連載小説『モンパイ』 #5(全10話)
荷物を隅に置き、再びスマホを確認する。
やはり先輩からの連絡はない。
仕方ない。
一人で配り始めてしまおう。
そう決意して、袋から資材を取り出す。
無料体験実施中のチラシと、共通テスト対策のイベント勧誘チラシ、講師の顔写真と熱いメッセージが掲載された薄いパンフレット、そして付箋が、B5サイズの透明なファイルに入っている。
それが百セット。
普段は二人で挑むが、今日は一人。
捌き切れるだろうか。
レストランのウェイターがお皿を持つがごとく、左手に十部ほど資材を持ってスタンバイする。
七時三十分。
いよいよ決戦の火蓋が切って落とされた。
と言っても、最初は生徒が全然通らない。
一分あたり数人、運動部の朝練に行くと思しきジャージ姿の生徒や、受験生と思しき参考書を片手に持つ制服姿の生徒が通り過ぎるだけだ。
その一人一人に「おはようございます! ○○予備校です!」と声を掛けながら配布していく。
もちろん、多くの生徒が素通りする。
思えば自分が高校生の頃もこの手の配布物は受け取らない主義だったので、素通りされたとて何ということはない。
だが、受け取ってもらえると、やはりちょっと嬉しい。
だから、受け取ってくれた生徒には特別に「いってらっしゃい!」と言うようにしている。
まるでどこかの夢の国だ。
こんなことを言われて喜ぶほど高校生は子どもじゃない。
自己満足、と言われてしまえばそれまでなのだが、しかしこの工夫は、自分のちょっとした遊び心をくすぐる絶妙なスパイスとなる。
一方、受け取るふりをして手を引っ込めたりする、態度の悪い生徒も稀にいる。
朝っぱらからそんなことをされると怒りたくもなるが、かと言って構っている暇もない。
静観して粛々と配布を続けるまでだ。
おはようございます! ○○予備校です! 付箋お配りしています! おはようございます! いってらっしゃい! おはようございます! 付箋お配りしています~! おはようございます! ○○予備校です! いってらっしゃい!
数少ないコマンドをひたすらに繰り出し続ける。
コマンド数を増やす努力をしないあたりに自分のやる気のなさを感じる。
だが仮に「第一志望をあなたに! ○○予備校でございまぁ~す!」だの「共通テストの早期対策を始めませんか?」だのと言ってみたところで、受け取ってくれる生徒が増えるわけでもない。
せいぜい学内で「今日の門の前にいた人めちゃウケたよね、わかるー、それな」などと話のネタにされるのが関の山だ。
こんなところで自分の恥を捨てることなどしたくない。
いつだって隙のない人間でありたい。