「だから、もう眠らせてほしい」を読んで
自分で決められるという事
本書を読み私は安楽死制度自体はありだと思った。
それは暗にみんな安楽死を選べばいいと言う訳ではなく本文中の言葉を借りるなら「患者の利益を最大に守る方法として」必要だと思ったからだ。
つらい闘病生活も自分で決めたなら頑張れる事もあるかもしてない、でもそれが他人から押し付けられたものであれば苦しいだけではないだろうか。
どの道を選んだかではなく、“誰が選んだか“が大切だと思う。
安楽死は無くなればいいと思っているが制度はあってもいいと思っている、それは患者が自分で決められるという選択の自由のために。
人がひとりで考えられる事なんてたかが知れている
本文中にもあったが安楽死という窓口があるからこそ死にたいと思っている人に関わる事ができ死以外の選択肢を見つける事ができるかも知れない。
私は“人がひとりで考えられる事なんてたかが知れている“と思っている。
自分では死以外の解決策が思いつかなかったとしても他の人と関わる事で自分では考えもしなかった解決策が出てくる事もある。そしてそれが積もり集まって行けば自分の悩みは過去に誰かが経験していて解決策も無数にある状態もつくれるかも知れない。
最後に決めるのは自分自身だが解決策を探しているときはひとりで無くていい。
今の自分に当てはめて(鍼灸マッサージ師として)
私は現在、鍼灸マッサージ師として高齢者や脳梗塞の後遺症がある方に訪問施術を行っている。
そんな立場から本文中の「『家族の意思』を尊重しちゃうでしょ、医療者ってのは」というセリフは衝撃的だった。
訪問の依頼は家族やケアマネからいただく事が多い、そんな中で自然と患者本人より依頼者の意思を優先させていたのではないかと自分を省みた。
どうすればもっと動けるようになるか?どうすればもっと良くなるか?そればかりでなく患者自身が“どうしたいのか“にフォーカスしていこうと改めて思う。
患者のどうしたいかにフォーカスするからと言って家族の意思は無視していいとは思っていない家族も意地悪したくていろいろ言うわけではない、なんとかしたいとの思いからだ、そこを繋げて行きたい。
鍼灸マッサージ師は患者と近すぎず遠すぎずの絶妙な距離感にいる存在だと私は思っている。だからこそ患者と家族、そして患者と医師などの橋渡し役になれると信じている。
私ひとりで考えられる事なんてたかが知れている、だからこそ橋渡し役となりその輪の中で患者さんのどうしたいかに応えられる、そんな仕組みを作って行きたい。
思ったことを書いていたら感想文から離れていってしまった気もするがここまで読んで頂きありがとうございました。
自分の事を自分で決められる自由、でもそれを決めるまでには誰か一緒に考えてくれる人がいる、その事で世界はもう少し安心して生きていける場所になってくれる。
そう思う。