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『ネオ万葉』読解
序
あらゆる芸術ジャンルの現存する作家のなかで自分がもっとも敬愛するアーティストであるネオ漫画家横山裕一が万葉集を原作とする新作を制作していると知ったのは、たしか2018~19年頃だったと思う。当時自分はちょうどオートマティスムの手法で描いたドローイングに古の和歌を組み合わせることによって「一コマ漫画」を作るという試みをしている最中であり(後に《1(+31)》として完成)、その偶然の符号にたいへん驚き、そしてコーフンした。通常ならば制作中の自分の作品と同じようなことを他の作家もやっていると知ったら疎ましく思うところだが、それが横山裕一ならば話は別だ。自分のほうが氏の作品を敬愛するあまり無意識のうちにシンクロしてしまったのだろうと勝手に納得してしまった。なによりも「万葉集を原作にした横山裕一の漫画」だなんて、自分の作品をさておいても、どんなものが出来上がってくるのか期待に胸膨らますなというほうが無理なのである。
それから4年以上の月日が経ち、先日ついにその新作『ネオ万葉』がパイ インターナショナルより刊行された。一読驚嘆、膨れ上がった期待のさらに上を行く大傑作である。和歌と漫画がどのように組み合わされているかが最大の関心だったが、その組み合わされ方は一様ではなく、想像していたよりもはるかに実験的な作品になっている。
これはすぐにでも国が国宝指定して全国民が読むべき作品だと思うのだが、やや懸念されるのは「和歌が使われている」というだけでハードルが上がったように思われて敬遠される向きがあるのではないかということだ。そうした傾向が存在することは過去に自分の作品に対する反応からもよく知っている。本来ならば和歌が使用されることで門戸を狭めるのではなく、逆にそのことによって横山裕一ワールドが今までその魅力に気付かずにいた層にまで拡張されるといった効果こそが期待されるべきだろう。
その一助になれるかどうかはわからないが、ここでは同じような試みをしたことのある人間として、本書において主に和歌と漫画がどのように組み合わされているのかを制作者目線で読み解くことによってその効果を検証してみようと思う。「和歌の選び(ばれ)かた」をおおまかに三つのタイプに分類することによって22編ある多様な作品群を整理し、個々の作品のなかで和歌がどのような役割を果たしているのか詳しく検討してみる。
タイプA(和歌が先に選ばれている〈と思われる〉もの)
「八十島」、「月下」、「滝」
「古典和歌を題材にした漫画」と言われて最初に思い浮かぶのは和歌の内容(ストーリー)を漫画化したものだろう。「万葉集を原作にしたネオ漫画」と聞いて自分が最初に想像したのもこのタイプである。そして本作22編のうち、それにもっとも近いのは「八十島」、「月下」、「滝」の三篇のように思われる。それぞれ4,6、7ページの短編である。
「八十島」は「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよあまの釣舟」という百人一首にも採られている小野篁の古今集歌の漫画化である。オリジナルの歌は篁が隠岐に島流しになる際に自身の悲痛な心情を詠ったものだが、ここではそのような背景は一切無視されて歌の言葉上の意味だけが忠実に漫画化されている。横山裕一流の八十島の表現が面白い(なぜかみんな三角形の島)。漕ぎ出でる船は先頭にプロペラが付いたボートである。
「月下」は「萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ」という鎌倉幕府第三代征夷大将軍源実朝の有名歌が金塊和歌集(実朝の個人和歌集)より採られている。描かれる花は萩には見えないが、それ以外はこれも歌の内容を忠実に漫画化している。要は昼間に見た花を月下のもとで再度見ようと夜訪れるともう枯れてしまっていた…というだけの話なのだが、花の咲いている空き地や登場人物二人(彼らの関係は?)が住んでいる屋敷、月の表現など、怪しげな雰囲気の漂う世界観がどことなく歌の雰囲気にも通じるようで面白い。
「滝」は藤原公任の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」という百人一首にも採られている千載和歌集(七番目の勅撰和歌集。選者は藤原俊成)の収録歌が元になっている。かつては有名な滝があったが今は枯れてしまってただの崖になってしまった場所をそれを知らずに見物客がひっきりなしに訪ねてくるという内容。ラストに滝の前で待機している二人の男(番人?)がその有名な滝の名前を知らないというオチが付くのだが、それが歌のなかの「名こそ流れて」の部分の解釈のようにも思えて興味深い。
この三篇はどれもワカリヤスイかたちで面白く、この路線の作品だけで編んだ作品集を読んでみたいとも思ってしまう。三篇とも冒頭に和歌が提示されストーリーが展開していくというストレートなかたちをとっているが、注目すべきは採られた和歌がどれも人口に膾炙した有名歌であるということだろう。篁と公任の歌はどちらも百人一首歌だし、実朝の歌もともすれば百人一首に採られた歌よりも広く知られているくらいの有名歌である。そして三首とも万葉集ではなく平安時代以降の和歌集から採られていることも注目に値する。
その理由として考えられるのは、これらの作品の面白さの基礎がパロディにこそあるからではないだろうか。原作の和歌から想像される世界観と、歌の内容に忠実ながらもそれとはまったくかけ離れた横山裕一流の奇妙奇天烈な世界観とのギャップこそが可笑しみを生むのだ。三首とも古くから知られた和歌なので歌より想起されるイメージは既に固まっている。その既存のイメージを打ち壊す新奇なイメージこそが面白さの鍵となるのだ。無名な歌ではそもそも打ち壊されるべき「従来的なイメージ」が存在しないのでパロディ的な面白さは作りにくいのである。
これらの歌が万葉集ではなく平安時代以降の歌集から採られているのも、古代的な呪術性をまとった万葉歌よりも、平安時代以降の優美で華奢な和歌の世界観のほうが横山裕一ワールドとのギャップが大きいからではないか。万葉歌に見られるワイルドさは横山裕一が描く世界とも親和性があるが、それらは古今集以降の和歌からは削ぎ落されてしまう。だからこそ逆にパロディ的な面白さを狙う場合は万葉歌よりも平安時代以降の和歌のほうが相応しいということなのだろう。そのことは万葉歌を使った本書の他の作品からも逆説的に見て取ることができる。その良い例となるのが次に検証する「田子の浦」だ。
