"と称され、
日本競走馬界で数少ない有名な"人間"であり、数々の歴代最多記録を残している。
そんな偉人がウマ娘プロモーターになって、あんなCMに出るなんて2000m芝不可避なわけだが、話がそれるのでここまでにしよう。
武豊は2018年現在も現役であり、数々の名馬と共にレースを制している。
親子三代で天皇賞制覇し「絶対の強さで人を退屈させた」と言わしめた、
"メジロマックイーン"
怪物達と共に第二次競馬ブーム期を盛り上げた平成三強の一頭、
"スーパークリーク"
武豊としては二度しか乗らなかったものの、騎手としては伝説的ラストランを走り切らせ、「神は居る」と思わせた。
アイドルホースである芦毛の怪物、"オグリキャップ"
そんな武豊が騎乗した馬達の中でも、一際異様な強さを見せた馬が居る。
"ディープインパクト"
無敗のまま「皐月賞」「東京優駿(日本ダービー)」「菊花賞」を制して三冠馬となり、
「一着至上主義」「奇跡に最も近い馬」と形容されるほど勝ち続け、恐ろしい戦績を残した名馬である。
以下の画像はそのディープインパクトが残した成績である。
世間はこの馬に注目し、社会現象だと言われるまで取材は相次いだ。
馬は喋れないので当然メディアは武豊にマイクを向ける。
様々なインタビューをされていく中、こんな質問が武豊に飛び込んだ。
「もし武豊さんが『武豊&ディープインパクト』と対戦できるとしたら、これまで数多く乗ってきた優駿の中で、打倒ディープとしてどの騎乗馬を選びますか?」
その質問に武豊は一頭の馬の名をあげた。
その馬の名はサイレンススズカ。
日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せた馬である。
2、上村洋行とサイレンススズカ
サイレンススズカは最初、武豊ではなく上村洋行という騎手が乗っていた。
上村騎手を乗せたサイレンススズカのデビュー戦は1着でゴール。
だが次の弥生賞ではレース開始前、柔軟な馬体でゲートをくぐってしまう。
※ゲートをくぐっちゃうサイレンススズカ
サイレンススズカは係員に押さえつけられ、なんとか再びゲートに入る。すると今度はスタートで酷い出遅れをしてしまう。
それでも驚異的な脚力で8着にはなったが、当時の関係者達はこれらの気性面をなんとかしたかった。
「走りたいという気持ちが先走り過ぎる」
「スイッチが入ると暴走するぐらい走りたがる」
サイレンススズカは確かに速い。
だがその身に任せたままだとレース終盤スタミナが尽きて、勝つことが難しい。
次のレースで上村はサイレンススズカを必死に抑えつけて走らせようとしたが、我慢しきれないサイレンススズカは先頭を走り続け逃げ切り1着。
東京優駿(日本ダービー)を勝たせたかった関係者たちは不安だった。
2000mならいいだろう。だが勝ちたいレースの距離は2400mなのだ。
※Sがスタート地点。Gがゴール地点。
ペース配分ができなければ、速さをコントロールしなければ、絶対に勝てない。
もはや上村は「マイル路線(1600m)で行ったほうがいいのでは」とも考えていたという。
しかし次の2200mでなんとサイレンススズカは1着。しかも騎手の上村が上手くサイレンススズカを抑えて、理想的な作戦勝ちだった。
「ダービーもいくらか抑えれば、勝てるだろう」
だが日本ダービーで、サイレンススズカは勝てなかった。なんと9着。
「もう小細工はやめて、逃げて競馬させよう」
関係者達は方針を転換する。
続く神戸新聞杯でサイレンススズカはレースを先行で走った。
走り続け、断然トップ。これは勝ったと見る者は思った。
サイレンススズカはペースを変えず先頭を走る。あとは、ただ走るだけ。
しかし後方からマチカネフクキタルがグングンとスピードをあげ追い抜こうとしていた。
上村騎手が気づいたころには、サイレンススズカは2着になっていた。
振り返れば、八百長さえ疑われてもおかしくないほどの、酷い抜かれ方であった。
この結果を受け、上村騎手は降板させられてしまう。
上村氏は後悔した。自らの失態を泣き、悔しがった。
そしてサイレンススズカの行く末を心配した。
「恋人以上のものが離れて行ってしまった感覚でした」と本人のインタビューも残っている。
