デイヴィッド・ホックニー展を見てデイヴィッド・ホックニーの絵の魅力について考える
先日、東京都現代美術館(MOT)でデイヴィッド・ホックニー展を見た。待望の展覧会で、どのくらい待望だったかと言うと、自分はこの展覧会を35年間待っていた。「日本では27年ぶりとなる大規模な個展」と謳われているが27年前の大規模個展=1996年に同じMOTで開催された「デイヴィッド・ホックニー版画展 1954-1995」は版画が中心の展示で、自分も見ているはずなのだが正直あまり記憶に残っていない。今回も数だけ見れば展示作品の半数以上はMOT所蔵の版画なのだが、要所要所に重要な作品が来ていて「デイヴィッド・ホックニー展」の名に恥じない本格的な個展となっている。展示構成も効果的で作品に関しても概ね満足のいく内容だった(「概ね」と留保を付けて手放しに賞賛しない理由については後ほど触れる)。
例によって図録は買っておらず、しかも今回は作品リストも配布していなかったので(たいへんよろしくない。作品リストを作らない展覧会は二流である)振り返るには詳細なデータが不足しているのだが、せっかくの機会なので今回の展示を手掛かりにデイヴィッド・ホックニーの絵の魅力について自分なりに考えてみようと思う。
個人的な思い出|思い入れ
ホックニーの存在を知ったのは高校三年生の時、受験のために通っていた美術予備校でのこと。自分にとってホックニーは初めての「好きになった画家」だった。もちろんそれまでも好きな画家はいたが、それは所詮「好み」の範疇で、曲がりなりにも絵の道を志してから好きになった作家とは心酔のレベルが違う。美術予備校に通い出したばかりの当時の自分は迷いの中にいた。問題は合格のために描かなければならないお手本としての受験絵画にマッタク魅力を感じないということだった。「いいと思える絵が描けない」と「いいと思えない絵は描けない」は天と地ほどの違いがある。前者はそれを克服するために(こそ)努力し、工夫し、もっともっと描けばいいだけなのだが、後者はそもそもの解決策すら見付からない。予備校の講師は「こんな絵(=受験絵画)を描くのは受験生の時だけだ。合格してから本当に自分がいいと思う絵を描けばいい」と言っていたが、大人の社会の「嘘」に敏感になっていた高校生の自分にとってそれは耐えられない欺瞞のように思えたのだ。
過去の合格者が描いた参作だけではなく画集やスライドで巨匠作家の作品も参考として見せられたが、受験絵画とあまりに違い過ぎて、どうやったらココからソコに繋がるのかその道筋がまったく想像できず、なにか別世界の産物のように思えてしまうのだった。しかし、講師が見せてくれた絵のなかでホックニーだけは違ったのだ。ホックニーの絵だけは素直に「これは好きだ!」と思えたのである。こんなふうに自分も描いてみたい!と強く思わされる絵だった。今回の展覧会でも始終「こんなふうに描いてみたいな~」と思いながら作品を見ていたのだが、「自分も描いてみたくなる絵」というのはホックニーの絵の魅力を解き明かす手掛かりのひとつとなるだろう。
ホックニーという「好きになれる手本」を見付けた高校生の自分は、ホックニーの絵を真似しまくった。一本の線で描く人物画のペンドローイングが好きだったので、当時はどこに行くにもクロッキー帳と水性ペンを持ち歩き、目につく人を片っ端からスケッチした。もちろんホックニーのドローイングとは似ても似つかぬ稚拙なレベルのものしか描けないのだが、その良さがまったくわからない煤けた木炭デッサンが苦行でしかなかったのと違って、同じ素描でもこんなにも楽しいのかと嬉々として描きまくっていた。模写もした。ホックニーの1970年代のアクリル画を画集の図版を手掛かりに模写してみたのだが、これは無謀な試み過ぎてあまりの難しさにトラウマになってしまった。その後遺症でその後の人生においては模写というものを一回も試みたことがない。予備校の講師も「ホックニーはこうは描いてないと思うぞ…」と呆れていたが、画集の図版からだけではホックニーが「どう描いているか」を掴むことは難しかったのだ。今回の展覧会では70年代のダブル・ポートレートが三点来ていて、実に35年経って初めてホックニーが「どう描いているか」を仔細に観察することができた。もちろん感無量である。胸が詰まるとはこういうことを言うのだろう。
ホックニーの絵におけるメタとベタ
かのごとくホックニーの絵は右も左もわからない高校生も瞬時に虜にしてしまうようなわかりやすい魅力を持つ。しかしいざその魅力について説明しようとすると言葉に詰まってしまう。とくに難しいのがコンテンポラリー絵画としてのホックニーの絵の魅力である。ホックニーの作品が「現代的」であることは間違いない。近年のiPadドローイングに代表されるように常に最新の画材を開拓し貪欲に取り入れていく姿勢はコンテンポラリー作家としての面目を施している。しかしモチーフや描法にはクラシックな面も目立つ。作品が纏う雰囲気は間違いなく現代的だが、現代絵画としてのコンテンポラリーさが具体的にどこにあるのかを説明するのは案外難しいのである。