「田子の浦」
「田子の浦」は本書二番目に登場する作品で、万葉集第3巻に載る山部赤人の「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」に基づいている。この歌は新古今和歌集に載った小異歌のかたちで百人一首にも採られている万葉集の中でもとくによく知られた有名歌である。本編はロケットのような乗り物に乗った登場人物たちが森を突き抜けると富士山(なぜかここでは連峰になっていて複数ある)を眺望する田子の浦に出るというダイナミックな内容で、巻末の作者による作品解説によると当初は最後の見開きコマに大きく「ネオ万葉」の文字を入れるプランもあったという。
この作品も話の展開が決まった後から歌が選ばれたというよりは、歌の内容を踏まえた上で考案されたものだと思われる。しかし「歌が先にある」ことの感触は前述した「八十島」、「月下」、「滝」とはだいぶ異なっていて、なによりも本作は先の三作に比べてパロディ感が薄い。確かに「ドドドドドドドドドドドドドドドドドド」「ゴオオオ」「キイーン」とザ・横山裕一な描き文字の轟音とともに豪快に田子の浦に「うち出で」るロケットの描写は和歌の描く静謐な世界感とはかなり異なるものであり、パロディ的な面白さであるとも言える。しかし同時にそこには先の三作にはなかった和歌との親和性のようなものも感じられるのだ。横山マンガ特有の超ダイナミックな描写と赤人の歌が描く神秘的な富士の山の雄大さがシンクロするのである。もしここで使われている和歌が後世に優美なかたちに読み替えられた新古今和歌集&百人一首の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」だったらどうだろう? 歌と漫画とのあいだで感じられた親和性は剥ぎ取られ、作品はよりパロディ的なものになるだろう。赤人のこの歌が万葉集に収録されているオリジナルのかたちと新古今和歌集に掲載されたバージョンでは微妙に感触が異なることは和歌鑑賞の解説などでよく言われることだが、それをビジュアルを使って実感させてくれる例は珍しい。本書の面白さはこんな部分にもあるのだ。
「楫」
「楫」は「八十島」の続編的な内容で、「八十島」で船出した男たちが沖合でもう一艘の別の船に遭遇するというわずか3ページの短編。冒頭に「我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり」という万葉集第15巻から採られた作者不詳の歌が載っている。遣新羅使一行の歌群のなかにある一首だが、特に知られた有名歌などではない。
「八十島」と同様に本編もストーリー自体はおおむね歌の内容に沿っているのだが、「八十島」と違ってパロディ感が薄いのはやはり歌が有名歌ではないからだろう。夜中に舟を漕いでいると沖のほうで別の舟の楫音がするというシチュエーションの面白さによって選歌されたものだと思われる。
「萩」
「萩」は本書の冒頭作。巫部麻蘇娘子の「我が宿の萩花咲けり見に来ませいま二日だみあらば散りなむ」が万葉集第8巻から採られている。一コマ目に書簡のかたちで和歌が掲示され、その後は4ページにわたってえんえんと絢爛に着飾った男たちが出かけていく様が描かれる。奇抜なファッションが特徴の横山マンガのなかでも、とりわけ珍妙なファッションのオンパレードである(作者による作品解説には「衣服の歴史」辞典を見て描いた、とある)。
栄えある『ネオ万葉』冒頭歌にしては麻蘇娘子の歌は万葉集のなかでもとくに目立つものではなくどちらかといえば地味な存在である。次に登場するのが超有名歌である山部赤人の富士の歌なので、比較するとその差が際立つ。しかし本書の選歌基準を考えれば、誰もが知っている有名な万葉歌から始まるよりは、目立つ存在ではないがあるシチュエーションに置くと光り輝くこの歌のような「普通の歌」のほうが相応しいのかもしれない。オリジナルは大伴家持に宛てた贈歌で恋にまつわるやり取りである。「あと二日もしたら散ってしまう」と正確に日にちを限って来宅を乞うているところが微笑ましい。その可愛い私信に応えて大規模な公的セレモニーに出席するかのように過剰に着飾った男たちがゾロゾロと出かけていくというそのギャップが可笑しみを生む。
歌のなかで誘いの口実に使われている花が萩であることも重要だろう。萩は万葉集でもっとも多く詠まれている花で、万葉集の世界観を代表している。もしここで誘いに使われるのが萩ではなく桜だったとしたらどうなるか? 手紙は恋人からの私信ではなく宴への招待状のようになり、それに応じてこの過剰に着飾ったキャラクターたちが列をなして出てきたら、安土桃山時代の南蛮かぶれの大名か、江戸時代の酔狂者たちの花見のようにも見えてしまうだろう。そうするとやはり時代感が狂ってしまうのだ。萩は秋の花で恋にまつわる歌に多く使われるが、本編はそのイメージを完全に払拭してしまっているところに面白さがある。あとがきで作者は恋の歌は感情的悲観的内容を避けるため選ばないようにし、恋が暗示されている場合もそれを無視して表面上の字面だけで意味を取るようにしたと言っている。その方針を明確に示す冒頭歌なのだ。これから展開されるのはあくまで万葉集の世界観を借りた「ザ・横山裕一ワールド」なのだという宣言なのである。
「GATE」
「GATE」は「萩」の続編的な作品。「萩」で出発した珍妙奇抜なファッションの一群が巨大な門のもとまで来るが、門の前に立札があってそこに「一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも」という和歌が掲示されているという話。引用元は万葉集第2巻にある草壁皇子が崩御した際に舎人たちが詠んだ歌群のなかにある一首である。せっかく辿り着いたのに門が閉まっていて入れないというオチで、和歌がオチとして使われているケースだ。
