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虹がかかる日 by 吉田真澄

 電車と路線バスを乗り継いで、関電トンネル電気バスに乗った。
 長くて薄暗いトンネルを駆動用モーターとリチウムイオンバッテリー4パックを搭載した電気バスはゆっくり進む。
 車内は満席で、その目的地は観光放水が始まったばかりの黒部ダム。
 80人ほどの観光客がバスから降り立ち、目の前の看板を見ている。右に行くと220段の階段を上って、最も高いところから黒部ダムを一望できるダム展望台に。左に行くと60段の階段を下りて、ダムのえん堤に直接出ることができる、と書いてある。水をせき止めているえん堤は、橋のようになっていて観光客は最終的にここを歩くことになる。
 この看板からが分かれ道となり、どちらかに行かなければいけない。
 
 友美は220段と聞いて怖気づき、楽な方がいいと思ったが、篤志は体力のあるうちに、きつい方から行くのがいいと右側に向かう。仕方なく友美も篤志のあとに続いた。
 まだ数十段しか上っていないのに、友美には、この内階段は尽きることがないように長く感じられた。息が切れる。さらに上っていくと階段に、ここからあと120段、と表記されている。まじか。まだ半分以上ある。友美は疲れがどっと出た。
 山岳部でならした足腰丈夫な篤志には堪えないのか、軽やかに友美の先を行く。
「あっちゃん、待って。休もうよ」
 息を切らした友美は篤志の背中に声をかけ、階段途中の踊り場に設置されているベンチに座りお〜いお茶を飲む。
 展望台で友美にプロポーズをするのが目的の篤志は気が急いでいた。
 下から風が吹き天気の良い日には放流水に虹がかかる。今日は絶好の日だ。虹は恋の花を咲かせるご利益がある、と篤志は信じている。絶対に断られない。どうか断らないで。気弱にもなるが、信じる者は救われる、の心情だ。篤志はプロポーズの返事を恋花の虹にかけた。
 はい、と友美から手渡されたペットボトルを、隣に座った篤志はごくごくと飲んだ。
 
「お天気がよくて良かったですね。どちらから?」
ベンチの端っこに、ちんまり座っていたヨシが覗きこむように友美と篤志に声をかけた。
 友美が声のする方を伺い見ると、笑顔のヨシと目が合った。懐かしい。
いつも笑顔を絶やさなかった故郷の祖母を思い出した。生きていれば今年で83歳になっただろうか。こんな風に上品なおばあちゃんになっていただろうな、と感傷的になった。
「松本からです。昨日は雨で心配でしたけど晴れて良かったです」
 友美はヨシに答え、友美も「どちらから?」とヨシに問う。
「名古屋なんですよ。たえちゃんがね、連れてきてくれたんです。あ、たえちゃんというのは息子のお嫁さんで、多恵子さんというの。息子が単身赴任するまでは三人で住んでたんですけど、いまはたえちゃんと二人でね。たえちゃんとこは子供ができなかったから。いたらあなたたちくらいの孫がいたかもしれないわね」
 ヨシは考え深げに話を続ける。
「たえちゃんがね、最近いろんな所に連れて行ってくれるの。家にばかりいたら足腰が弱くなるってね。歩くのがいいんだそうです。この前は京都の清水寺、その前は六甲ケーブルにも乗りました」
「優しいお嫁さんですね」と、友美が言ったあとに「お義母さん」と声が聞こえた。
「あ、たえちゃんが来た。行くわね」とヨシが杖を手にして立ち上がる。階下に降りてきたあの人が多恵子さんか。ヨシを迎えに来たらしい。
 階上にスタスタと先を行く多恵子の後を、手すりにつかまり杖をついてゆっくり上る足の湾曲したヨシの後ろ姿を友美と篤志は見送った。
 
「そういえばさ、清水寺も六甲も階段ばかりだよな。清水寺はバリアフリーにはなってるけど、車椅子の貸し出しはないはずだし、六甲ケーブルに乗るにはエレベーターがないから階段。歩くしかないよな……」
 確かに歩くのは健康にはいいのだけれど、ヨシにはかなり負担なのではないかと篤志は気の毒に思った。
「元気なおばあちゃんだね。私も負けてられないわ。行こう」
 友美はあとひと踏ん張り、と残りの120段に向かった。篤志は目的に向かって奮い立ち、ボディバッグを握りしめた。
 観光放水が始まったせいか農協の団体客らしきかたまりが、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら上ってくる。娘がこいばなっていうから、台湾製の美味しい濃い味のバナナのことでしょ、濃いバナ、と言ったら大笑いされたわよ。恋の話なんだってー! 何でもかんでも短い言葉にするのよ、いまの若い子は。ガールズトークというらしいけど。私たちの世代は馴れ初め? 私たちにだって恋の一つや二つはあるわよね。とりとめのない話なのに何が面白いのか、キャーキャーと笑い声があがり、それでも足が止まることのない団体に友美と篤志は追い越された。
 
