夢をみている自分を見ているもうひとりの自分
例えば、落下する夢をみて本当にベッドから落ちて目が醒めるときがある。例えば、ションベンをする夢をみて実際に寝小便をして目が醒めたことがある(もちろん今はない)
夢と現実における時間の概念について考えてみた。
夢に誘導されてベッドから落ちたのか、あるいはベッドから落ちたことに誘導されて落下した夢をみたのか。もし後者だとしたならば、実際にベッドから転落するという現象はほんの一瞬なわけで、でもその刹那に夢の中では「落下するという事実に達するまでの物語」が展開されていることになる。
それは、車に搭載されているドライブレコーダーが「ある事象に対してそこに達するまでの場面が逆算されて記録される」のとよく似ている。
まるで僕がベッドから落ちるのを予知して、その瞬間を知っていたかのごとく、夢と現実は全く同一の現象が同時に起きているわけだ。そしてそれは夢の中では、物語の結びとして「落下」に到達することになる。オネショに関しても一緒だ(もちろん今はしない)
よく「人は死ぬ間際に走馬灯のように人生がよみがえる」と言われるが、実際に死んだことがないのでわからないのだが、それは死ぬ間際のほんの一瞬なのだと思う。その一瞬のあいだに、人は自分の一生すべてを思い出すのだろう。
まるで、夢の中で刹那に物語を紡ぐように。
「時間」という概念は人間が創りあげたものだ。1分は60秒、1時間は60分、1週間は7日、1年は12ヶ月である。それは紛れもない事実だ。
でも、そこに真実はあるのだろうか。事実と真実はまるで違うものだ。
ベッドから落下するのは時間にしてほんの1秒か2秒だろう。それは事実としての出来事だ。しかしその1秒で、僕は夢の中で果しない物語をつくることができる。僕は10秒間でオネショをする(もちろん今はしない)。そして僕はその10秒間で、小便をするまでの壮大で果しない物語を紡いでいる。これこそ真実なのだと思う。
夢にしか登場しない人物がいる。顔も知らない会ったこともない人と、夢の中では一番の親友のように行動する。そして夢から醒めると、どうしてもその親友の顔を思い出すことができない。でもその人は違う人格となって再びぼくの夢にやってくる。「あぁ、また会ったね」ではなく、やっぱり夢の中では当然のように親友として一緒に物語を紡いでいくのだ。
いつ出会ってどういう関係を築きあげてきたのかなんて関係なしに、ぼくと君は瞬時に同化し、そして幻のように消えてゆく。そこには過去も未来もなく、あやふやだけど確固とした「今」しか存在しない。それは宇宙の塵ほどの存在でしかないが、いつも夢の中にしか真実は見えてこない。
時間は経過していくものであり、でも夢の中は今しか存在しない。過去も未来もあいまいで、確固とした今しか存在しない。夢で過去に戻り未来を旅し、でもその一瞬は確かに存在し、一瞬は懐かしい未来であり遥かなる過去である。人はその真実のみで生きている。
時の流れとは、1秒が2秒になり1日が過ぎ10年が経つことではない。今を積みあげて蓄積することが時の経過であり、それが「時間の真実」であり「夢の真実」なのだと思う。
僕はその真実のみで生きていく。