この作品を大喜利のネタとして使ったらどうなるか?と考えてみると面白い。華麗奇抜なファッションに身を包んだ男たちが大挙して目のくらむような長い階段を上り、天を突くほどの高さがある壁の上にそびえる巨大な門の前に出ると、そこに小さな立札が立っている。その立札に何が書かれていたらもっとも笑える漫画になるか? 「本日休み」ではちょっと当たり前すぎるだろう。個人に宛てた伝言のようなものでもシチュエーションの巨大さに見合わない。そう考えると立札に和歌が書かれているというのはかなり意表を突き、同時にフォーマルさも醸し出せるので、なかなかの選択であることがわかる。ではどんな和歌ならより面白くなるか? 「門が閉まっていて入れない」というシチュエーションで詠まれた和歌を探すとしたら、例えば源氏物語や蜻蛉日記に描かれるような、夜女の家へと忍んで来た貴族の男が戸を開けてもらえず入れなかった…という内容の歌なら容易に見つかりそうな気がする。でもそれだとやや下世話な感じがして、この場面には合いそうにない。実際に漫画で使われている歌は草壁皇子が崩御したため皇子に従事していた者たちが出仕する必要がなくなって入れないという意味なのだが、歌の三十一文字のなかに「皇子が崩御してまったので…」といった事情が書かれていないところが味噌である。さらに「東の大き御門」の語のインパクトといい、やはりこの話はストーリーが先にあってそれに合うオチとして大喜利的に歌を後から探したというよりは、この舎人の歌が契機となって一話が考案された可能性のほうが高いだろう。
この作品の見所は画面を埋め尽くす男たちの衣装の絢爛さとSF的に巨大な門の描写である。門の前には松が植えてあり、横山裕一特有の人工的な風景と和歌世界の雅な風景の合体の珍妙さが面白い。和歌はその合体の珍妙さを促進するものとしての役割も果たしている。立札に「草壁皇子の宮の舎人」と記名してあるのも可笑しい。クスッといった感じの笑いを誘う作品である。
ここまで挙げた作品は全て1作品に付き1首の和歌のみが使われたものだったが、ここからは複数の歌が使われている作品を見ていく。
「ふくろ」
「ふくろ」は男たちが大量の果物をふくろに入れて運搬する話。最初に入れた袋は果物の重みで持ち手の紐がちぎれ、再度入れると今度は真っ二つに破れる。ビニール製の袋に入れるも底が抜ける。網目の大きい籠的な袋では網目から果物が零れ落ちてしまう。最終的に男たちはそれぞれの衣装を工夫して使うことによって運搬を試みる。
この作品では最初のコマに「燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲」という天智天皇崩御の際に持統天皇が詠んだ歌が万葉集第2巻から、最後のコマに「生ける世に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は」という大伴家持の歌が万葉集第4巻から採られている(ちなみに「ふくろ」の語が登場する歌は万葉集中においてこの2首のみである)。巻末の作品解説で作者が「火炎を掴み袋に詰めるという霊的超自然力を謳う冒頭の一文に賛同して描いた物語である」と記しているので、持統天皇の歌が先にあって作られた話なのだとわかる。第五句の読み方が確定せずに万葉仮名のまま示されるこの歌は歌意も定かではなく、確かに超自然的な呪術性に満ちている。
しかし本作の白眉はオチにあたる家持の歌のハマリ具合にこそあると思う。最後のコマにこの歌が入ることですべてが集約され同時に拡散もされるような、そんな相矛盾した不思議な感覚に襲われる。持統天皇の超自然的な和歌からスタートしたこの話が最後の家持の和歌で笑いへと帰結するとき、和歌の持つ「ひろがり」が実感できる。「ふくろ」という言葉の持つひろがりの可能性、その言葉が示しうる存在のすべて、その膨大さをも垣間見たような感覚に襲われる。言葉のもつひろがりの可能性、それを示すことこそが和歌の本質である。横山裕一的なキャラクターたちが様々な「ふくろ」を考案するこの漫画は、最後の家持の歌での締めによって、オチを付けるのと同時にその和歌の本質ともシンクロしているのだ。本編は『ネオ万葉』のなかでも屈指の名作だと言える。
「鳥総」
「鳥総」も「ふくろ」と同様に、最初と最後のコマに和歌が載る。最初のコマで示されるのは「鳥総立て船木伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神びぞ」という万葉集第17巻の巻末近くにある大伴家持唯一の旋頭歌(五七七を2回繰り返す計6句から成る和歌)だ。最後のコマの和歌は「奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」という田辺福麻呂による万葉集第18巻の冒頭歌である。
本編のストーリーは概ね和歌の内容に沿っていて高い木が生い茂る森のなかでてっぺんに鳥の巣がある木に男がよじ登って刀で枝を切り落とし、その枝を組み合わせて鳥の巣そっくりの舟を作って海へと船出する。「鳥総(とぶさ)」について作者自身が巻末の作品解説で「鳥総とは木の先端や、枝葉の茂った先の部分で鳥がとまる場所になっていること」と説明している。想像するに「鳥総」という語の持つ呪術性が作者をしてこの一篇を創作させる起動力となったのではないだろうか。実際、木のてっぺんにある巣に鳥が佇んでいる様子や鳥の巣のような舟の造型の面白さが本編の見所になっている。
万葉集中に「鳥総」の語を使った歌はこの家持の旋頭歌の他にもう一首第3巻に沙弥満誓の「鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を(足柄山で船木を伐採したのにそれをただの材木として伐って行ってしまった。惜しいことに船材を)」という比喩歌があるのだが、なんとなく歌の雰囲気的にはこちらのほうが横山裕一の漫画っぽい感じもする。ただこれだとストーリーが展開して行かないので家持の歌のほうにしたのではないだろうか。家持の旋頭歌は神域的な雰囲気が出ているし、オチの福麻呂の歌は「波立ちを見るために沖まで船出する」というナンセンスが横山裕一的で上手くまとまっている。ちなみに本作は「田子の浦」に続く本書三作目に位置するのだが、一コマ目では頭上を「田子の浦」に登場したロケット型乗り物が飛翔していて、大空から森へそして海へとダイナミックにストーリーが展開している。
「寝室」
「寝室」は最初のコマに「誰ぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を」という作者不詳の相聞歌が万葉集第14巻より、物語の中盤に「門立てて戸は閉したれど盗人の穿れる穴より入りて見えけむ」という作者不詳の問答歌が万葉集第12巻より採られている。どちらも恋愛にまつわる歌なのだが、ここでは謎の球形の建物(まるで我が友人で尊敬するアーティストである永岡大輔くんの「球体の家」のような!)に一人の男が寝ていて、そこに賊が侵入するもののピストルで反撃され、外に待機していた仲間の賊が球形の家を転がして侵入した仲間を逃がすというアクション活劇になっている。
