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真夏のエルピス by 吉田真澄
「ねえ、きょうさん。いまここであなたが倒れたら、私はどこに連絡したらいいの・・・・・・」
合わさったお腹の上にいる今田 強(いまだ きょう)の、上下に揺れ動く顔を虚ろな瞳で眺める佐治 由実(さじ ゆみ)の、快感に酔いしれながら発した言葉は由実自身の喘ぎ声にかき消されていく。
部屋のガラス窓は、えんじ色の布を貼ったベニヤ板で覆いつくされ電灯のスイッチをオンにしなければ真っ暗で、外の様子はうかがえず昼なのか夜なのかわからない。部屋の真ん中に鎮座する大きなダブルベッドの端で、強が軽く寝息をたてている。
いま何時だろう。由実は枕もとを手探り、掴んだ携帯電話で時刻を確認した。
もう昼になるよ、と由実は強の耳元に囁く。う~ん。目覚めた強は、もう少し、と由実を隣に引き寄せた。
失われた若さを取り戻すことはできないが、失われていた時間を取り戻すかのように二人は一つになる。
冷房の効いたラブホテルを出ると、うだるような暑さの光線を太陽が地面に向けて容赦なく放っている。真夏の日曜日、午後は灼熱だった。
由実は幼馴染の強を兄のように慕い、強は由実を妹のように扱っていた。強が大学3年生になり由実が高校を卒業するころ、強に彼女を紹介された。強の同級生、暮 多恵子(くれ たえこ)さん。すらりとした長身の目力の強い人。卒業したら結婚すると。
由実はそこで、強が好きだと気づいた。気づいたというより、今までは表に出せない感情だった。ずっと、強ばかり見ていたのだ。兄としてではなく、男として見ていたのだと。小さい頃からずっとお兄ちゃんと結婚すると言っていたのだと。由実は自分の気持ちの大きさに胸が押しつぶされた。
由実は初恋ロスに陥った。
もっと自分に自信があったら、あのとき一歩が踏み出せたのかもしれない。でも二の足を踏んでしまった。兄と妹。妹の役を捨てたら私は強にとって何者でもなくなる。そんな恐怖心があった。
就職して3年後、由実は会社の同僚 只野 富一(ただの とみいち)と結婚した。由実が働き続けることに富一は異論を唱えなかった。唱えられるはずがないことは、のちに知ることになるのだが。
本当に求めていた結果ではないが、手の届く範囲の中での妥協だった。由実は、抱えている初恋ロスを捨てたかったのだ。なんとも欺瞞に満ちた行動だった。
籍を入れ半年ほどたつと、富一は給料を由実に渡さなくなった。友人に貸した、実家に用立てた、等々と理由はその時々で変わり、喧嘩が絶えなくなった。何を言っても、こんにゃくに針を刺したように手ごたえがない。以来、仕方なく由実が家計を守っていた。
だけど、なぜ私が富一を養わなければいけないのか。冗談じゃない。家でも会社でも顔を合わせる毎日に嫌気がさす。私のお金で平気で食事をして暖かい布団で寝る。もう、富一の気配を感じるだけで気持ちが悪い。もちろん一人で寝てもらう。由実はストレスを抱えるようになった。
銀行やカード会社、キャッシング会社から届く督促状が日に日に増してきて、富一を問い詰めた。富一はギャンブル依存症だった。パチンコ店のそばにはキャッシングサービスの機械があり、富一はその機械を財布代わりにフル活用していた。
富一は積もり積もった額に手も足も出なくなった。そうしてある日、置き土産だとでもいうように離婚届に自分の名前と捺印をして夜逃げした。とんだ食わせ者。
幸い子供もできなかったし、もう一切関わりたくない。由実は即刻、離婚届を役所に提出し、苗字も戻した。もともとそう好きでもない相手だったから未練などない。
ふっ、同じ穴の狢、欺瞞師同士だったのか。由実は鼻で笑った。
数か月後、由実は会社を辞めた。
失踪した富一は不義理をした。会社には前借を繰り返し、同僚には借金をし、挙句の果てには返済も謝罪もなく、退職届を郵送しただけのようだ。
夫婦だったのだから貴女が責任をとるのが当たり前、という目にさらされ、苦い思いはもう十分だと見切りをつけた。
強兄さんに思いを寄せていたことへの罰だったのかもしれない。
私はまるでギリシャ神話の「パンドラの箱」のパンドラみたいと由実は思った。神族の一人と最高神とのちょっとしたいざこざで作られたパンドラという女性。あらゆる災いや不幸や悪、を入れた箱を持たされ中身を知らずに好奇心から箱を開けてしまい、人間界に不幸や災い、悪が広がったという話。
