【鑑賞メモ】荒川ナッシュ医 ペインティングス・アー・ポップスターズ
2024年11月23日土曜日、国立新美術館で展覧会「荒川ナッシュ医 ペインティングス・アー・ポップスターズ」を見る。過去にも荒川ナッシュ医の作品はグループ展などでたまに目にしていたが、あまり魅かれるところはなく、というかどちらかというと苦手なタイプで、今回も観覧料が無料でなければ、まず見には行かなかったと思う。そのため当初はなかば反感交じりで「ふ~ん、こんなものか」といった気持ちで見ていたのだが、最終的にはとても刺激されて大きな収穫となった。その理由は、展覧会の内容が思った以上に「絵画」に関するものだったからである。荒川ナッシュ医はパフォーマンス・アーティストであり、今回の展覧会も「国立新美術館開館以来、初めてのパフォーマンス・アーティストの個展」が謳い文句なのだが、その部分に関する感銘はまあまあ(つまり予想の範囲内)で、テーマが「絵画」でなければ、おそらくざっと見ただけで終えて、記憶にとどめることもなかったと思われる。そのことについて鑑賞メモとして書き留めておく。
荒川ナッシュ医の作品を「アート」たらしめている要素には以下の三つのレイヤーがあると思われる。
過去の美術作品の引用(文脈の踏襲と更新)
政治的な「正しさ」(新しい価値観の提唱)
美的なセンス(カッコよさ、新しさ)
このうち自分が魅かれるのは3の部分なのであるが、それだけでは「アート(現代美術)」として成立することは難しいのだろう。そのため1と2による担保が必要となるが、この部分はやや鼻に突くところもある。先行作品の引用や文脈の踏襲は、文化の本質が継承にあるという意味において正しい行為であるが、やり過ぎると衒学的に見えて反感を買う。2もまさにその「正しさ」ゆえに鼻に突く。どちらもやや教条的でそれを楽しめる人を選別する(その意味では排他的であるとさえ言える)。それに対して3は見る側の知識や価値観ではなく感性にこそ委ねられており、その楽しみは万人に対して開かれている。もちろん「カッコよさ」や「新しさ」を感受するために知識が必要となる場合もあるが、1の面白さを味合うための必要性ほどは直接的ではない。2にも思想としての「美しさ」というものがあるが、本展で自分が魅かれたのは、もっぱら作品の具体的な「造り」の部分における洗練だった。
その魅力に気付くタイミングはかなり遅れて、展示の後半になってからだった。きっかけとなった作品は、正確なタイトルはわからないのだが(検索しても出てこない…。それだけ地味な作品だということ)、第7章「絵画とパスポート」のコーナーで、壁の裏側で展示されていた洞窟壁画をモチーフにした動画作品だ。内容としては美術館の可動壁が動くさまを映した映像に洞窟壁画の図柄が斜めにスライドしながら重なる、というだけのもの。そんな単純な映像作品なのだが、これを美術館の可動壁に挟まれたせまい空間で、設置されたヘッドフォンから流れる電子ミュージックを聞きながら鑑賞すると、「あたかも洞窟壁画を見ているような」とまでは言わないが、それでも「絵画」を鑑賞しているときの体験と重なる感覚があったのだ。シチュエーション、音楽、そして映像内容と、そのどの一つが欠けても「この感覚」はおそらく得られることはなく、まさにギリギリの境界線で成立している。「これは、新しいな…」と素直に思った。
この作品で示された「絵画」の新しい感覚に気付いたのをきっかけに、展示のなかでなかば網羅的にさまざまなかたちの「絵画」へのアプローチが試されていることにも気付くようになった。絵画と音楽の関係に関してはセクション一つを割いて大きく展開しているが、その他の場所で展示されている作品でも音楽が重要な役割を果たしているものが多い(松任谷由実が多めなのは作者の個人的な思い入れか。それはそれで「自画像」的で面白い)。第8章「絵画と即興」で展示されるブルース・コナーによる1967年の映像作品《白いバラ》(BGMはマイルス・デイビス)では、作品の運搬という絵画の物質的な側面が扱われるが、この映像作品は(荒川本人の作品ではないが)本展の要になる重要作だと思った。同じ第8章に展示される陶板名画美術館で撮影された絵画に触りまくる映像作品も、絵画鑑賞の物理的なアプローチの多様性を扱っていて効果的だった。このあたりのセクションでの好感度は高い。
