女装トランスジェンダー回顧録 続・とおくのまち 1

わたしに帰れる日

やっぱり、わたしは、わたしである。
戻りたい、還りたい。『レイカ』に。
何処にいたとしても、わたしのこころはそこにしかない。
なにもかも、引き換えにしたって、きっと。
わたしは、そこへ還るだろう。
たとえ、どんな批難が浴びせられようとも、
茨の道が待ち受けているとしても……。
行きたい方向にしか道はない、
行くべき先にしか歩き出せない。
わたしがわたしになるために、
自分が自分でいるために。

まいるーむ、それがわたしの拠点となりました。
新しくはじめたバイトは夕方から夜中までが勤務時間。
勤務先から実家までは遠く帰るのは危険なので、
すぐ近くにある まいるーむ で暮らすことになった。
夜中でもここなら自転車でなんとか通えたのです。

面接では首尾よく内勤のよい部署に採用される。
かつての経歴が効いたと思われます。
金券のようなものを扱う仕事をすることになりました。
性同一性障害のことははっきりと言わなかったけれど、
女性ばかりの部署に配属された。
しかし、部署の上司は男性で、逆にまわりが女性ばかりなので、
高いところにあるものを取ったり、ちょっと重そうな荷物を運ばされたりと
余計に男性であることを強調されるような場面もあって困惑しました。
頼られるのは、悪い気はしなかったけれど。
短期のバイトだったので、がんばって長期採用されることをめざしていました。
人一倍も二倍も努力した成果はあって、部署でも人気者になったし、
晴れて長期採用が決まったのです。
課長から呼び出され、正規採用の条件として、長い髪を切ることを求められます。
……が、切らなかった。
もしか従っていけば、事務系の仕事に行けたのかもしれない。
残念なことに部署は転属となり、裏方のなかでも裏方な仕事、
まさに荷物運びというようなところに回されてしまいました。
ここに所属しているバイトたちは、一癖あるような感じで、ニートがなんとか嫌々出てきたような兄ちゃんとか、病院通いの年配のおじさん、体育会系のすごく仕事のできるのにコミュニケーションがまったくできない青年など。わけありチームみたいなところ。
会社として表舞台には出せないけれど、職を求めてやってきた人たちの居場所。
当時の自分はお兄さんかお姉さんかわからない雰囲気だったので、わたしも、たぶん、わけありな人だと思われていたのだろう。
ゆうぱっくの仕分け作業なのだけれど、莫大な数量、しかも、小物だけではなく、けっこう重い物が多い。仕分けといっても、頭を使いながらの荷物運びのようなもので、せっかくホルのおかげで白くてほっそりしたはずの腕にまた筋肉がついてしまわないかと悲しかったです。

この頃は、女性として社会に出てみたいということに意欲が向いていました。
オタクな趣味のサークルにも入っていました。(もともと男性として所属していたので、途中からカミングアウトという形になります)

会合への参加やイベント、時々ある飲み会に参加しました。
もちろん女性の恰好です。この頃は、ふだんからそういう風にして暮らしていたので、当然、そうするのが当たり前だと思っていたから。
みんなも、ふつうにそうしているわたしを見て、正しく性同一性障害の人という認識をしていたというよりは、そういう概念がまだ社会に浸透していない時代だったから、たぶん、
水商売か何かのニューハーフのひとだと認識されていたように思う。
会合のあとタクシーとかに乗ると「今から出勤?」とか「お店に遊びに行っていい?」とよく聞かれました。
サークルのメンバーは男性ばかりだったので、紅一点のような立場でアイドルやマスコットガールのような存在となり、サークルのイベントでは受付嬢を任されたりして、けっこう楽しかったなぁ。
サークルのみんなも飲み会の帰りに送ってもらった時に、まいるーむにも遊びに来たりして、和気あいあいと楽しく過ごしていた。

リアルライフテストやリアルライフエクスペリエンスの一環というわけでもないけれど、サークル活動への女性としての参加のほかに、いろんなことをやってみました。
水曜日限定の映画館のレディースデーに行ってみたり、美容院などにもふつうに女性として行けるかなぁとか。
ほかには、コンビニチェックやココイチチェックにもチャレンジしたなぁ。
これらは、厳密なテストとはいえず、なんとなく雰囲気でという感じだから、本気でトランスする者としては、気休めというか遊びみたいなものかもしれない。
女子トイレの使用という場面は、やっばり緊張したし、失敗すると怖いので、かなり気を使った。遊びでもなければ、テストなどではなく、実戦だった。
身体や戸籍の性別が男性である以上、
もし変質者と思われて通報されたり取り押さえられたりする危険性もあるわけで、念のため性同一性障害の証明書をお守りとして鞄に入れておいたりもしていたけれど、
やっぱり、そんなことになると、痴漢騒ぎの冤罪というより、なにより「男」と見なされたショックのほうが大きくて、心にものすごい傷をのこすだろう。
今まで幸い無事にやり過ごすことが出来たのは、女性として見てもらえたというよりは、ただ運がよかっただけ。
これも今では十年以上前の話だし、
最近の社会情勢は、情報が過多になっていることもあり、性同一性障害のことが世間に認識されれればされるほど、さらに女子トイレ問題は厳しい状況になっているみたいですね。
議論されればされるほど、注目される。
見た目重視主義と、身体の性別重視主義の論者たちの激突は熾烈を極める。
性別の怪しきものは、多目的トイレの使用という落としどころはあるものの、決着はつかない。
近況、わたしもこの話を知ってからは、万一、トラブルに巻き込まれてもなんなので、多目的トイレを使うようにしています。
性同一性障害というものがあまり知られていなかった時のほうが、当事者にとって女子トイレを使いやすかったというのも皮肉なことかもしれない。

