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自虐史観の鎖を断ち切れ ~対K国編~

序文 ~近隣諸国条項~

歴史を見ると、日本国は古くからお隣の大陸や半島と交流・交易を行っており、ときには戦争などで軍事介入していました。誰もが学校で教えられてきたものですね。

しかし、教科書による教育では、表面的な出来事のみで、ただの暗記型教育になってませんでしたか?大事なことは、当時の考え方、生き方から学ぶことだと私は思っています。学び得た知識がその人の思想を生み、人格を形成し、未来と国家をつくるからです。

「隣国同士仲良くしないといけない」、「過去の過ちを反省しなければならない」などという意見を持つ、そのことは大いに結構です。でも、その根拠を、よく見極めたのだろうか?感情的に反応することは人間なら当然ですが、冷静に判断できるのもまた人間なのです。

さて、近隣諸国条項なるものを皆さんはご存知でしょうか?

近隣諸国条項とは、1982年に中学高校の教科用図書検定基準の中に定められた条項です。何が追加されたかというと、
「国際理解と国際共助の見地から必要な配慮をすること」即ち、「歴史を記述する際、近隣諸国に関する配慮をする」規定です。

極端な話、日本の歴史に他国の主張を取り入れること変更されることが、可能ってことです。これは明らかにおかしいと、思わないといけないところです。なぜおかしいのか考えてください。逆に、肯定するのなら、自虐史観に囚われている考え方があると疑います。教育では客観的な事実を伝えるものであって、主義心情を訴えるものではないはずです。相手を考慮しすぎて事実を教えない、なんて間違ってると思います。刷り込み教育、洗脳プログラムとして利用されかねない、そんな疑心まで生まれてしまいます。

(近隣諸国条項の問題点)

「近隣諸国との外交関係に配慮する」と言う政治的理由、実は中国・韓国・北朝鮮たった3ヶ国でしかないのです。それらの国々の主観に基づく歴史観に日本が飲まれかねない(事実が歪曲させられる)制度が、果たして「国際的な客観性や理解」を得られるのですかね。近隣諸国である中国・韓国・北朝鮮の教科書作成に関しては、同様の規定がないので、日本のみが記述を変更させられます。またこの条項を利用した外交干渉も懸念されます。

国会での議論を1つ抜き出してみましょうか。

令和2年3月10日参議院文教科学委員会議事録より
参議員 松沢成文(維新の会)の質

“教科書図書検定基準には、近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地が必要な配慮がなされていることという近隣諸国条項があります。これ、時は遡って1982年、このときに、日本の教科書検定で侵略をたしか進出と書き換えちゃったんじゃないかという誤報がマスコミに全部広められて、誤報ですよ、これ、そうじゃなかったんだから。それで、中国や韓国がわあっと大きな声を上げたので、それを収めるために、近隣諸国条項というのを作りましたから御勘弁くださいとやっちゃったわけですよ。
これ、その後どうなったかというと、もう外交のツールに使われちゃったわけです。これを使って日本を脅せばこっちをいただけるぞ、国際政治というのはそういう場所ですからね。
これ相互主義で、韓国にも近隣諸国条項が、韓国にも近隣諸国条項があって、中国にも諸国条項があって、日本の言い分も配慮して教科書を作ってくれるというなら相互主義でまだ分かりますよ。なぜ独立国家日本が、日本の歴史に関して近隣諸国にお伺い立てることを最優先しますなんということをルールとして定めておかなきゃいけないんですか。”

これに対し政府見解は”見直しを検討している”らしいのですが、近隣諸国条項を保持する意向と、対外的には求めない意向を令和2年6月に当時の安倍首相は回答されています。

こんな背景も知らずに、学校で子供たちは授業を受けているのが現実なのです。私は”無知が危険である”と言いたいのです。自虐史観のような間違った方向に行く前に知っておくことは、重要だと思うんです。

【日清日露戦争の火種は朝鮮】

朝鮮半島とくに韓国に関しては、ネット上で情報がごまんと転がっており、話題に尽きない状況です。韓国起源説とか檀君神話とか・・・それらをいちいち正していくのは、さすがに骨が折れますのでニュース系チューバーら他の人に任せます。

私はネックとなる根本を見ていくべきかなと考えてます。

半島が服従の歴史であったことは、周知の事実ですよね。中国王朝だったり北方の騎馬遊牧民族だったり。そんな支配者に従属してきて、やっと独立できたのは、1948年のことです。(ただし、自身の手によらず強大な2国のおかげで独立できたんですがね)