オリジナルの和歌の恋にまつわる意味合いをそぎ落とし、言葉上の意味だけを取ってまったく違うシチュエーションに仕立て上げている例。新嘗のための潔斎という神事と未来的な球形建物のシンクロ&ギャップや和歌自体のコミカルさとドタバタアクション劇のマッチ具合いが上手く効果した好篇である。
「おきまろ」
「おきまろ」は本書中でも異色の作である。というのも本作では5首の和歌が引用されるのだが、そのうち4番目に出てくる長忌寸意吉麻呂の「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ」という万葉集第16巻にある歌の左注に書かれた作歌事情をそのまま漫画化しているからだ。それは宴会の最中に狐の声が聞こえたのでそこに集った者たちが「ここにある調理具、食器、狐の声、河橋を詠み込んで一首を作れ」とリクエストし、それに応えて意吉麻呂が上記の歌を作ったという話である。
ストーリーはほぼその通りで前半は宴会の様子が描かれ、途中で狐が登場し先の歌の披露となる。狐の描写と宴会の様子が見どころとなるが最初に引用される3首の和歌は全て宴会の様を演出するのに使われている。具体的にはまず冒頭のコマに「春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも」(作者不詳 万葉集第10巻)が示される。これは親しいもの同士が集う楽しい宴会の様を表しているのだろう。歌自体に特にこの一首でなければならないという特殊性は感じられない(たぶん場面が「浅茅が上」ではないからだろう)が、歌が示すハレの日の楽し気な雰囲気と横山裕一のキャラクターたちが皆無表情のまま正面を向いて「ハハハハハハ」と笑っている図のシュールさとがよくマッチしている。
2首目は「春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ」という作者未詳の旋頭歌が万葉集第7巻から、3首目は「落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ」という作者不詳歌が万葉集第9巻から採られている。月をめぐる和歌的な雅な光景と横山裕一の人工的な絵柄のミスマッチングぶりが見どころだが、特に2首目が掲示される上限の月の描写が素晴らしい。宴を祝賀する歌も月を賛美する歌も和歌史のなかにはいくらでもあるので冒頭からの3首は「意吉麻呂の歌が詠われた宴席」というシチュエーションが先にあって、それに合わせて宴会の様を演出する歌を後から選択していったのではないかと推察される。
問題は物語の最後に示される「ともすればよもの山べにあくがれし心に身をもまかせつるかな」という後拾遺和歌集(四番目の勅撰和歌集。選者は藤原通俊)から採られた増基法師の歌だ。出家に際しての決意を表明したものとも言われるこの歌は逃げた狐が戻ってきて岩陰から宴会者たちのほうを真っ直ぐに見ている絵の上にかなり大きめのフォントでレタリングされている。万葉歌ではなく平安時代の和歌が採られているところから見てシチュエーションに合わせた歌を探し求めて付けられたケースのようにも思われるが、しかし前述した宴会のシーンなどと違ってここはとくに「こういった歌が付くべき」といった明確な場面ではない。むしろこの増基法師の歌こそがこの場面の意味を決定しているように思われる。本編に登場する「狐」は横山裕一ワールドなので動物の形ではなく狐を思わせる円形の面をかぶり蓑をまとった二本足で歩く人型の存在である。この和歌は、異形のキャラクター揃いの横山マンガのなかでもさらに異形の存在である「動物」として登場するこの狐の心中を歌ったものなのだろう。楽しい宴会で始まって不穏な雰囲気で終わるこの一篇は、末尾の和歌の効果によって異形の存在の業や悲しみまでも感じさせる深みを生じさせている。意吉麻呂の歌を迫害される狐の側から見た解釈にもなっており秀逸である。
タイプB(和歌が後から選ばれている、または複合型)
タイプBはシチュエーションやストーリーが先にあってそれに合わせて和歌が選択されたと思しき篇を集めた。その場合も骨格となるストーリーは歌が先にあってそこから発展させていったと思しきケースが多く、基本的にはタイプAとの複合型となる。タイプAが短編中心だったのに対し、タイプBは和歌が多く引用される長編作が中心となる。
『ネオ万葉』諸篇の制作において和歌が後から選択されたケースがあることは「野守」の作品解説に作者が「侵入発覚の場面は他に適当な歌が見付からずタイヤで飛翔する空中監視員を猪に例えた歌を選んだ」と書いていることからもわかる。まずはその「野守」から見ていくことにしよう。
「野守」
「野守」は万葉集第1巻にある額田王の超有名歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」を冒頭のコマにおき、角形の石と針葉樹で構成される野で手を振っている男(標野への侵入者)を仲間の二人が双眼鏡で覗いているシーンからスタートする。天武天皇への恋情表現(袖を振る)を詠ったとされるオリジナルの和歌を立ち入り禁止区域への侵入者の話に読み替えているのだ。
話の途中で平兼盛の「陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」が拾遺和歌集(三番目の勅撰和歌集)から、笠金村の「大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ」が万葉集第6巻から引用される。どちらも直接的にはストーリーに関係せずに場面を盛り上げるための効果音的な役割を果たしているのだが、ここで注目したいのは先にも触れた物語ラストの侵入発覚の場面に出てくる拾遺和歌集から採られた藤原輔相の「怒り猪の石をくくみて噛み来しはきさのきにこそ劣らざりけり」という物名歌である。
物名歌とは詠われているものとは別の物の名前を歌の言葉のなかに隠した和歌のことで古今和歌集では部立ての一つとして一巻を成しているが後の勅撰集では外しているものも多い。拾遺和歌集は例外的に物名歌を多く掲載する勅撰集で、その中でも藤原輔相の歌がダントツに多い。輔相はこの拾遺集の物名歌のみが有名な歌人で他の勅撰集にはほとんど名前が見られない。言ってみれば和歌の歴史のなかでは異端中の異端なのだが、その異端さまでもがこの場面では効果の一助になっているようにも思われる。