「将来を見据えて、なるべく楽に勝たせてあげたかった」「苦しまずに走らせたかった」「勝ちをちゃんと見据えられてなかった」
当時を振り返ったブログ記事では
「出来ればここを何とか楽に勝たせてあげて、
天皇賞に向けて少しでも身体や精神面にダメージを残さない様にしてあげたい。
そしてより万全の状態で天皇賞に向かわせてあげたい」とも残している。
サイレンススズカに鞍上した上村氏は、誰よりもサイレンススズカを愛し、守りたがったがゆえに、本番レースで勝ち切る「勝負師」になりきれなかった。
競馬は勝負の世界。馬は勝たなければいけない。
負けて許される馬など、皆認めなかった。
生涯成績113戦0勝のハルウララがメディアに持ち上げられ、大衆から愛された時も、競馬関係者達の声はあまり暖かくなかった。
武豊もその一人だ。
「強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さがある」
そんな勝つことに拘る騎手、武豊がサイレンススズカと出会うことになる。
3、大逃げの始まり
「サイレンススズカに乗りたい」
そう申し出たのは、なんと武豊からだった。
乗る馬の依頼が来るのを待つのが本来騎手側の立場なのだが、その慣習を崩した直談判である。
そして香港国際カップでサイレンススズカと武豊騎手は初めてコンビを組む。
ちぐはぐな日程や、馬房内で左回りに旋回する癖を矯正しようとした結果ストレスをため込んでしまうなど悪条件が重なり、レース終盤に他馬に捲られて結果は5着。
「最初から全力で走り過ぎちゃうというか、サラブレッドの本質の塊のような馬だった」
そんな評価をサイレンススズカに下した武豊は大胆な騎乗を思いつく。
「抑えようと思ってもきかない。だったら、前半から好きなように走らせた方がいいと思った。この馬は走っているときがいちばん楽しそうでしたからね。それでも持つんじゃないかな、と」
いかに逃げて力を配分するか。
最初のレース展開から他馬を引き離しておきながら、レース終盤で足を残しておくかのか。
逃げ戦法は古くからあるにはあるものの、「勝つための戦術」としては博打感が拭えない。
逃げでの名馬と言えば、どれも個性的な馬ばかりだ。
破滅的大逃げを幾度となく繰り返し、最後の直線でスタミナを尽かし大失速して馬群へと沈んでいき最下位。そんな滑稽な姿を何度も魅せ、競馬ファン達を楽しませた"ツインターボ"
あまりのハイペースでトウカイテイオーらのレース展開を乱し下位に追いやった、大逃げコンビとして有名な"メジロパーマー"と"ダイタクヘリオス"
世界レコードを叩き出したこともある"セイウンスカイ"
存在はする。だが100戦したら100勝するような、絶対的なものではない。
次走のバレンタインステークスでサイレンススズカはその「逃げ」からも逸脱する大きなリード「大逃げ」を行う。
レース序盤の第三コーナー前でサイレンススズカはここまで逃げ離した。
※左の赤丸にサイレンススズカ。右の赤丸が他の馬達である。
大逃げは最初からハイペースで走るので、最後の直線ではスタミナがあまり残らない。
なので後方馬との差は縮まっていく……はずなのだが、
サイレンススズカは加速する。加速し続け、後方の馬をさらに逃げ離す。
「逃げて差す」
次のレースも大逃げで勝ち、そしてその次のレースも大逃げで勝ち……
1998年金鯱賞。またもやサイレンススズカ1着。2着との差なんと11馬身。
平地の重賞競走では6例目の大差勝ちであり、これ以降10馬身以上離れての重賞大差勝ちレースは現れていない。
レース後、アメリカから「サイレンススズカを売ってくれ!」とオファーが本当に来てしまうぐらいの圧勝だった。
「あんな体験、普通はできない。(後ろからくる)足音をまったく聞かないままゴールしちゃったんですから!」と武豊は当時の金鯱賞を振り返る。
この金鯱賞のレースは印象に残るどころか、サイレンススズカが伝説と呼ばれるゆえんのレースとなり、そしてその始まりだった。
次の出るのはG1宝塚記念。しかしここで問題が発生した。
サイレンススズカが宝塚記念に出走するのは急遽決まったことであり、
武豊は同レースに出走するエアグルーヴに乗ることを先に決めていたため、鞍上がいなかったのだ。