朝鮮人が独立して国を維持するのに必要だったのは、民族としてのアイデンティティーです。今まで大国に朝貢して属領として存続してきたのもアイデンティティーだったのかもしれません。朝鮮における独立では、「自分たちのみの力で国を誕生させた」と自覚させるため、もしくは国民を従えるために持ち出したのが、壮大な建国の嘘ストーリーであったと私は思うわけです。

壮大な嘘ストーリーに触れる前に、歴史を復習しましょう。知ってるよ、っていう方は読み飛ばしてください。

金玉均という人物がいましたが、彼は高宗の王命「勅命」を受けて1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の世話になっています。開化思想を持ち、1884年にクーデター(甲申政変)を起こしますが失敗。のちに彼の死を知った福澤諭吉は、新聞に寄稿した脱亜論(1885年)で、半島民族というのを的確に分析しています。

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朝鮮領内の農民反乱から発展した日清戦争(1894~95)で、日本が勝利し宗主国から解放された李氏朝鮮は、平和になったのかと思えばそうでなく、内乱が次々と起こってます。そのたびに自国で解決してきたわけでなく、他国に頼る場面もあります。ここで脅威となってきたのがロシア帝国でした。ロシアは不凍港が、とにかく欲しかったのです。ロシアが南下することは予見できていました。英国と同盟を成立させた日本が当時恐れていたのは、大国ロシアだったのです。

1895年 乙未事変 第26代国王・高宗の王妃であった 明成皇后(閔妃)が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人の共同で暗殺されました。

1896年 露館播遷 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込む事件がありました。(約1年間、王朝不在となる)

1897年 高宗が大韓帝国と国号を決めました。

(国号について)

朝鮮半島南部に居住していた人々をと言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓が三韓とされてます。(7世紀には高句麗・百済・新羅三国を指す名称として意味が拡張して使われました)

また、明王朝から下賜された「朝鮮」の名を捨て、属国でない意を示し、「帝国」は、中国の「皇帝」を意識した、それまでの支配体制を変革したことに由来するのです。

<併合前の南大門>↓当時の朝鮮は、不衛生で有数の貧困国でした。貨幣の流通などなく物々交換の時代です。庶民の識字率は低く、名前すら持っていなかったそうです。貴族階級の両班から強制労働させられ、搾取が続いていました。なんと当時の平均寿命は24歳でした。

大韓帝国


この不毛な地に、ロシア帝国の介入が目立つようになり、ロシア帝国は朝鮮における、森林伐採権や鉱山採掘権、関税権などを手にしていました(のちに日本が買い戻して回復させてます)。満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除を目指すようになります。対して日本は強国ロシアの脅威を感じ、満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでした。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調したので、交渉はうまくいきませんでした。

朝鮮内でも分断は生まれました。

<両班の写真>↓

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1904年(明治37年)2月23日、日本は大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結しました。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとしたのです。一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していました。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わります。

日露戦争後、半島はどう処理されたのでしょうか。

日露戦争の終結時になると、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓公使はマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示しました。マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告しています。ランズダウン外相、バルフォア首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認しました。

1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、桂・タフト協定を結びます。

以上より、英米の承認を得た日本では、対外的な利権獲得に乗り出していきます。1905年9月、ポーツマス条約を締結しましたが、ロシアからの賠償金は得られませんでした。日本は戦時中の増税で国内の景気は悪く、高橋是清による国債発行の政府債務(出資者はユダヤ系財閥ロスチャイルド家の代理人、ジェイコブ・シフ)が20億円にも膨れ上がっていました。打開案として朝鮮の地を活用する考えが強くなっていきました。(征韓論)

【1910年 日韓併合】

ロシアの後ろ盾をなくした高宗は皇室利益を守るため、日韓協約の締結を推進しており、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結されました。この協約によって、事実上、韓国は日本の保護国となり、外交権は日本に帰属することになりました。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。高宗は抵抗を試みるが失敗に終わってます。1907年のハーグ密使事件などの混乱を助長した高宗は廃位され、7月には子の純宗が即位しました。24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に移譲しました。

1909年 安重根によりロシア支配下(清からの租借地)ハルピン駅で伊藤博文が暗殺されました。これを受けてロシアは無実を証明する為、日本に協調する態度を取ります。日本国内でも征韓論が勢いをつけていった時でもあります。

1910年(明治43年)統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印されました。

これにより大韓帝国は消滅し、1945年まで日本による統治が続きます。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置されました。明治天皇は「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」を発して、韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じ、梨本宮方子(まさこ)様が大韓帝国最後の皇太子李垠の嫁になりました。

