映画「ディアファミリー」からの妄想。「寿命=不治の病」諦めない事について。そして偉業をなすとは
最近に限らず、映画で人の生き方がテーマの映画を観ることが多い。
きっかけは「かずゑ的」、「ディアファミリー」などの映画だが、思ったことがあります。
よく余命何年ものの映画があります。「余命10年」しかり、そこに通底するのは自分の命を残りわずかな中でどう使うかというテーマの様な気がする。もちろん、それは大事なテーマだが、ふと思ったのは、長い、短いはあれど、人は寿命という不治の病にかかっている精霊とも捉えられる。であれば、自分の命云々を超えたところに人間の尊厳はあるのではないかと。ディアファミリーでは、主人公の坪井さんは
人口心臓の開発に1000億単位の投資が必要なことに打ち当たり、それを諦める。その後が凄かった‼️
心臓病を抱える娘の私の命はいいから、これまで蓄積した研究成果を苦しんでいる人のために使ってという言葉にスイッチが入ったようにカテーテルの開発と販売に力を入れていく。ここで、彼の負けん気と男気が顔をのぞかせる。
一緒に研究に関わった若い医師たちにはサンプルと称して無料で提供する一方、彼を出禁にした石黒教授には高値で売りつける。
ここでディアファミリーを踏まえて命とは、人の生きる意味とは?に思い至りました。一人の命は人類の一部、それ故尊い。偉業をなす人とは、人類の叡智の一部分を担うことを天から委託された存在。しかしそれは必ずしも幸せを意味しない。平凡な人生は送れないのだから。
ディアファミリーは、偉業が幸せな人生と両立できたという意味において真の偉業であり、あるいは凡人の偉業と言える。
※結論が唐突かと存じますが、一応エッセイなので。。
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