しかし、まさにそこにこそホックニーの絵の魅力はあるのではないだろうか。つまり一つの絵の中にコンテンポラリーとクラシックが並存している状態、それこそがホックニーの絵を特別なものにしているのではないかと考えるのである。それをメタとベタが同居している状態と言い換えることも可能かもしれない。卓越した画力に基づくクラシックな絵としての魅力は「ベタ」の部分である。では「メタ」の部分はどのようなものだろうか? そのことについて考えてみたい。
ポップアート時代(60年代前半)
今回の展示を見ていて気付いたのは、ホックニーの作品には「絵」であることを自己言及的に絵自体が示しているものが多いということだ。展覧会の冒頭にはデビューから間もないポップアート時代の作品《イリュージョニズム風のティー・ペインティング》(1961)が展示されているのだが、この絵などまさにその代表だろう。過去に画集で図版としては散々見てきたのだが、今回初めて実物を目にしてこんな作品だったのか!と驚いた。四枚のキャンバス(長方形のものが二枚と平行四辺形の変形キャンバスが二枚)を組み合わせて紅茶の紙箱を立体イリュージョン風に表現している作品である。図版だけ見るとパネルにでも描いていそうな感じもするが、実物はキャンバスとしての存在感が強く、それがイリュージョンの形成に寄与しつつも、同時にこの作品が紛れもない「絵画」であることを主張するような造りになっている。
ポップアート時代の作品としては同じく画集ではお馴染みの代表作《一度目の結婚(様式の結婚Ⅰ)》(1962)も来ていて感激したのだが、この絵のようにこの時代のタブローは下塗りをしないキャンバス地に複数の種類の描写を混在させることで「絵」であることをメタ的に示している作品が多い。さらに今回の出品作では控えめだが、ポップアート時代のホックニーの作品の大きな特徴として文字や数字の画中への描き込みが挙げられる。東洋画では賛として絵に文字を書き添えることは珍しくないが、その場合の絵と字は分離していて同じ画面中にあっても別の次元に属している。それに対して西洋画では画中に文字を描き込む習慣自体が稀だったが、特にキュビスム以降は画面内における文字の扱いは劇的にその意味を違えた。これは前回ABSTRACTION展について書いた記事でした話とも重なるのだが、キュビスムの絵画に描かれた文字はコラージュや過剰なマチエールと同様に「絵画」であることの自己言及の役割を果たしているのである。絵が「絵」であることをメタ的に示すことで、現実世界のリプレゼンテーションをイリュージョンとして描く古典的な絵画と一線を画しているのだ。ホックニーの絵に描かれる文字も確実にその伝統のうちにある。
フレームを描き込む(60年代半ば)
ポップアート時代が終わりカリフォルニアに移住したころから目立ってくるのが絵のフレームを直接画中で示した作品である。その代表的な例が額縁に入った絵を額縁ごとリトグラフで描いた《ハリウッド・コレクション》(1965)だが、今回あらためて注目したのはMOTが所蔵するホックニー作品150点の中で唯一のペインティング作品である(そして長年自分が目にすることのできた唯一のホックニーのタブローでもあった)《スプリンクラー》(1967)だ。この作品の画面周囲の余白のスペースとそこに引かれた赤線の枠もまさしく「描かれたフレーム」で、絵が「絵」であることを自己言及的に示すメタ的要素となっている。同様の余白や枠線の描き込みは同時期の他のペインティングでも確認できる。
展示を見ていて気付かされたのはペインティングと版画制作の連関である。ポップアート時代のホックニーの版画作品はエッチングが中心だったが、エッチング特有のひっかき傷のような描線をその時代のペインティングにも見て取ることができる。それがカリフォルニア時代に入ると版画ではリトグラフの制作が増え、それに呼応するようにペインティングでは周囲の余白や枠線の描き込みが試みられるようになるのだ。《ハリウッド・コレクション》がペインティングや素描をリトグラフで描いているのに対し、周囲の余白や枠線の描き込みがある絵画は版画のプリントシートをペインティングで描いているように見える。別のメディアの絵をメタ的に描くことで、それを描画するメディアが持つ特性を炙り出しているのだ。
リアリスティック・スタイルの時代(60年代末~70年代)