これはやったことがある人間(が果たしてどれだけいるかは疑問だが)ならばわかると思うが、ある場面に合わせてそれに見合った和歌を探すのは捜索の対象によっては本当に至難の業なのである。なぜならば和歌で歌われる世界はきわめて限られたもので、使われる用語も極端に制限されているからだ。万葉集はまだしもバラエティに富んでいるほうなのだが、平安時代以降の和歌となると基本的に雅な世界観から逸脱するものは存在せず、決まりきった単語と言い回しの組み換えだけで構成されている。物名歌はその枠からはみ出しうる希少な例なのだ。
ここで採られた歌では「きさのき」の部分が歌の意味上では「象の牙」を意味するのに加えて、それとは何の関係もない「きさの木(橒木。コガネヤナギ)」を同時に詠み込んでいるということになる。単語単位で複数の意味を重ねるのは物名歌としては稚拙なつくりなのだが、それはここではあまり関係ない。むしろ歌の表面上の意味や文字面のどう猛さ、そして和歌としては異端の物名歌としてのナンセンスさが、侵入者たちが強烈なライトで照らされる緊張感あふれる場面を盛り立てる効果になっていることにこそ注目すべきだろう。途中で使われていた兼盛と金村の歌は部分的にはストーリーに適合しつつも外れている部分もあって、それが作中で不協和音のように響いていたのだが、最後のこの場面でハッタリな雰囲気だけ合致したこの物名歌が物語の内容から完全に逸脱することによって大轟音のノイズが鳴り響くようなそんな効果をもたらしている。「和歌の使い方」として本書中でももっとも興味深いものの一つである。
「円」
「円」は「立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども」という万葉集12巻に載る作者未詳歌から始まる。木の一本だけ生えた円形の庭の前で待機する二人の男がなかなか現れない客人を待ちかねて立ったり座ったりを繰り返すのだが、この歌からそれを発想して展開させていったという感じはあまりしない。話の中心となるのは円形の庭のほうであり、作品タイトルもそこから採られている。「円」は「まと」と読み作中に「上つ毛野まぐはしまとに朝日さしまきらはしもなありつつ見れば」という万葉集14巻に載る作者不詳歌がその円形の庭を賛美する歌として披露されるのだが、この歌における「まぐはしまと」は未詳とのこと。万葉集における「円(まと)」といえば「高円山(たかまどやま)」が思い浮かぶが関係は不明である。
本編は横山裕一の傑作『ルーム』を上回るくらいメチャクチャ笑えるギャグ漫画で、特に和歌世界においては最上級に珍重されるホトトギスの鳴き声を見張りの警報音のように扱っているくだりには爆笑した。使われている和歌は概ねストーリーに寄り添うようなかたちのものが中心で、場面との合致性は弱め。話を推進していく効果は確認できるが和歌があることならではの必然性はそれほど感じない。むしろ先のホトトギスの見張りのように世界観の構築のためにこそ使われていると見るべきだろう。
「宝玉」
「宝玉」には4首の和歌が使われている。まず冒頭に大伴家持の「藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る」が万葉集19巻から、二番目に笠金村歌集(車持千年の作とも)の「見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ」が万葉集第6巻から、三番目に村上天皇の「水の上のはかなき数も思ほえずふかき心しそこにとまれば」が新古今和歌集15巻から、最後のコマに大伴家持の「朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ」が万葉集第3巻より採られている。
話としてはまさに上に挙げた和歌の通りで「鳥総」で鳥の巣そっくりの舟に乗って船出した男たちが水底に玉のように輝く石を見付け潜って取ろうとするもあと一歩のところで手が届かず叶わない…という内容である。「玉」を使った和歌は多いので和歌の選択自体にそれほど強い必然性は感じないが、それでも畳みかけるように繰り出される歌と三人の男たちが次々に玉石の取得にチャレンジするリズムのシンクロ、そして一首目を除き元歌ではすべて恋愛にまつわる比喩なのを徹底的に水底の玉石取得に置き換え続けるその執拗さが笑いを誘う。
「翁」
「翁」に使われる和歌も4首。最初のコマに万葉集第11巻から作者不詳の「時守の打ち鳴す鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくもあやし」、2番目に万葉集第10巻から作者不詳の「冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく」、3番目に万葉集第10巻から作者不詳の「物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし」、4首目は登場人物のセリフとして万葉集第5巻から作者不詳(と作中にはあるが山上憶良作)の「ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに」が採られている。
内容は丸太を組み合わせて作った立方体のアウトドアショップで客と店主の間で交わされる時間や老いをめぐる会話劇。ストーリーに対して和歌が果たしている役割は限定的だが、全体に独特な効果をもたらしているのは確かだろう。「時間」という横山マンガにおけるもっとも重要な要素がテーマとなっているので、和歌が引用されることでそのテーマをめぐる哲学的(っぽい)雰囲気が醸成されているとも言える。最終コマの高齢の客のドアップな顔を描いたアブストラクトな絵が素晴らしすぎて悶絶する。
「装束1」、「装束2」、「装束3」
「装束1」、「装束2」、「装束3」と題されたファッションをめぐる話が三篇続いて掲載されている。
そのうち「装束1」が一番の長編で引用されている和歌の数も8首と多い。最初の3首は万葉集第6巻から湯原王の「焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり」、万葉集第19巻から大伴家持の「矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも」、万葉集第12巻から作者不詳の「橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり」が引かれる。それぞれが本編に登場する三人の登場人物の珍妙なファッションの説明にもなっている。