そこでなんとか南井克巳氏が乗ることが決定し、武豊とサイレンススズカが敵として戦うことになる。
宝塚記念は芝2200m。
南井騎手は少し抑え気味で慎重に前へと走らせる。
}最後の直線でもギリギリまで引き付けてから鞭を入れ、そのまま加速しサイレンススズカ1着。
武豊鞍上のエアグルーヴは3着だった。
大差ではないものの、サイレンススズカにとって念願のG1レース初制覇でもあった。
4、最速の証明
毎日王冠はG2レースであり、G1より格が下である。
このレースを勝てば、サイレンススズカがもっとも得意なG1レース条件である「芝2000mの左回り」天皇賞(秋)の出場権を得られる。
しかし当初は調教不足などを理由に、サイレンススズカは毎日王冠への出走を見合わせる検討がされていた。
だがこのレースに二頭の馬が、出走を高々に宣言する。
その馬の名は"グラスワンダー"
「怪物」と騒がれ「JRA史上最強の2歳馬」と評された馬が、故障後の復帰戦にこのレースに出走を表明。
そして"エルコンドルパサー"
年度代表馬を得るために、ジャパンカップで勝つために前哨戦としてこのレースを選択。
両馬共に未だに無敗の外国産馬である。
サイレンススズカ陣営も「これで出走を回避したら『あの二頭に負けるのがわかって尻尾を巻いて逃げた』と言われてしまう」と懸念し始め、この対決を受けることを決めた。
競馬ファン達はこの三強馬による夢の決戦を見逃すわけにはいかなかった。
そして当時のルールでは天皇賞(秋)で外国産馬は出走できない。毎日王冠はこの三強馬が勝負できる数少ない機会なのだ。
こうしてG2という格が下のレースにもかかわらず会場には13万人の大観衆が詰めかけた。
レースが始まり、サイレンススズカは逃げ始める。
グラスワンダーはサイレンススズカの隙を付こうと策を弄し、エルコンドルパサーはそのまま真っ向勝負で立ち向かった。
しかし、サイレンススズカは最後の直線で、いつもの通りに再び加速。
差は縮まらない。二馬身差叶わず、サイレンススズカは1着。
不敗神話を一度のレースで二頭まとめて切ったのである。
「影さえも踏めなかった」
エルコンドルパサーに鞍上した蛯名騎手はそうコメントを残している。
サイレンススズカは6連勝。敵無しの馬達を蹴散らした。名実ともに当時の最強馬となった。
サイレンススズカ陣営は「天皇賞(秋)を制したらジャパンカップに挑戦し、そのあとはアメリカへ遠征しよう」とウキウキを隠せなかった。
5、天皇賞(秋)の前評判
サイレンススズカが狙うG1レース、天皇賞(秋)
前述したとおりグラスワンダーやエルコンドルパサーは外国産馬なので出走できない。前年この天皇賞(秋)を制したエアグルーヴも鞍上を考慮され、別レースを狙い天皇賞を回避することになった。
(※サイコミ掲載の漫画「STARTING GATE! -ウマ娘プリティーダービー 【第15レース-②】特別な1日 ♯01」において、エアグルーヴが「サイレンススズカとは宝塚記念や天皇賞で戦いたい」と言っていたのは、これに由来する)
そしてサイレンススズカがもっとも有利なレースにもはや挑む気力がある馬も無く、多くの陣営が競走を回避。
宝塚記念でサイレンススズカに11着で負けたものの同年の天皇賞(春)を制覇したメジロブライトが二番人気。
同じく宝塚記念で6着。去年の有馬記念を制覇したシルクジャスティスが三番人気。
またまた宝塚記念の出走馬であり、もっともサイレンススズカに近かった2着ではあったが、最後の1着レースがG3でもない「阿寒湖特別」というステイゴールドが四番人気であった。
サイレンススズカはもちろん一番人気。オッズは1.2である。
その馬体や体調面は武豊騎手、担当厩務員ともに口をそろえて「一番具合が良い」と言い、
もはやサイレンススズカが負ける要素を探すのは不可能だった。
誰もがサイレンススズカが勝つことを疑わなかった。
だがひとつ、たったひとつだけ不安要素があった。
天皇賞(秋)には都市伝説が、ジンクスが存在したのだ。
1987年にニッポーテイオーが1番人気で勝った後、天皇賞(秋)にて1番人気の馬は、一度として勝てなかったのである。
3度も1番人気に支持されながら一度も勝てなかった"オグリキャップ"