60年代末頃からホックニーは等身大のダブル・ポートレートに代表されるリアリスティックな作風のアクリル画(一部は油彩画)を描き始める。この時代のペインティングには画中にそれ自体が「絵」であることを示すようなメタ的要素は描き込まれず、一見すると古典的なイリュージョン絵画に逆戻りしてしまったようにも思える。しかしホックニーのリアリスティック・スタイルの絵画は古典的なリアリスティック絵画とはなにかが違う。なにかどこか不自然で「リアル」ではないのだ。古典絵画のようにも、あるいは写真のようにも見えるリアルさを持ちつつ、どこか人工物めいても見える。
この時代のホックニーは文字の挿入やフレームの描き込みなどのメタ的要素を直接画中に描く方法ではなく、画面構成や描写の機微で絵が「絵」であることを伝えるような試みをしていたのではないだろうか。ダブル・ポートレートでは画中画が描かれることも多いのだが、自己言及的なメタ的要素をいかに自然なかたちで画面のなかに取り込めるかに挑戦していたのだと思う。特に顕著なのはフレーミングの意識で、絵の中の構成要素を使いながら自然なかたちで画面を分割・構成していく手法が特徴的だ。
複数の消失点を持つ空間(80年代~)
80年代に入るとホックニーの絵の作風は再び大きく変化する。色彩は原色に近くなり、なによりも画面内の空間が複数の消失点を持つ複雑なものになる。近代絵画の自己言及化がルネサンス以降の遠近法に基づくイリュージョン絵画からの脱却としてスタートしたことを思えば、ここではそもそもの一点透視図法の解体自体をテーマにしているのだと言える。絵画でしかあり得ない空間を描くことで、絵が「絵」であることに自己言及しているのだ。色彩が極端に鮮やかになるのも「絵」であることの自己言及化の一環として見て取ることができる。
キュビスム的な極端に複雑な消失点を持つ空間を描く絵は80年代の作品のみの特徴なのだが、絵画内における複数視点への興味は緩やかに継続していくようで、今回の展示では2010年代に変形キャンバスに描かれた作品をフォトグラフィック・ドローイングの《スタジオにて、2017年12月》(2017)のなかで確認することができる(この作品に写っているタブローも実物で見てみたかったが、見たいものを言い始めると切りがない)。
複数のキャンバスを組み合わせる(90年代末頃~)
ホックニーのペインティングについて手元にある画集で確認すると、90年代末頃から複数のキャンバスを組み合わせて大きな一枚の画面を形成する作品が見られるようになる。2000年代の制作が一番盛んだったようだ。今回の展示ではキャンバス50枚を組み合わせて457㎝×1219㎝の大画面を構成する《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007)が出品されている。
同じ部屋でこの作品のメイキング動画が放映されているのだが、これはとても良いキュレーション処置である。というのも、この絵は50枚すべてを組み立てた状態ではなく、画面全体を見渡せない状況下でそれぞれのパーツの絵が部分ごとに描かれているのだ。そのことこそがこの作品のもっとも重要な点なのである。一枚の大きな画面を脚立と大勢の弟子を使って一気に描くのであれば、それは古典的な絵画の制作法と同じでありクラシック=ベタなのだ。そうではなく、デジタル技術を駆使して全体を確認しながらバラバラの状態の絵をホックニーが一人で描いていくところにこの作品の「コンテンポラリーさ」があるのである。その制作法自体が絵の中に要素として含まれており、そこに古典的なイリュージョン絵画とは一線を画す絵画の自己言及性を見て取ることができる。
続く展示室で複数のカメラで森の小道をとらえた映像作品《四季、ウォルドゲートの木々》(2010-11)を展示してあるのも親切である。九台のカメラで分割撮影した光景を九台のモニターを組み合わせて上映する映像インスタレーションだが、カメラごとの画面の分割は少しずつズレを孕むように配置されている。作品的にはホックニーが80年代に試みていたコンポジット・ポラロイドの動画版といった感じだが、分割された油彩画(こちらは各パーツにズレを孕んでいない)との対比で画家(あるいは人間)が世界を見るその視線の不思議さが実感できるような展示構成になっている。