それに続く和歌はみな登場人物たちの行動の説明になっている。すべて万葉集から採られた歌だが特に7首目は第16巻から引かれる作者不詳の長歌で訳文ではその中間部が〈中略〉とあり略されている。歌と登場人物の行動が密にシンクロしていることと、その行動が皆意味不明なことから、能楽の舞踊を見ているようでもありたいへん面白い。
「装束2」は打って変わって会話劇。「翁」で登場したアウトドアショップのオーナーがこの話では衣服店の店主となって客の二人組と会話する。客は詰め込まれた売り物の服を引っ張り出しては品評し、最後は一人が試着したまま逃走しようとする。引用される和歌は全部で6首で四角枠に入れられ服の上に重なるかたちで掲示される。全て「衣」に関する万葉歌だが登場する服との関連はそれほどない。衣に関する和歌の列挙と横山裕一的ファッションのシンクロ&ギャップが面白みの要か。
「装束3」は問題作。わずか3ページの短編で和歌は冒頭に示される1首のみ。話は指先に球をはめてその球に顔を描く…とそれだけの内容だ。しかし引用される和歌は万葉歌ではなく新古今和歌集から「玉懸けし衣の裏を返してぞをろかなりける心をば知る」という僧都源信の釈教歌が引かれている。この歌は釈教歌に頻繁に登場する法華七喩のひとつ衣裏宝珠の説話に基づく歌で、すなわち金持ちの知人が気を利かして宝珠を貧乏な友の衣の下に縫い付けておいたのに、裏を返して見ることもせず長年そのことに気付かずにいたという話である。
万葉歌ではなく平安時代以降の歌が採られる場合は、その場面に合った歌を広範囲に及んで探索した結果選ばれたものであると推察されるが、この場面では和歌と話の内容では「玉」が被っているに過ぎない。しかも先に書いた通り「玉」の語を使った歌は和歌史に無数にあり、衣裏宝珠に基づく歌も数多い。ではなぜこの歌なのか? そもそも指先にはめて顔を描いた球は「装束」なのか? 本編が「装束」シリーズの一環として並べられているぶん余計に疑問が増える。でもそのワケワカラナさがなんだか面白いのである。和歌も内容と無関係なところがむしろ「合っている」感じがする。「野守」のラストシーンと同様に、これも非常に興味深い和歌を使った効果の例である。
「カツマタ湖」
「カツマタ湖」は万葉集第16巻にある作者不詳の「勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし」という歌の左注の引用から始まる。すなわち新田部親王が勝間田の湖に出かけてその美しさに感動して帰宅したのち婦人に「蓮の花が素晴らしかった!」と吹聴したところ婦人が上記の戯れ歌を返し「勝間田には蓮などありません。アナタの顔に髭が無いように」とからかったという話だ。本編ではそれを男たちの口論へと変えて、では実際に蓮があるのかないのかカツマタ湖までみんなで確かめに行こうと話が発展する。ここからが本番である。
小型の水上バスのようなボートに乗り込んだ男たちは人工の水路のような河をカツマタ湖に向けて一路下っていく。この描写が実に30ページも続く。その間、ほぼ1ページに1首の割合で和歌が引用され続ける。全てが万葉集から採られた歌で、表示は横長の四角枠に一行ずつ納められるかたち。ボートの疾走感と畳みかける和歌の引用の疾走感が重なる。引用される和歌の内容はその場面のシチュエーションに辛うじて部分的に重なる程度の関連性。この場面における和歌の使われ方は、映画におけるアクションシーンのBGMのような役割を果たしているのだろう。ドライブ感の創出こそが命であり、絵と歌の内容が緊密に絡み合っている必要はないのだ。むしろ軽めの繋がりのほうがここでは望ましい。
ところでこのシーンには明確な「誤植」がある。P182とP183の見開きページに万葉集第8巻より元正天皇の「はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに」と聖武天皇の「あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも」の2首がそれぞれ掲載されるのだが(ちなみにこの2首は万葉集中でも続いて載っている)、それぞれの訳文がP182では「奈良の山に生えた黒木を使い荒い木材もそのままに建設したいくらでも飽きない快適な家がこれである」、P183では「この山里を訪れてくる者たちの口癖はいつも同じで「この住まいがうらやましい」という感想である」となっている。これはP182の訳文がP183の聖武天皇の歌の訳になっていて、P183の訳文は両者とはぜんぜん関係がない新古今和歌集に収録されている慈円の「山里にとひ来る人のことくさはこの|住まひこそうらやましけれ」の訳であるように思われる。ちなみに慈円の歌は本書のどこにも登場しない。
この「誤植」は興味深い。というのもそこから本書制作における選歌の事情が窺い知れる気がするからだ。この見開きページには水路の両岸に丸太で組み立てたキャビンのような家が立ち並んでおり、P183の最後のコマ、つまり本来は無関係なはずの慈円の新古今集歌の訳が掲載されている場所には丸太製の家のなかで足を組んで座る人物が窓から見えるボートの滑走を室内にいるもう一人の人物に指差し示している絵が描かれている。ちょうどこのページは巻末に作画過程の写真が掲載されており、それを見るとネームの段階で既に「あおによし〇〇〇〇〇〇〇」となっていて初期の段階から聖武天皇の歌が入ることは決定されていたと見える。しかし慈円の歌も「山里」が河沿いの風景からズレるものの、歌の雰囲気としてはこのコマのシチュエーションからそれほど外れていない。実際、現状間違えて入れられている訳文も和歌との違いを意識さえしなければそんなに違和感がないのだ。明らかに間違いではあるのだが、一連のボートの滑走シーンはスピード感重視で「細かいことは気にしない!」という引用態度の箇所なので、これはこれでいいのかもしれない。
ボートの滑走シーンのなかでは、たとえば河に掛かった巨石の下を舟が通り抜ける箇所で「恨めしと思ふさなはにありしかば外のみぞ見し心は思へど」という万葉集第11巻にある作者不詳の閨怨歌が載せられるのだが、その訳文は「恨めしい巨石があったので気になったが近寄るのはやめ外から見ているだけにした」と描かれた絵に大幅に内容を寄せた訳になっている。これはもちろん間違いではなく意図的なものだろう。つまりこの一連のシーンにおける引用和歌の内容的な関連はこのくらいの軽さでちょうどいいということなのだ。長歌の引用の訳が「略」を付けて部分的だったりするのも同じ理由からだろう。
