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知って満足する
「アウトプット」について考えてみる。学習の場にしろ、仕事の場にしろアウトプットこそ大切、インプットだけでは何も生み出さないという考え方がスタンダードだと思う。学習であれば、頭の中に入ったはずの知識をアウトプットすることで、頭に入ったことを確認する。仕事であれば納品物だったり、企画書提案書であったり、様々なビジネス課題の解決方法を提示しなければクライアントは納得しないし対価を払う対象が存在しないと言われかねない。素敵なアイデアだから認知されるのではない、みんなが認知して受け入れているから素敵なアイデアなんだ、という構図。だからアウトプットに価値があるのであって、アウトプットを前提としないインプットは無駄である、という主張が生まれる。
アウトプットが重要という考え方を否定するわけではないものの、「アウトプットなきインプットは無駄」という考え方には抵抗を覚える。すぐにアウトプットできるインプットしかしないというのは楽しくないのではなかろうかと思うのだ。それに「インプット=知らないことを知る・わかるようにする行為」と考えると、インプット自体が楽しいよね?ということにはならないのだろうか。無駄だけど楽しいものごともあるので、「楽しい」が「無駄ではない」という根拠にはならないのだけど、インプットという行為を「役に立つ」「役に立たない」という基準で考えるのがそもそも違うように思える。
役に立つか否かという基準で語られるようになったのは、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが求められるから…という昨今の風潮と無縁ではないのだろうと思う。しかし、インプットに関して考えると、「インプットしても憶えていられない」という感覚が強いということも一因なのではなかろうか。「すぐにアウトプットにつなげられるインプットでなければ、どうせ忘れてしまう。覚え続ける労力をかけるのも、体力がいるし…」ということであれば当然「アウトプットのためのインプット」という考え方になる。
さて、そうなると、「憶えていられない」のはなんでだろう、ということが問題になる。いや、そもそも本当に「憶えていられない」のだろうか? 憶えることへの得意不得意は個人差は当然あるものの、何でもかんでも「憶えていられない」なんてことはないように思える。思い出すきっかけは必要かもしれないし、時間的に後のインプットの影響で古い記憶がかきかわってしまうこともあるものの、人間、そこまで「憶えられない」ものではないのではないだろうか。成功体験を若者に語る老害的人間は、成功体験を覚えていなければ存在できない。推し活をしている人なら、推しの過去を事細かに語るのはそれこそ至福の時間だろう。つまり、人は「憶えられる」し、「憶えていられる」のだ。覚えていられないというのは一種の思い込みか、もしくは、憶えられないジャンルと憶えられるジャンルが存在するか、ということになるのではなかろうか。それこそ、学校の勉強で「完璧に憶えること」を目指してしまい挫折した経験などで「憶えられない」「憶えることはつらいこと」と思うようになった可能性もあるだろうし、「憶えるべきこと」が自分の「憶えられない」ジャンルだったのかもしれない。
「憶えること」への躊躇いがなくなると「いつアウトプットするかわからないけどインプットしておこう」と考えることができるようになるはず。そうなると、「役に立つかどうか」というインプット時のフィルターがなくなるので、なにか気になることはインプットしておこう、という発想になる。おそらく「インプット」「アウトプット」を意識していないジャンル、自身の趣味の世界での知識などであれば、今も同じ意識で憶えているはずである。つまりは、憶える内容が楽しければ憶えられるのだ。結局のところ「インプット=知らないことを知る・わかるようにする行為」と考ればインプット自体が楽しい、ということに尽きるという話だ。
情報技術は進化しているので、記憶することの価値が低下していることは否定できない。書いて記録することが可能になった時点で、憶えることの価値が下った(ソクラテスは書いて記録することを否定している!)ように、スマホにお手軽に動画で記録できる現代において「憶えることが楽しい」と主張することはもしかしたら時代錯誤的なところもあるかもしれない。が、それでも「インプット」することは楽しいことのはずなのである。アウトプットを期待しなくても、インプットする、知ることで人間は満足できるはずなので。