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併合による政策は詳細を省きますが、各種インフラ整備して発展したのは事実です。教育も戸籍も電力も郵便も整備されました。他の列強による植民地支配とは一線を画していたのです。一方的な労働による搾取なんかではなかったのです。日本からは膨大な税金の投入と人材派遣により、現地での生活は向上し、国は近代化したのです。

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身分制度が一新されたせいで、恨みを持ったのは両班たちでした。両班とは李氏朝鮮時代の貴族階級で、東班(文官)と西班(武官)の2種の官僚たちを意味します。当時の身分階級は固定していて、両班は贅沢な暮らしをしていたそうです。両班からすると特権を奪われた結果になるのです。

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歴史に”もし”は無意味だけど、日本が統治しなかったら、かの地はどうなっていたでしょう?ロシアに蹂躙され、再び属国の道を繰り返していたかもしれません。さらに、真に自立できる道(近代化)を作ったのは日本だった、のかもしれません。しかし昨今のK国の対応を見るに、日本は手を貸すべきではなかったとも思えるし、諭吉さんの脱亜論が正しかったとも思えます。

なぜ、反日の思想が根強く今もなお、ファンタジーな教育が行われているのでしょうか?それはやはり、建国のストーリーにあると思われます。

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【大韓民国の建国】の嘘

『文在寅政権は韓国の建国年を1945年ではなく1919年であると主張』
『「韓国は日本と戦って独立を勝ち取った」という認識が韓国の国民に広がりつつある』(2020年BSフジプライムニュース)

こんな壮大な嘘、歴史歪曲を堂々と言う文政権。どうして信じれるでしょうか。建国時の歴史をみてみれば、大ウソだとわかるはずです。

朝鮮半島はソ連の平壌侵攻(1945年8月)後、アメリカの提案で北緯38度で国境を設けました。また、1945年12月モスクワ三国外相会議では、5年以内に独立させることが決まっていました。第2次大戦の終結とともに、日本統治が終わる代わりに、南は米、北はソ連の支配下に置かれました。反対運動も起きましたが、鎮圧されてます。

1948年4月には済州島四・三事件と呼ばれる反乱が起きました。済州島で蜂起した武装隊は鎮圧されましたが、女子供含む島民への虐殺がありました。(犠牲となったのは2.5~3万人だそうです)

1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮の(中国共産党軍やソ連軍に属していた)朝鮮族部隊がソウルを陥落させましたが、国連軍(多国籍軍)によって再び押し返され、休戦状態となり、38度線が維持されたのです。

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両班出身の李承晩は、1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言し、議会多数の支持を得て初代大統領に就任した人物です。

建国に関して、日本は一切関わっていなかったにもかかわらず、韓国の捏造は、日本に対する両班からの恨みが相当強ったのではと、推測しています。

アメリカは、敵国日本を抑えるのに反日指導者である李承晩が適格と踏んだのでしょう。李承晩はその後独裁政権と化し、今までの制度を捻じ曲げて、大統領任期を延長しています。このときは、日本の統治時代を具体的に知っている韓国国民が大多数いました。しかし、政治的弾圧を受ける親日派は、社会的に抹殺されていきました。国策に協力していた財閥や企業であっても、その多くが李政権下で重用されたり政権の支持基盤となるなどして寝返っていったものと考えられます。

今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述までも書いてあるくらい、反日一色なのです。(著者の主観が教科書に載る時点で・・・変ですよね)

彼以後の歴代大統領が、支持率が下がったときに反日政策を大々的に打ち出してくるのは、悪しき慣行になっています。日本が相手にしなければ、その効果もないわけでして、韓国民にはいい加減、理解してもらいたいところですが・・・。

1952年1月18日には「海洋主権宣言」を行って、李承晩ラインを国際法に反して一方的に宣言しました。同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに,そのライン内に竹島を取り込みました。このラインが撤廃(日韓基本条約)されるまでの13年間に、日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりしたそうです。

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『「李承晩ライン」の設定は,公海上における違法な線引きであるとともに,韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠です。韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は,竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく,竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに,その撤回を求めてきています。』

↑↑これが外務省の姿勢です。国際裁判所に申し出ても韓国は拒否ってます。建物建てられようが、上陸されようが ”遺憾” としか言えないのが政府。なぜなんでしょうか?