「すごい!」 
 友美はゼイゼイしながらも、黒部ダムを一番高いところから望めるダム展望台の広場につき感嘆した。まだ雪の残る立山連峰や大きな黒部湖。湖には観光船が浮かんでいるが、まるで絵に書いた点のようだ。広い世界がそこにある。自然の威力に心が洗われる。きてよかった。
「撮りましょうか」
 友美が篤志とのツーショットを自撮りしようとしていると、多恵子が声をかけてきた。友美は隣にいるヨシに気づき、さきほどは、と首を垂れ、すみません、お願いします、とスマホを多恵子に手渡した。
 もう少しこっちに。景色がいいですよ、と多恵子は立ち位置を教えてくれる。手慣れた様子だ。聞けば、自分は何度かきているけど、お義母さんは初めてだという。ヨシは、きれいなところですね、と友美に声をかけ、黒部湖方向を眺めた。 
 その眼には何が写っているのだろうか。友美には、ヨシがここにはない何かを、虚空を見つめているように感じられた。
 
 友美はふと気づいた。なんてこと。ここまで上ってきたということは、同じだけ下らなければいけないのだ、と。
 しかも今度は、レインボーテラスという観光放水に最も近づける展望台に、外階段を使って下りていかなければならない。螺旋状の外階段は鉄製で踏み板の幅が狭く、友美でも踏み外しそうになる。小雨でも降ったら滑り落ちそうだ。景色を見る余裕もなく、手すりをつかみ、恐る恐る足を運び篤志の元へ辿り着いた。
「とも、見て。虹」
篤志が指さす。二本の放流水を繋ぐように虹が見える。友美は、虹の架け橋だ、とパステルカラーのアーチを描く線を眺めた。
「結婚しよう」
 篤志は結婚願望がないのかと思っていた友美は、自分からは言い出せなかった言葉を篤志から聞いた。嘘じゃないよね。
「うん」
 友美は嬉しさで、言葉を失った。かわりに涙が感情を現した。
「これ」と、篤志はバッグから指輪を取り出し、友美の薬指に嵌めた。
 よかった。黒部に来てからずっと返事を聞くのが怖かった。
 まさか!が起こらなくてほっとした。篤志は恋花が咲いたことを虹に感謝した。
 
 82年も生きたのだ。ヨシは自らの先行きがそう長くはないと思っている。命ある者にはいつか終わりが来る。早かれ遅かれ、そうなるのは明らかだ。
 多恵子がいろいろなところに連れて行ってくれるのはありがたい。ありがたいのだけれど、ヨシは億劫になる時もある。多恵子に健康のためよ、と言われると体が辛くても断ると悪い気がして出かける。今日もそうだ。多恵子のうわべだけの優しさにヨシは惑わされていた。
 ヨシは、赴任から戻る息子と、また一緒に暮らしたいと願っていた。
 そして息子に看取られて、虹の彼方の冥途に色鮮やかに咲くという花々の景色を見に旅立ちたいと考えていた。
 それまでは元気にいなければ。今ここで階段から落ちるわけにはいかない、と一歩ずつ慎重に外階段を下りる。
 やっとレインボーテラスについた。多恵子はすでに先を行っているのか姿がない。ヨシはひと休みする。
 先ほどのカップルがいた。息子に似ている、と見かけたときから思っていた男の子。女の子は手のひらを空にかざしている。その手の指輪がきらきらと光り輝いている。それを見ている二人の満面の笑顔。とてもいいことがあったようだ、とヨシは嬉しくなった。幸せのオーラは周りをも魅了するものだ。
 
 夫の単身赴任もあと少しで終わる。そうしたら二人で旅行をしたり、赴任中にできなかったこと、たとえば外食にでかけたり、をしたいと多恵子は待ち望んでいる。
 でも、そのころには義母の看病や世話をしなければいけなくなるかもしれない。そうして自分も夫も年を取っていくだけになるのか。それは嫌だと多恵子は身震いする。
 夫はことあるごとに、かあさん元気か、よろしく頼むというけど、多恵子のことはおかまいなしだ。かあさんが、かあさんに、かあさんを、と義母ばかり気遣う夫。多恵子はそれが気に食わない。
 夫が小学生の時に義母の連れ合い、つまり夫の父親が他界し、義母は女手一つで夫を育てたらしい。それが何だというのか。
 たまに帰省すれば恋人みたいだし。もっと私を見てよ、と多恵子は義母に嫉妬する。
怖いのは嫉妬する人間の心だ。多恵子の心は自ずと道を外れていく。お義母さんがいなければ……。
 
 えん堤の中心、ほぼ真ん中あたりで多恵子は消え去る虹を見た。
 コツコツと杖の音がする。振り返ればヨシが、さっきスマホのシャッターを押してあげたカップルと歩いてきた。
「虹、きれいでしたね」と友美が屈託なく多恵子に話しかける。
「義母(はは)をありがとうございます」と、多恵子は優しい嫁の声で篤志に礼を言う。
 ——ちっ、今日も落ちなかったのか。
 多恵子は心の中で舌打ちをした。

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