さて、一同を乗せた舟は30ページに渡る移動の旅を経て、その最後の見開きページで「世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟の跡のしら浪」のかたちで平安時代以降引用されまくる沙弥満誓の有名歌「世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし」を万葉集第3巻より引用し、ついにカツマタ湖に到着する。ここで終了すると爽快な感じもするのだがストーリーはなおも続く。湖にはなぜか水中に斧を落としてしまい浮き上がってくるのを待っている樵夫がいて、男たちとのやり取りがカツマタ湖の雄大な風景の描写をまじえながら描かれる。この樵夫は「はしたての熊来のやらに新羅斧落し入れわしかけてかけてな泣かしそね浮き出づるやと見むわし」という万葉集第16巻にある作者不詳の長歌が元になっていて、樵夫と男たちのやり取りもこの歌の左注にほぼ基づいている。
他にもカツマタ湖へ到達した後の場面では「我が畳三重の川原の礒の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも」という万葉集第9巻にある伊保麻呂の歌から作り出された「ガモガモガモガモ」と鳴くカエルの一群に取り囲まれるシーンが面白い。本作は全44ページ、引用和歌も計29首と長大な巨編だが、そのなかでの和歌の使われ方は多様で巨編に相応しい壮大な内容となっている。
「ハコヤ山」
「ハコヤ山」は「カツマタ湖」に続くかたちで掲載され内容的にも連続しているように思われる。カツマタ湖の上空を飛び回っていた「渡り鳥」が、「ハコヤ山」のオープニングでは見開きで山峰の陰から朝日が昇ってくるその曙光のなかを飛行する。本作では和歌がページの両脇の空欄に表記されるかたちで引用されるのだが(ちなみに本書では引用歌の表記デザインは篇ごとに様々で、そこも見どころになっている)イキナリこの冒頭の場面では万葉集第17巻にある「朝日さしそがひに見ゆる神ながら御名に帯ばせる白雲の千重を押し別け天そそり高き立山冬夏と別くこともなく白栲に雪は降り置きて古ゆあり来にければこごしかも岩の神さびたまきはる幾代経にけむ立ちて居て見れども異し峰高み谷を深みと落ちたぎつ清き河内に朝さらず霧立ちわたり夕されば雲居たなびき雲居なす心もしのに立つ霧の思ひ過ぐさず行く水の音もさやけく万代に言ひ継ぎゆかむ川し絶えずは」という大伴池主による長歌が全文句読点も空白もなしで掲載されている。反対側のページにある訳文は半分ほどで早々に「後略」として切り上げてしまっている。もはやこれは完全に呪文の類だろう。歌の意味内容よりもデザイン的な文字圧こそが効果の主になっているのだ。右ページの原文のなかに断片的に読み取れる「朝日さし」「白雲の千重」「天そそり高き」「岩の神さび」「峰高み谷を深み」「万代に言ひ継ぎゆかむ」といった語句が描かれる光景の神秘さを増している。
同編では最終ページにこれよりもさらなる長文が掲載されている。しかしそれは和歌ではなく万葉集第5巻にある山上憶良が詠んだ長歌の前書きである。そのシーンは山頂に黒と白の二つの巨大な球体が並んでいる山の上空を渡り鳥たちが飛び回っているという見開きの絵で、その山こそがハコヤ山なのである。ハコヤ山はその前のページ脇に引用される万葉集第16巻にある作者不詳歌「心をし無何有の郷に置きてあらば藐孤射の山を見まく近けむ」に基づいている。「藐孤射(はこや)」はもともと荘子・逍遥遊に出てくる語で神仙の住む山だ。当該歌も老荘思想を詠んだ歌である。
ここで憶良の和歌本文ではなく漢文の訓読である前書きが使われているのはなぜだろうか。引用される前書きの内容は神功皇后の鎮懐石伝説に基づく筑前の国の海に面した丘の上に並ぶ二つの石の描写である。前書きによると石は「長け一尺二寸六分囲み一尺八寸六分」というから40~50センチほどの大きさなのだが本編の中では何十メートルもある巨大なものとして描かれている。球が置かれた山頂は切り取ったかのように平らで、冒頭の山峰から朝日が昇ってくるシーンが自然の光景なのに対し、このラストシーンの巨大な球が山頂に並ぶ図は人工的な光景のようにも見える。引用される前書きは球の大きさを正確に記した数字の多い文章で、その理系な硬い文章がシーンの人工感に適っているのだろう。実際、憶良の和歌本文は神功皇后(足日姫)の伝説を賛美するのが主なのであまりこの場面に相応しいとは言えない。編冒頭とこの最終コマの二つの見開きページの比較も面白い。
作中ではハコヤ山を臨む山中に入った男がそこに住む鹿の姿をした隠者と邂逅する会話劇が展開されるのだが、その一連のシーンではページ脇の空白部と漫画内の会話文の両方で和歌が引用される(ちなみに本書では登場人物が和歌を詠む場合はカラオケマイクのようなものを使ってポーズを付けて朗詠する。これも笑えて面白い)。台詞としての和歌はミュージカルのようにストーリー中の会話として、コマ外の和歌は状況説明のナレーションとして使用されている。その過剰なまでの引用ぶりにクラクラするほどだ。本編は本書一連の物語を締めくくる作品として横山裕一ワールドと万葉集の古代的な呪術性を止揚した大アヴァンギャルドな引用実験作となっている。
タイプC(連歌)
「王族」、「花鳥」
『ネオ万葉』での異色中の異色作が「王族」と「花鳥」の二作である。両者はそれぞれ20ページずつで収録歌数も同じ39首づつ。横山裕一の作品では過去に「グラビア」(『ルーム』所収)という作中延々とポートレート写真をめくっていって枠外にいる登場人物がそれを品評するという漫画があったがこの二作はそれにちょっと似ている。両者ともコマ割りはまったく同一で辞典形式の分厚い本を延々とめくっていくというただそれだけの話だ。本のページにはシンプルな絵とそれに被せるかたちで右ページに和歌が左ページにその訳文が書かれている。ストーリーらしきものはなく、本に描かれた絵も線の少ないかなり抽象化されたものである。ここでの主役は完全に引用された和歌だろう。