日韓で合意された条約の存在、これが大きく影響しているのでしょうか。

日韓

1965年に佐藤栄作首相と朴正煕政権の間で「日韓基本条約」を批准。その中核である日韓請求権協定は,日本が韓国に5億ドルの経済支援を行うことで、両国及び国民の間での請求権を完全かつ最終的に解決したとする内容です。なので両国の国、国民(法人を含む)の財産・権利及び利益・請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決」されており、いかなる主張もすることはできない(第2条)ことを定めており,これまでの日韓関係の基礎となってきました。当時の韓国の国家予算は3.5億米ドル程度、日本の外貨準備額は18億米ドルであったことから、その額の膨大さがわかります。韓国は、ベトナム戦争で、アメリカから得た10億ドルもの戦争特需と、この日本からの経済協力金を原資として、国内のダムや高速道路を整備し、「漢江の奇跡」を成し遂げたのです。つまり、慰安婦や徴用工の賠償金に十分充てていなかったという、あちら側の問題とも言えるのではないでしょうか。

その後も幾度となく日韓の間では会談が開かれ、(宮澤喜一・村山富市・河野洋平など)日本側は謝罪しています。まさに自虐史観の表れだと思います。”謝罪する”のであれば、私なら、”日本統治によって近代化し、韓国を発展させてしまって申し訳ありません”と、言うかな。


そして何より、韓国は日本と戦争はしていないし、戦勝国ではありません。むしろ、労働や徴兵などで日本に協力していた国とも言えます。日本が撤退してからの次の支配者はソ連とアメリカでした。半島を分断した2国に対して、現在まで特に何も声を上げない彼ら、理不尽だと思いませんか。

1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができませんでした。

【朝鮮民主主義人民共和国】の嘘

通称、北朝鮮。朝鮮労働党による事実上の一党独裁体制下で、実質は社会主義国家です。最高指導者は金日成、金正日、金正恩と親から子への世襲が続いています。

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「金日成」というのは英雄将軍の名前らしいです。本名は「金成柱」で平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に金亨稷(キムヒョンジク)の長男として誕生しました。共産主義の活動家のときに「金一星(のちに日成)」と名乗ったそうです。

“伝説の”金日成将軍(参考:早乙女貴美子「金日成、金正日の独裁国家形成の過程」)

 北朝鮮の公式伝記によると、金日成将軍は1932年~45年までの間に日本軍と10万回の戦闘を繰り広げ、全勝したとされる人物です。いったい1日に約20回もの戦闘をどのようにして戦っていたのというのでしょうか。また北朝鮮の公式発表には、息子・”金正日の出身地は北朝鮮の「霊峰」白頭山の野営地である”ということになっています。金日成将軍は朝鮮半島で日本軍と戦っていたとされているのに、息子がソ連で生まれたのであっては辻褄が合っていません。

北朝鮮による公式文書では「抗日遊撃隊(パルチザン)を率いて1945年8月に日本を打ち破って凱旋将軍として帰国した」=「金日成が日本軍を打ち破った」とある。

しかし、ソ連の明かした資料によると・・・

「金日成はソ連軍が北朝鮮を占領して1ヵ月後の1945年9月にソ連極東軍大尉としてソ連の軍用船で元山(ウォンサン)に上陸した」・・・とある。

つまり、  ✖ 金日成が日本軍を打ち破る ではなく 〇 日本が連合軍に降伏した後、ソ連軍によって北朝鮮に連れてこられた ・・・ということである。

北朝鮮もまた、壮大な嘘だったと、お分かりいただけましたか?金日成、彼もまた、李承晩と同様、担がれて国の最高指導者となりました。集会で「偽物だ」と叫んだ町民が射殺されたりもしています。最近の金正恩氏の影武者らしき映像にしても、一目でバレバレなはずなのに・・・なぜ、国民はあれほどまでに熱狂し妄信し、”将軍様”と崇められるのかは、私には正直理解できません。

まとめ】

半島国家の北にしても南にしても、嘘を国民がとことんまで信じていて、愛国心を保ててるのには、ある意味称賛に値します。日本にはないものですから。今の日本人は国のため、なんて思う人は少ないでしょう。(そもそも、いまの日本国自体、腐敗政治のせいで壊れてきてますがね・・・)

「歴史認識が国民の思想を支配している典型的な例」がまさに半島の国家ではないでしょうか。だとするならば、私たちは今なお、それを目にすることができる、ということです。しかしそれは、日本も同様なのです。逆の立場、他国の人から今の日本人を見た時にどう映るのでしょうか。見方によっては、貧困化している日本人が哀れな人種に見える ことになりませんか。

勤勉、まじめ、親切、などなどイメージとして定着していた日本人像。この先どう変化していくのかは、個人個人に関わってくるものだと思います。

でわまたお愛しましょう~

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