ところで「絵画」をテーマとするために、荒川は絵画のマガイモノを使用するが、そのなかで一番うまくいっていると思ったのは段ボールを下地としたLED絵画である。これはやはりひとつの発明で、段ボールによる頼りない下地といい、LEDによる超大雑把なオリジナルの画面の再現度といい、いい感じのマガイモノ感に満ちていて、使用されたどの作品でもおおむね上手く効果していたと思う。それに対してアクションペインティング風に絵の具を塗りたくった絵や、オールオーバーな落書きなどには、ほとんど魅かれることはなかった。それはそれらが絵画のマガイモノの役割を期待されているにもかかわらず、マッタク「絵画」には見えないからだ。手法としてもビジュアルとしても古臭い。LED絵画にあるようなフレッシュさはない(つまりたとえマガイモノでも「絵画」には「新しさ」が必要であるということか)。
本展の本来の売りである「パフォーマンス・アートの展覧会」の部分であまり魅かれるところがなかったのは、そこで相対化されるべき「美術館」の概念の弱体化が関係しているのだと思われる。とくにその美術館が国立新美術館だったということが重要だ。よく知られているように英語名がThe National Art Center, Tokyoである2007年開館のこの「美術館」は、旧来的な美術館としての権威を十分にまとっているとは言いがたい。美術館の床に誰でも自由にお絵描きができるというパフォーマンス作品《メガどうぞご⾃由にお描きください》も、欧米の権威ある美術館で行えばそれなりのインパクトがあるのかもしれないが、国立新美術館で実施しても、それはただの「床に描かれた落書き」以上のものではなく、ほとんどなんの効果にもなっていない。そもそも破壊されるべき権威がそこには備わっていないからだ。同じく深夜の国立新美術館で絵画を持ってダンスする動画も、舞台となる美術館は単なる瀟洒な現代建築の一つである以上の意味を示していない。
これが同じ国内でも、もう少し歴史と権威のある美術館での開催だったら多少は事情が変わったかもしれないが、しかし会場が「権威」の面で劣る国立新美術館だったのは、むしろ良かったことなのだと考える。というのも、このことによって「美術館」や「アート」の権威の破壊が、もはや同時代的な問題ではなくなったことが明白になったと思うからだ。そしてそれは、対照的に本展で扱われるもう一つのテーマである「絵画」の意外な「腰」の強さを際立たせるのである。「美術館」や「アート」の権威が失墜しても、「絵画」の権威は意外とまだまだ健在なのだ。その概念は更新を挑まれるべき対象として、未だ有効に機能しているのである。それは本展に出品される荒川以外の作家の手による本物の絵画作品よりも、荒川による絵画のマガイモノや「絵画」を刷新させる作品によって明らかになる。それらを成立させているものが「絵画」の概念だからである。いやそもそも、今回の展示におけるほぼすべての試みを支える屋台骨として「絵画」の概念は機能しているのだ。これだけ破壊や刷新、拡張を繰り返しても「絵画」はまだまだ有効で、さらに新たな挑戦を引き受けるだけの余裕を持っているのである。そのことが確認できただけでも、本展を見たかいはあった。
※展示情報
荒川ナッシュ医 ペインティングス・アー・ポップスターズ
会期:2024年10月30日-12月16日
会場:国立新美術館 企画展示室2E
休館日:毎週火曜日
観覧料:無料
URL:https://www.nact.jp/exhibition_special/2024/eiarakawanash/index.html