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仁義なき戦い「ケベック州死闘編」

はじめに

 サッカーなどで「〇〇ダービー」とか「〇〇クラシコ」という言葉を耳にしたサッカーファンや、「〇〇シリーズ」という言葉を耳にした野球ファンは多いと思う。
 とりわけ欧州や南米のサッカーにおいては、グラスゴー(スコットランド)のセルティックとレンジャーズの「オールドファーム(アイルランド系カトリックVSアングロサクソン系プロテスタント)」や、ブエノスアイレス(アルゼンチン)のボカ・ジュニアーズとリーベル・プレートによる「スーペルクラシコ(労働者階級VS上流階級)」など、民族・政治・宗教対立の色が濃いものがある。
 翻ってプロスポーツ大国アメリカにも、大リーグのニューヨーク・メッツとヤンキースによる「サブウェイ・シリーズ」や、サッカー(MLS)のシアトル・サウンダーズとポートランド・ティンバーズ、カナダのバンクーバー・ホワイトキャップスによる「カスカディア(米ワシントン州・オレゴン州・加ブリティッシュコロンビア州一帯を指す)・ダービー」などがあるが、欧州や南米のような民族・政治・宗教対立の色は薄い。
 1980‐90年代にアイスホッケー(NHL)のモントリオール・カナディアンズと、ケベック・ノルディクスという二つのチームの間で繰り広げられた、「ケベックの戦い」を除いては。

第1章:カナディアンズ・ノルディクスの始まり

パート1:モントリオールとケベック・シティ

 カナダはご存知の通りアメリカの隣国であるが、ケベック州に差し掛かると標識や看板はすべてフランス語になる。そんな「フランス語圏」ケベック州において、二大都市ともいえるモントリオールとケベック・シティは、似ているようで全く異なる顔を持つ。
 モントリオールはケベック州内を流れるセント・ローレンス川に浮かぶ、モントリオール島の北部から中央部にかけてのエリアにある。市内にはフランコフォン(フランス語話者)が多数を占めるものの、英語系大学であるマギル大学やコンコルディア大学の存在に代表されるように、アングロフォン(英語話者)もそれなりに多く(特に島の西部はアングロフォンが多数住んでいる)、アイルランド系やユダヤ系、イタリア系やアフリカ系、中国系やハイチ系、そして先住民などがひしめき合い、まさに多民族都市の様相を呈している。
 また、同市は1967年のモントリオール万博や、1976年のモントリオール夏季五輪、F1カナダGPなどが開催され、「シルク・ドゥ・ソレイユ」の本拠地でもある。
 
 ケベック・シティはケベック州の州都であり、ケベック州との混同を避けるために、英語で「ケベック・シティ」、フランス語で「ヴィル・ド・ケベック」とも呼ばれる。また、「北米ではメキシコ以北で唯一の城郭都市」と目されるように、城壁で囲まれた旧市街で名を馳せている。
 ちなみに同市は人口の9割近くをフランコフォンの白人が占め、英仏バイリンガルの多い多民族都市でリベラルが強い政治風土のモントリオールに対して、フランコフォンの白人中心で、歴史的に右派が強い政治風土のケベック・シティという構図が一般化している。

モントリオールのダウンタウン
ケベック・シティ旧市街

パート2:カナディアンズ(創設‐1979年まで)

 モントリオール・カナディアンズは、NHL優勝(スタンレーカップ優勝)24回を誇る、アイスホッケー界を代表する名門チームである。そんなカナディアンズが産声を上げたのは1909年、NHLの前身にあたるNHAの創設メンバーとしてである。背景には、フランス系のチームを作ることでフランコフォンを取り込むという、NHA関係者の目論見があったという。
 
その後紆余曲折を経て1919年、NHAはアメリカ東部・五大湖周辺のチームと合流し、NHLへと改組されることになった。
 しかし、第一次世界大戦や世界恐慌などもあり、1942年の時点で、モントリオール・カナディアンズ、トロント・メープルリーフス、ボストン・ブルーインズ、ニューヨーク・レンジャーズ、デトロイト・レッドウィングス、シカゴ・ブラックホークスの6つだけになった。NHLの6チーム体制は25年にわたって続き、上記6チームは「オリジナル・シックス」と呼ばれることになった。
 「オリジナル・シックス」の中でもカナディアンズの人気と実力は群を抜いており、特に1950年代にはスタープレイヤーだったモーリス・リシャールを中心に、56年から60年にかけてスタンレーカップ5連覇を成し遂げた。その後も1965年から79年にかけて10度のスタンレーカップ優勝を果たした。

モントリオール・カナディアンズのロゴ

パート3:ノルディクス(創設-1979年まで)