神という存在でも争いはあるのか。神はなんて意地悪なことをするのだ、と由実はその神話を読んだときにそう感じた。
だが、さすが神。パンドラが、箱から飛び出したものに気づき、慌てて蓋をした箱の中には「希望」だけが残った。希望を残すなんて、神も捨てたものじゃない。
由実は自らの箱の蓋をしめた。
由実がスーパーの事務職として再就職し、すでに33年がたつ。55歳になった今ではお局様とか重鎮とか揶揄されながらも、事務以外の仕事もこなすため重宝されている。パートが急遽休んだ時には代わりにレジ打ちにも立つので、売り場のみんなも頭が上がらない。
寂しくなれば、それなりに誰かと男女の仲になることもある。だが、体は許しても心は許せない。そんな付き合い方をいくつか過ごしてきた。結婚しようと迫られることもあったが、由実は一人でいる自由を選んだ。
あと数年で由実は定年になる。その後は再雇用制度で残れるまで居座り、老後資金を増やすつもりでいる。年齢がいけばいくほど、特に配偶者も子供もいなければ頼りになるのはお金、ということになるだろうから。
もうじき強は定年を迎える。
大学卒業後すぐに多恵子と入籍し、翌年にはひとり息子が産まれた。
ゼネラルコントラクター、通称ゼネコンと呼ばれる総合建設業者に入社した強は仕事に精を出した。一級建築士の資格を持つ強はデザインを行う「意匠設計」部門で、病院やマンション、のちにランドマークとして有名になるような建築物にも関わることもあった。
家族の生活を守るため、というより強は仕事が好きだった。出張も多く、徹夜で設計図を作成することもあり、家庭を顧みなかったと言われれば反論する余地はない。
子供に手がかからなくなると、多恵子は社交ダンスに熱中した。化粧映えする顔と出産後もスタイルの良さを維持し、加えて音楽好きで運動神経もよく、上達するのが早かった。そしていつのまにか競技会にも出るようになっていた。
「あなたといても楽しくないの」と、多恵子はダンス仲間の年下ペアの元へ息子、蓮(れん)を連れ出ていった。
去り際に多恵子から、子供が成人するまでは学費よろしく、と虫のいいお願いと共に振込先口座のメモを手渡された。あなたは仕事ばかりで私たちのことなど眼中になかったでしょ。このくらいはしてね、と。
自由奔放に行動する多恵子に、学生時代の強は振り回されていた。当時はそのハラハラがドキドキでもあり魅力的だった。当時は――。
なぜ今ごろ連絡をしてきたのか。
成人までの振り込みは既に終わっている。いったい何の用だ・・・・・・。
強は訝しげに、多恵子からの携帯着信に出た。未練があって番号を変えなかった訳ではなく、諸々の手続きが面倒だったからそのままにしていた。その間ずっと家族割りはいきていた。つまり携帯料金も強もちのまま、多恵子は携帯電話を使い続けていた。多恵子たちのその後は知らないが、強との籍もそのままになっている。
強に全く女性の影がないことはない。それなりに、たまには付き合う人もいたが、その先に進むこともなく終わっていた。そんな関係ばかりだったので、戸籍のことを気にはしていなかった。
「お義父さんたちが住んでた部屋、あのままなんでしょ」
強の母は2年前に亡くなり、昨年父が他界した。どこでどう聞きつけたのか、お悔やみの一言もない第一声だった。
「そうだけど。それがどうかしたか」
「蓮が結婚するのよ。だからあの部屋どうかなと思って」
多恵子の話は理不尽なことだった。息子が結婚するからマンションが欲しい。そしていくらか財産分与して欲しいというものだった。
強の父は、不動産業でいくつかマンションの部屋を持っていた。強が住んでいる場所もその一つだった。いまでも家賃収入はある。強は裕福な家庭環境で育った。それを目当てに俺に近づいたのか、と強は恋愛していた過去にまで猜疑心をぶつける。
「むすこは、蓮はなんて言ってるんだ」
イライラするストレスを溜めながら、強は多恵子に問う。ここを出て行ってから会うことのなかった息子のことだった。
「もちろん喜んでるわよ」
息子の名前、蓮。夏に生まれたからそう命名した。花言葉は「清らかな心」「神聖」。そしてもう一つの言葉「離れゆく愛」。そのとおり、とっくのとうに愛は離れている。けど、なにを今更――。
