モノをなくすのはなんのため?
突然だが、私は昔からどこか抜けているところがある。
昔から、「そこそこ勉強もできますし、しっかり者ですよ」みたいな顔をしながら、実情はポンコツという言葉がふさわしい人間である。方向音痴、無くしものをする、忘れ物が多い、遅刻しがちなどなど、ポンコツ要素のフルコンボだ。
「自宅で映画を見ようと思って眼鏡を探し始め、見つかったころには映画が終わっていた」など、エピソードを上げればきりがない。
その一方、私の今の恋人は私とは真逆の人間で、典型的なしっかり者というやつだ。方向感覚が優れていて、計画を立ててその通りに実行することが得意。物の置き場をきちんと決めていて、彼の部屋はいつもピシっとした空気に包まれている。
そんな彼は私が物をなくしてあちこち探し回っているようすを見るたびに、「時間がもったいない」という言葉を口にする。
確かに、はたから見れば滑稽な様子であるし、無駄な時間だろう。誰かが言い出した説によれば、人は年間150時間もの時間を無くしものを探す時間に費やしているのだそうだ。娯楽にまで効率を求める現代社会では、自ら所有物をなくしてそれを再び見つける時間など、無駄以外の何物でもないのだろう。
しかし、ポンコツ仲間ならわかってくれるだろうと信じているが、忘れ物が見つかったときの多幸感は他のイベントでは味わえない感情なのである。
私の所有物の中で、「宝物」と言えるものはいくつかあるが、その一つがネックレスである。大切な人の遺骨が入ったネックレスで、風呂に入るとき以外は常に身に着けている。このネックレスをなくした経験が、今までで2回ほどある。
しばらく探しても見つからず、半ばあきらめた時(そういうときに限ってなくしものというのは姿を現すのだが)、予想もしていなかった、しかし「そうだよな。あるとしたらここなのにどうして思いつかなかったんだろう」という場所から姿を現したネックレスを身に着けた時。
あの時の安心感と、幸福感は他では味わえないものである。マイナスがゼロに戻っただけ、などとは到底思えない。今までどうしても手に入れられなかったアイテムをようやく手に入れたような感覚だ。
2時間かけて見つけた眼鏡をかけて眺めるエンドロールは、いつもよりも輝いて見えるのである。