1着でゴールしたと思いきや進路妨害により18着へと降着し、天国から地獄へ突き落された"メジロマックイーン"
大逃げコンビのメジロパーマーとダイタクヘリオスにレースペースを乱された"トウカイテイオー"
春にメジロマックイーンの三連覇を阻止したものの、スランプに陥りそのまま敗れた"ライスシャワー"
パドックで違和感を感じながらもレースに入りし、5着。レース後ケガが発覚し、競走馬を引退した"ビワハヤヒデ"
故障の復帰から立ち直れずレースに挑み、覇気なく敗れた三冠馬の"ナリタブライアン"
スタートを出遅れ、その後の展開もミスしてしまい、鞍上も「最高に下手に乗った」と後悔した"サクラローレル"
そのサクラロールを倒して連覇を狙おうとしたが、大逃げ馬(サイレンススズカ)を早めに捕まえようとしてしまい、最後はエアグルーヴにクビ差で競り負けた"バブルガムフェロー"
府中には、魔物が住んでいる。そう言われても仕方がなかった。
1998年。
第118回天皇賞
11月1日1枠1番で、1番人気はサイレンススズカだった。
6、"沈黙の日曜日"~Sunday Silence~
レース開始。サイレンススズカは抜群のスタートで快調に飛ばし、いつもの大逃げ。
サイレントハンターも大逃げ戦法を取るが、サイレンススズカとの差は10馬身差。
最後方ローゼンカバリーとは6秒のタイム差が離れ、
全ての馬を映さなければならない中継カメラはめいっぱいズームアウトし、馬が小さすぎて見えないほどになった。
※左の赤丸がサイレンススズカ。右の赤丸が最後方の馬。
「息が入り始めて、いいぞ、いいぞ、と。本当にいい感じだった」
と武豊はレースを振り返る。
大欅を通り過ぎ、サイレンススズカは一度ペースダウンする。
ここで一息入れて、再加速しぶっちぎる気だろう。いつものサイレンススズカだ。
しかし、そのまま失速する。
サイレンススズカは左前足を宙に浮かせた。
どよめく会場、そして叫ぶ実況。
「サイレンススズカ!! サイレンススズカに故障発生です!!!」
歩く馬足で、コースの大外によれるサイレンススズカ。
それを抜くサイレントハンター、オフサイドトラップ、ステイゴールド、残りの馬たち……
「なんということだ! 4コーナーを迎えることなく、レースを終えた武豊!! 沈黙の日曜日!!」
そのまま泣き叫ぶ会場の歓声を聞きながら、レースを続ける馬達。
サイレンススズカは故障しながらも、鞍上武豊を落馬させず、馬群を避け安全な場所に運んでいった。
この事を武豊は「サイレンススズカが僕を助けてくれた」と語った。
ケガの内容は結果は左前脚の手根骨粉砕骨折。
騎手が抑えようとしても全力で走ってしまうサイレンスズカの脚は、その負荷に耐えるための骨梁が硬くなっていった。その粘性を無くした骨へと、より強いの負荷がかかり、砕けた。
直ちに予後不良の診断が出され、安楽死処分が下された。
1998年 11月1日 サイレンススズカ 永眠
結局この天皇賞(秋)はステイゴールドとオフサイドトラップが競り合いながら、決着がつく。
1着はオフサイドトラップ。史上初の7歳での天皇賞優勝。
「不治の病」と言われている屈腱炎を3度克服した高齢馬が念願であるG1レースを制覇し、ひとつのドラマを作った。
だがその偉業は、残念ながら無下に扱われてしまう。
1998年の天皇賞(秋)は、サイレンススズカが、最速の馬が止まってしまった悲劇のレースとして刻まれた。
武豊は「原因は分からないのではなく、無いんだ」とレース直後マスコミに答えた。
レース後の武豊の落ち込みは相当なものだった。
同レースに出ていたテイエムオオアラシの鞍上である福永騎手は
「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。
その夜、武豊は知り合いとワインを飲み明かした。
「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。
夢であって欲しいな、って」
サイレンススズカの死、それは夢を見た競馬ファン達にとって、最大のトラウマになった。
サイレンススズカはまさに夢のように走る馬だった。
1600mのスピードで2000mを制せる、最速の中距離馬だった。