使われている和歌は「王族」のなかで一首だけ拾遺集から曾禰好忠の歌が選ばれているのを除き、残りはすべて万葉歌。「王族」では主に人物にまつわる歌が、「花鳥」では自然物にまつわる歌が選ばれている。選歌の基準は連歌だろう。辞典の形式を取りつつ、それぞれの和歌が緩やかに連関して次の歌へと繋がっていくのだ。その和歌の連なりこそが主で、それに比べると絵と和歌の絡みは従で控えめだが、それでもそこは横山裕一、どのページのイラストも味があって見飽きない。デザイン的にも面白く、あきらかに文字だけで和歌が並べられているのとは違った楽しみ方ができる。作者による訳文の面白さもより際立っている(「王族」で引かれる万葉集第12巻からの作者不詳歌「人言はまこと言痛くなりぬともそこに障らむ我れにあらなくに」の訳が「私は噂を気にしない」なのとか凄くいいw。「花鳥」にある万葉集3巻から引かれる博通法師の「常磐なす石室は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける」の訳が「岩屋は永遠だが住民は変わる」なのも好き。岩屋の住民?の絵もいい)。書中書のかたちを取った作品だが、和歌を使った表現としてここでもさらに新たな表現形式を生み出していると言っていいだろう。
跋
ところで、自分は《1(+31)》で計148首の和歌を選歌したのだが、候補の範囲を「近世以前に作られた和歌すべて」と広く取ったため万葉歌はそのうち31首だった。『ネオ万葉』は173首の和歌を収録するとあるが、うち12首は万葉集以外から採られているので長歌や旋頭歌も含め万葉歌は計161首となるだろう。そして自分の《1(+31)》と『ネオ万葉』では重複歌が4首あった。万葉集が全4516首であることと『ネオ万葉』も自分の《1(+31)》もその中から名歌を選んでいるわけではなく、それぞれかなり特殊な基準(事情)で選歌を行っていることを考えれば31/161首中4首の重なりはまずまずの高確率だと言える(他にも最終選考で没にして採らなかった歌が何首も入っていた)。別にそれが何だというわけでもないのだが、なんとなく漫画にするのに良さそうな歌というのはあって、それは従来の古典和歌の賞玩基準とは微妙に異なるものだったりするのだ。本書を読んでいるといわゆる正統的な王道の和歌鑑賞では出会うことのない歌にも多く遭遇し、その選択の基準となる感覚が理解できるとすごく嬉しくなった。「そう、そう! 和歌にはこういう面白がりかたもあるんだよ!」と意を強くした。
古典和歌をその成立事情や本来の歌意とは異なる意味に読み替えて利用するという「遊び」は正統的な和歌鑑賞のあり方からは外れるかもしれない。しかしそのような楽しみ方ができることこそが和歌の力なのであり、時にはこちらのほうが正当な古典和歌の「使い方」なのではないかと思われる時さえあるのだ。もちろん古典和歌の成立事情や本来の歌意を無視して表面的な言葉上の意味だけを問題にせよ、などと言いたいのではない。古典和歌を成す言葉のなかにはその歌が辿ってきた歴史そのものも含まれている。その潜在的な「ひろがり」の可能性こそが古典和歌の力なのである。
本書のなかで引用歌の成立事情が効果となっている例として「おきまろ」のラストで使われる増基法師の歌「ともすればよもの山べにあくがれし心に身をもまかせつるかな」が挙げられる。この歌は詞書に「修行に出で立ちける日よみて、右近の馬場の柱に書き付け侍りける」とあり出家に際しての決意を表明した歌とされる。「あくがれる」は魂が身体から遊離して彷徨うさまを示す語で、和歌では恋愛の物思いの強さを表現するために使われる例も多い。しかしここではこの歌が比喩的な恋歌ではなく、僧侶である増基法師の出家決意の歌であることこそが重要なのだ。僧という世間の外に出てしまった異形の存在の抱く思いが、異形の存在だらけの横山マンガのなかでもさらに異形の存在である「動物」の狐の心境と重なるのである。そのことで原歌に籠められた作者の思いは世の中で「普通」ではいられないもの、異端やはぐれ者であることを選択せざるを得ないものたちすべてへと響き広がっていくのだ。決してメインストリームになることのない異端のマンガ表現である横山マンガでそれが表現されていることもまた意味深い。
逆にオリジナルの和歌の成立事情や本来の歌意が問題にされない例としては「ふくろ」が挙げられる。冒頭で引用される持統天皇の「燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲」は最終句の「智男雲」の読み方が確定しておらず作中でも万葉仮名のままの表記になっている。しかしもちろん本来の歌はなんらかの読み方がされていたはずで、オリジナルの歌を尊重するならばそれを踏まえて初めて「本来の意味」となるだろう。しかし本作ではそもそもの歌意も不明確なこの歌を「火炎を掴み袋に入れる」という表現にのみ注目して使用することで、万葉仮名のままの最終句もその神秘的なイメージの呪術性を強化する効果にしてしまっている。作者である持統天皇の意図からは外れるかもしれないが、しかしある意味ではこの歌のものすごく正統的な「使い方」であると言えるかもしれない。ラストの「生ける世に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は」は大伴家持が坂上大嬢に贈った歌だが、歌われている「縫へる袋」がどのようなものだったのかは万葉集中に記されていないので不明である。しかし作者はこの歌の「ふくろ」という一語に注目し、万葉集中二首しかない「ふくろ」の語の使用例である持統天皇歌と家持の歌を作品の冒頭と末尾に使用することで、「ふくろ」という語の持つひろがりの可能性の限界に挑んでいるように思える。その結果として「ふくろ」の物を包み籠めるというその本来の役割の原始的な神秘さや、その語が表現し得るものの宇宙的なひろがりまでをも感じさせる素晴らしい引用効果になっている。
『ネオ万葉』は古典和歌の「使いかた」の壮大な実験場だ。「八十島」、「月下」、「滝」のような有名歌のパロディ的な使い方、落語のオチ的な「GATE」の最終コマ、「装束1」の能楽の舞踏を生み出すかのような表現、「カツマタ湖」のボートの疾走シーンでのBGM的効果、「ハコヤ山」の呪術的使用法とほんとうに多様である。「野守」の最終コマや「装束3」に至っては絵と歌の意味にまったく関連性がないことすら効果になっている。歌からマンガ(ストーリー)が生まれ、場面に合わせて歌が選ばれていく、そのダイナミズムもまた本書の魅力のひとつだろう。
そして、翻って言えばそれらはすべて和歌自身が持つ力でもあるのだ。和歌が潜在的に持つ言葉の「ひろがり」の力なのである。本書はその可能性の扉を開け放ち、古典和歌の、日本語という言葉の持つひろがりの壮大さを垣間見せてくれる。その意味では本書は古典和歌への最良の入口であるとも言えるだろう。未来の国宝とも言うべきこの超実験的大傑作が一人でも多くの人の手に取られることを願う。