かれこれ20年。当時中学生だった息子も、もう35歳になるのか。俺も年をとるわけだ。強は58歳になっていた。
多恵子から度重なる催促の電話がくるようになった。
「貴方の子供なんだし・・・・・・私への慰謝料だと思えばいいでしょう」
勝手に出て行っておきながら、なんて言いぐさなのだ。なにが慰謝料だ。こっちが貰うべきだろう。強はあらぬ方向に進む会話に戸惑いを隠せずにいた。
しかし、これまで何もしなかった自分が悪いのか。さっさと縁を切るべきだった。強のイライラ、ストレスは絶頂に達していた。
もう関わりたくはない。部屋を一つ渡して終わりにしよう。
強は自分が今住んでいる、かつては多恵子と暮らした部屋を渡すことにした。あっちの方が広いのに、と多恵子はごねたが、両親の住んでいた部屋は強の故郷だ。たくさんの思い出が詰まっている場所。強はそこで暮らすことにした。
いろいろ面倒な幾多の手続きを済ませ、あと少しだけ残った届けを提出するだけになった。強は自らの煩わしい出来事に蓋をした。
やっとストレスを残すことなく、強は引っ越しを終えた。
腹が減っては戦ができん。まずは腹ごしらえだ。部屋の片付けもそこそこに強は買い物に出かけた。
かつて住んでいた街だから、スーパーへの道のりは知っている。ビールとレトルト食品、総菜数点をかごに入れレジに並ぶ。バーコードがスキャンされ、右から左のかごに移動される購入物を見ながら、会計が終わるのを待つ。レジを打つ女性の名札が見えた。最近は犯罪につながる可能性があると、名札廃止の店舗もあるようだが。
さじ? さじゆみ?
「ゆみ⁈」つい出てしまった強の声に、レジを打つ由実が顔を上げた。驚きを隠せない二人の目が合った。
数十年ぶりの再開でも、面影はある。それも思い続けた人であればなおさらだ。お互いに年齢を重ね、それなりに老いてはいるのに由実には強だと分かった。
由実と強が肌を合わせることに時間はかからなかった。いい年をして気持ち悪いと言われるのだろうけど、いくつになっても性的欲求はあるはずだ。あるのに隠している人が多いだけではないのか。
若い頃のように、ではなく、その年頃にあったやり方で快楽は得られる。私はいつまでも強さんの前では女でありたい、と由実は思う。
ずっと好きだった強さん。こうなることは夢だったよ。自分の殻を解き放ち、あるがままの自分でいられる、自由を伴う快感はこの上ない。肉体的にも精神的にも、私は強さんを求めている、と由実は感じていた。
" 由実は外観こそポッチャリ体系になっていたけれど、お兄ちゃん、と呼んで俺に纏わりついていたあの頃と変わらなかった。気兼ねなく気楽に、飾ることなく本音で付き合える女性だ" と強は由実を見直した。
由実が一度も行ったことがないというので、ラブホテルに入った。二人とも行為に及ぶことが久しぶりなので戸惑った。気恥ずかしさもありぎこちない始まりだった。会話も楽しみながら、少しずつ時間をかけていくうちに感情と欲望が解き放たれた。
強は精神分析の創始者フロイトの言葉を思い出した。性的エネルギーは生きる上での基本的エネルギーであり、さまざまな活動の原動力である、ということを。肌と肌のふれあいだけであっても心は満たされるということを。
灼熱の暑さを肌に受けながら、由実を送り届け自宅に戻った強のもとに多恵子に渡していた離婚届が届いていた。
強が倒れたとしたら、まず配偶者に連絡がいくのだろう。もし、由実と一緒にいる時でもそちらに連絡される。由実が懸念していた現実は、この最後の手続きですっきりする。
強と由実は蓋をしたパンドラの箱を再び開けた。
そこからは、あらゆる災いが飛び出した後、最後に残った古代ギリシャ語で「エルピス」と呼ばれる「希望」が現れた。
人類に希望が残された、とも、人類には希望にすがって生きる選択肢しか残らなかった、と肯定的にも否定的にも解釈されているエルピス。
これまで多くのものが失われた。強と由実はそれを乗り越え、互いを求めている。まだ前進できる。やり直せる。そう信じて寿命が尽きるまで頑張ろう。エルピス、希望だけは残っているのだから。
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