競馬に絶対はない。だからファンは"たられば"を夢想する。
もし、サイレンススズカがケガをしていなかったら、どうなっていただろうか。
ジャパンカップの2400mも軽々と走っただろうか。海外に遠征しても、並み居る強敵達を圧倒しただろうか。
種牡馬になったら、どんな子供が生まれただろうか。
そんな夢想をしてしまうのは競馬ファンだけではなかった。
武豊である。
自ら鞍上を名乗り出て、サイレンススズカの未来に期待し、夢を叶えようとした武豊は、
あろうことかその夢が崩れ落ちる瞬間の馬に、跨っていた。
ジョッキーにとって、一番嫌な、最悪の瞬間。
その瞬間のサイレンススズカに武豊は乗っていたのだ。
2007年になるまで武豊はサイレンススズカに深く言及することはなく、
2013年のインタビューでも、事故の話になると途端に拒絶し、笑顔を引っ込めた。
サイレンススズカの事故、その絶望の感触は、武豊の心の中へと確かに刻まれている。
ウマ娘 プリティーダービー第1Rにて終盤、トレーナーは問いかける。
「日本一のウマ娘とは何か?」
それはG1で勝つことだろうか。
日本競馬界の象徴であり最大級の目標である東京優駿、日本ダービーで勝つことだろうか。
ファン投票で出場馬が決まり、1年を締めくくる大レース。数々の名勝負が繰り広げられた有馬記念で勝つことだろうか。
この問いに擬人化されたサイレンススズカはこう答えた。
「夢……見ている人に夢を与えられるような、そんなウマ娘」
このセリフを聞いてしまった競馬ファン達の心境は如何ほどのものだったろうか。
サイレンススズカ。
日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せてしまった馬である。
7、それでも馬達は走り続ける。
サイレンススズカと戦い敗れたエルコンドルパサーは1998年のジャパンカップを制し、海外への遠征を決めた。
「国内に敵はいない」
そしてその海外遠征でエルコンドルパサーは大活躍する。
ヨーロッパ最大の競走の一つ、凱旋門賞では惜しくも2着だったが、現地メディアからは「チャンピオンは二頭居た」とその健闘を称えられるほどだった。
2018年現在、国際的に競走馬のレーティング指数を決める「インターナショナル・クラシフィケーション(旧称)」や競走馬の能力を数値化する「タイムフォーム・レーティング」など、どちらもエルコンドルパサーは日本調教馬として史上最高の数値を保持している。
引退後に現れたディープインパクト等の名馬達、それらを差し置いての高評価を未だにエルコンドルパサーは維持したままなのだ。
そのエルコンドルパサーを相手に、国内レースにて唯一勝ち星をあげていたサイレンススズカの評価も未だに止まることがない。
翌年、1999年の天皇賞(秋)レース。これを武豊は再び走り見事1着でゴールインを果たす。
しかもレース記録を塗り替えるレコード勝ちだった。
去年のリベンジを果たした武豊はレース後、
「ゴールの瞬間、まるでサイレンススズカが後押しをしてくれたようでした」と語っている。
サイレンススズカが後押し、天皇賞(秋)をレコード記録で1着を取った馬、
その馬の名はスペシャルウィーク
アニメ「ウマ娘 プリティーダービー」の主人公である。
さらなる余談ではあるが、天皇賞(秋)にかかった一番人気のジンクス、呪いは、2000年にテイエムオペラオーが払拭する。
その後に登場する名馬達も、天皇賞(秋)において1番人気で1着を取れるようになっていった。
名馬達を襲った忌まわしき呪いは完全に掻き消え、今は日本競馬史の一つとして、ただ記されているのみである。
(了)
※以上の内容は2018年にニコニコブロマガで公開された記事を、2021年3月に再掲載・微修正したものです。
参考文献:
※この記事を書いて嬉しかった事。
おまけ:
さらに追記:記事は残りました。
さらにさらに追記:2024年夏にKADOKAWAサイバー攻撃が発生しました。
復旧の度合いによってユーザーブロマガの記事は残ったり残らなかったりするでしょう。
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