わたしの私見ですが、
女子トイレを使っていたころ、一度もトラブルはなかった。
わたしは背も高いし、この身長ではとても女性には見えないと思う。
けれど、トラブルが起きなかったのは、当時の女性たちは、トランスジェンダーをそれほど意識してなかったはずだし、「女性」か「トランスジェンダー」かという判断よりも優先して、「無害」か「危険」かという本能レベルの判断をしていたのじゃないかなぁと思っています。
わたしは人気のないトイレや男性用のトイレでは、むしろ自分がなにかされないか怖いです。危険を感じる側の者ですから、あまり女性たちに「危険」を感じさせることもなかったのでしょう。
犯罪をおこしそうな女装の男性は、トランスジェンダーかどうかという以前に、なにか怪しげな雰囲気を醸し出していたりするんじゃないかなぁ。
人間も動物、ほんとうは危険を察知する能力はあったはず。
ただ、本能というか、勘だけでやっていくには、もう今の世界では社会的じゃない。
だから、こんな時代になってしまったからには、なにかちゃんとしたルールは必要になるでしょう。


こんなリアルライフの経験を積んだ話のなかでも、いちばん、こころに残っているのは、女性として音楽教室に参加したことです。
ほんとうは、女子生徒として学校に通いたかったという果たせない夢があったので、規模はちいさいけれど、女子生徒として街の音楽教室に通っていました。
楽器は苦手だったけれど。
嫌いなんじゃなくて、ちゃんとやるのを避けていたから苦手になった。
自分たちが子供の頃は、ピアノや笛やコーラスなんかは女性がするものというイメージが横行していたから、子供の頃の自分は、無意識に、女性的なイメージのものを遠ざけるようにすることで、本当の自分を隠し続けてきた。
自分の正体を知られては、いけない。知られるのが、こわかった。
隠していても、時々、「女の子みたい」といわれることがあった。
もしばれたら、魔女狩りでつるし上げられるのを恐れて正体を隠す「魔女」のようなものだった。
ほんとに皮肉な少年時代でした。ほんとうは早く女性になりたくて女らしくしたいのに、それを隠すために、より男性らしく振舞わないとならなかったなんて。
だから、思いっきり音楽にチャレンジできるこんな機会がやってきたのは、とてもうれしく、まさに、長い冬が終わり、春がやってきた気分だったのです。

担当の先生は、自分よりもずっと若い女性でした。
とても明るい性格で活発なひとなので、こちらも助かった。
性同一性障害って説明はしたと思うけれど、どうも水商売かなにかの
ニューハーフさんだと認識されていたかと思う。
わたしもできるだけ、明るく振舞うようにしていたし、教室の
スタッフさんたちや、ほかの生徒さんたちにも明るく接した。
そのせいか、こんな性別と恰好なのに、けっこうみんなも和気あいあいと
コミュニケーションできた。
先生の出演するライブを見に行ったりもした。ひとりで行くのは心細いので、よくLちゃんを誘って一緒に行ったけれど、Lちゃんもニューハーフのお店の同僚さんだと思われていた様子です。
ほかのクラスの生徒さんたちでグループ授業の女の子たち三人組が居て、
先生と飲み会をすることになり、なぜかわたしも誘っていただいた。
女子会みたいな雰囲気で楽しかった。よい経験でしたね。
楽器はそんなに上達はしなかったけれど、何曲か人前でも吹けるくらいにはなった。
入門用のテキストに載っている簡単な曲はがりだったけれど。
教室の近所にカレーが美味しいカフェがあって、そこで生徒たちによる発表会を兼ねたライブが開催されることになって、わたしも当然、参加することになったのです。
カラオケボックスにこもって練習に練習を重ねた。
そして、なんとか、ライブに参加して無事に演奏できた。
とても達成感がありました。
ライブで自分が演奏したのは、その一回だけである。
それで、満足したのか、先生も転勤したし、いつのまにか教室には行かなくなったました。


つづく

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