絵画が「絵画」であることの自己言及は絵画が自律化を求められた近代以降では特に珍しいものではない。しかしその自己言及性が結果的にその絵にとってどのような働きをしているかは作品ごとに異なるだろう。ホックニーの絵における自己言及性は、彼の絵の「ベタ」の部分、つまり卓越した画力によるクラシックな絵の魅力と相まって、絵を見るものに「絵」というものの不思議さを実感させる役割を果たしているように思う。たとえばホックニーのiPadドローイングは、ブラッシングやエフェクトなどでウェルメイドな仕上げの加工をするのではなく、ペイントツールのブラシの形状がそのまま残った「生」のかたちで完成される。ゆえにそれを見る我々は、クラシカルな輝きを持った絵が紛れもなく普段自分たちが使っているのと同じ道具で描かれていることを知ることになる。無機的なCGの線が花となり水となり光となる。その不思議。ホックニーの絵におけるメタ的な自己言及性は、絵を見るものの意識をその「不思議」にフォーカスさせる。我々はホックニーの絵の中に彼の「絵を描くこと」自体を見ることで、画家が世界を見つめるその視覚を追体験する。その不思議こそがホックニーの絵の最大の魅力なのである。
《ノルマンディーの12か月》の問題点
この記事の最初で、今回の展覧会について「概ね満足のいく内容だった」とやや留保を付けて評価した。その留保の原因は本展最後に登場する《ノルマンディーの12か月》(2020-21)にある。本展中もっとも広い展示室を割り当てられた全長90メートルを超えるこの大作は本来ならば展示のクライマックスとなるべき目玉なのだろう。しかし、この作品がなんだかイマイチなのだ。展覧会の流れとしてここまでは作品もキュレーションもいい感じで来ていて手放しで賞賛できる出来だったのに、最後の最後でちょっとつまづいた感じになってしまった。
安っぽく見えてしまうアウトプットとスケールに見合わない空間
その原因はあきらかにプレゼンテーションの仕方にあるのだと思う。本作は戸外でiPadで描いた複数の絵を横に繋げて絵巻物的に再構成した作品なのだが、長さが90メートルある絵を連続して見せるという性質上、フレームに入れて展示することは適わない。その結果、湾曲した壁面にプリントアウトした絵がそのままピンで留めて展示されているのだが、これがなんかとても安っぽい感じに見えるのである。ホックニーのデジタル画はモニターで展示する場合もプリントで見せる場合もそのアウトプットは完璧で安っぽく見えることなどあり得ない。絵が貼ってある壁面を黒く塗ったりなど工夫はしているのだが、根本的な解決策にはなっていないように思えた。
さらに言うと作品のスケール感も中途半端なのだ。これも他のホックニー作品ではあまりないことなのである。作品のスケールはホックニーの作品にとって非常に重要な要素なのだ。たとえばこの直前の展示室では同じくiPadで描いたデジタル画である《春の到来、イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011)が展示されているが、同作は高さが2メートルを超える大きさにまで引き延ばされ、パネル貼りした上でさらに黒のフレームで額装されている。その作品が高さ366cm幅975㎝の巨大な油彩画と組み合わされて展示されることによって、スケッチされた森の中にほんとうにさまよい込んだかのような圧巻のインスタレーションとなっている。それと同時にこの作品の巨大なサイズは、小さなiPadで描いた絵を現実の風景に見紛うような大きさにまで拡大してもまったく遜色なく鑑賞に堪えうるという驚きを見るものに与える。つまり絵のアウトプットのスケールが絵が「絵」であることの驚き、すなわち絵画の自己言及性に寄与しているのだ。
それに対して《ノルマンディーの12か月》は、90メートルという長さに対して絵の高さは1メートルしかない。細かく分割してフレームに入れて鑑賞するならばこのサイズでもいいのだろうが、MOTの天井の高い巨大な展示室で見るとかなり中途半端なサイズ感なのである。ネットで検索してみたが同作の過去の展示はもっと天井の低い展示室でのものが多い。ここまで天井の高い空間での展示は初めてなのではないだろうか。他館の展示では比較的天井高のある空間の場合は壁面全体を黒く塗って展示したり、下地となる黒の面積を絵の上下で同じにしてフレーム感を出したりして工夫している。しかし今回のMOTの展示では展示室中央に設えた仮設壁での展示で、壁の高さは目算で2.4メートルほどしかない。展示室の天井高は6メートルくらいあるので本来ならば絵のフレーム的役割を期待される黒地の壁も上方に広がる空間とのバランスの悪さでその役割を果たせていないのである。
「絵」と「絵画」の違い
目玉となるべき作品がイマイチだったのは残念だったが、しかしここからは面白いことがわかる。それは「絵」と「絵画」の違いである。《ノルマンディーの12か月》の見え方がイマイチだったことは、逆説的にホックニーの絵が「絵画」であることを示しているように思うのだ。
それを説明するためにはまず「絵画」について定義しなければならない。自分にとって「絵」と「絵画」は異なるものだ。「絵」が上位概念で「絵画」はそのサブカテゴリーである。「絵画」は中国語に由来する日本語だが、自分がその言葉から連想するものは西洋美術に由来する絵画だ。つまりここでいう「絵画」とは西洋由来の概念なのである。東洋画の古典作品に「絵画」の語を使用する場合は、「絵」と同じ意味で使っているか、もしくは西洋画的な「絵画」の概念を遡って当て嵌めているのだと考えている。ではその西洋美術に由来する「絵画」とはどのようなものなのかというと、これはとても一言では説明できない。しかし少なくとも絵の自律性は確実に重要な条件となるだろう。絵が他の何物にも拠らずその絵としてのみ意味や価値を持つことだ。例えば賛と組み合わされることの多い東洋画はその意味で「絵画」度が低いのである。先にポップアート時代のホックニーの多くの作品に文字が描き込まれていることを指摘したが、東洋画における賛と違って、ホックニーの絵に描き込まれる文字は絵と分離しておらずその一部となっている。文字の意味内容に絵が付随するのではなく、絵の一部として文字があるのだ。それはホックニーの絵が自律した「絵画」だからなのである。
ここで問題にしたいのは、絵画を「絵画」たらしめているその条件についてなのだ。《ノルマンディーの12か月》の見え方が他のホックニーの作品に比べてイマイチであるという事実から、その条件の一部を明らかにできるように思われるのである。
真っ先に思い浮かぶのはフレーミングの問題である。高さが1メートルなのに対して幅が90メートル以上ある《ノルマンディーの12か月》はあきらかに東洋の絵巻物を意識しているのだろう。しかし絵巻物のフォーマットでは西洋絵画的なフレーミングが難しいのだ。画面全体を視界に入れることは適わないし、額装することも難しい。逆に言えばそこから西洋画と東洋画での絵におけるフレーミングの意識の違いが浮かび上がってくる。そしてホックニーの絵はあきらかに西洋画的な、すなわち「絵画」的なフレーミングを持つときに(もしくは持つことによって)その輝きを増すのである。
さらに西洋美術的な「絵画」の概念では絵のモノとしての存在感の大きさも重要になる。壁にプリントを直接ピン留めした《ノルマンディーの12か月》はそのモノとしての存在感に欠けているのだ。このことに関して今回の展覧会に出品されていた他の作品で興味深かったのはフォトグラフィック・ドローイングの作品である。フォトグラフィック・ドローイングは今回は二点出品されている。どちらもそこに写されたイメージ自体はCG加工により手が込んだ操作が為されているのだが、アウトプットとしては完全に写真プリントである。人の手の痕跡が認識できることも「絵画」感の重要な要素であり、その意味では「写真」であるフォトグラフィック・ドローイングはペインティングはもちろん、版画やデジタルドローイングのアウトプットと比べても「絵画」感が薄い。ともすれば作品ではなく資料用の写真パネルのようにも見えかねない。しかし今回の展示で実物(という概念自体がまた興味深いが)を見て思ったのは、作品の大きさやパネルの厚みなどで、かなり境界線的ではあるがギリギリ「絵画」感を感じさせるのである。ほんとうにギリギリな感じで、たぶん美術館の広い展示室で見ることが前提になっていて、見る環境によってだいぶ見え方は変わると思う。面白いことに今回展示されているフォトグラフィック・ドローイングのうち《2022年6月25日、(額に入った)花を見る》(2022)のほうは会場の外のエントランスホールにも巨大に引き伸ばされてディスプレイされている。オリジナルと複製の違いがハッキリしている油彩画などと違って「写真」であるフォトグラフィック・ドローイングの作品はその境界が不明確だ。しかし今回の展覧会では会場内にあるパネル貼りしたものがオリジナル=作品でエントランスホールにあるものは複製=ディスプレイということになるのだろう。ここにもモノとしての存在感と「絵画」性との関連を見て取ることができる。
展覧会の締めとなるべき作品がパッとしなかったのは残念だが、ホックニーの絵における「絵画」性の重要さについて考えるきっかけになったのは思わぬ僥倖だったと言えるかもしれない。
※展示情報
「デイヴィッド・ホックニー展」
会期:2023年7月15日-11月5日
会場:東京都現代美術館 企画展示室 1F/3F
料金:一般 2,300 円 (1,840円) / 大学生・専門学校生・65 歳以上 1,600円(1,280円) /中高生 1,000円(800円) /小学生以下無料 ※( ) 内は20名以上の団体料金
URL:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.html
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