 ケベック州の州都ケベック・シティに本拠地を置くケベック・ノルディクスは1971年、NHLのライバルリーグであった「WHA(世界ホッケー協会)」の創設メンバーである。長らくプロのホッケーチームを持たなかったケベック・シティにとって、ノルディックスは待望のプロチームであった。
 元々サンフランシスコにフランチャイズに与えられる予定であったが、スタジアムの収容人数の問題もあり、急転直下でフランチャイズがケベックに転がり込むことになった。
 初代ヘッドコーチ(監督)には、カナディアンズのレジェンドであるモーリス・リシャールが就任し(数か月で辞任したが)、J・Cトレンブレイやレジャン・ホールといったカナディアンズの主力選手を引き抜いた。引き抜きの甲斐もあってか(特にトレンブレイや、同じ元カナディアンズのマルク・タルディフの活躍で)、1977年にチームはWHA優勝を果たした。
 そして1979年、WHAが人件費の高騰を理由に(WHAは選手の年俸制限を設けなかったため年俸が高騰した)リーグを解散した際ノルディクスは、エドモントン・オイラーズ、ウィニペグ・ジェッツ(第一次。現在のアリゾナ・コヨーテズ)、ハートフォード・ホエーラーズ(WHA時代はニューイングランド・ホエーラーズ。現在のカロライナ・ハリケーンズ)と共にNHL加盟を果たした。

WHA時代のノルディクスのユニフォーム。
上がホーム用。下がロード(アウェー)用。
創設当初は水色と赤主体のチームカラーであった。
ケベック・ノルディクスのロゴ
WHAのロゴ

第2章:【ケベックの戦い】

パート1:モントリオールVSケベック

 そして1979‐80シーズン、カナディアンズとノルディクスがNHLの舞台で初めて相まみえることになった。ただし、別々の地区に入れられた。
 記念すべき第1戦となった、1979年10月13日のモントリオールでの試合はカナディアンズが3‐1で勝利したが、続く10月29日にケベックシティで行われた試合では、ノルディックスが5‐4でカナディアンズ相手に歴史的1勝を挙げた。
 1981-82シーズンにNHLの地区割りが変更に伴い、カナディアンズとノルディクスが同じ地区に入れられたことにより、両者のライバル関係はさらにヒートアップした。
 この当時ノルディクスは、元チェコスロヴァキア代表のピーター・アントン・マリアンのスタストニー兄弟を中心に、プレーオフで猛威を振るった。チームは確実に成長を遂げ、1981年から1987年まで負け越したシーズンは一度もなかった。
 一方のカナディアンズは79年のスタンレーカップ優勝を最後に、成績は緩やかに後退していった。1981年のスタンレーカップでは、【アイスホッケーの神様】ことウェイン・グレツキー(後に彼の背番号の99が、NHL全チームの永久欠番となる)擁するエドモントン・オイラーズに敗れ、【スタンレーカップで旧WHA勢に敗れた最初のチーム】という不名誉な称号を授かってしまった。それでもプレーオフでは、ノルディクスを幾度も退け、名門の維持を守って見せた。
 そんな両者の対立は1984年、最悪の事態を引き起こすことになる。

パート2:【聖金曜日の虐殺】

 1983-84シーズン、カナディアンズはさらに後退し、ついには勝率が.500切るか切らないかのところまでに追い詰められたが、かろうじてプレーオフに滑り込み、第2ラウンド進出を遂げた。一方ノルディクスはNHL加入後最高の勝ち点93を挙げ、シーズン中の勢いのまま、第1ラウンドを突破した。そして第2ラウンドでカナディアンズとノルディクスは相まみえるが、第1・4戦こそノルディクスが勝利するも、第2・3・5戦を落としカナディアンズに王手をかけられた。
 1984年4月20日、勝てばカナディアンズの第2ラウンド突破が決まる、カナディアンズの本拠地モントリオール・フォーラムでの第6戦で事件は起きた。
 小規模の乱闘が続き、殺伐とした空気が会場を覆いつくす中、第2ピリオド終了のサイレンが鳴るや否や、両軍のベンチから全選手がなだれ込み、大乱闘が勃発した。その中でカナディアンズの選手であったジャン・アメルが、ノルディクスのルイス・スレイヤーのパンチを顔面に受けて、選手生命を絶たれる怪我を負う出来事もあった。これを受け、審判はいったん全選手をフィールドから下げ、頭を冷やさせようとした。ところが、第3ピリオド直前のウォーミングアップの最中にまたしても乱闘が勃発。乱闘はさらに激しくなり、カナディアンズのデール・ハンターと、ノルディクスのマーク・ハンター(デールの弟)による”兄弟喧嘩”も勃発するという有様。
 結局、両軍合わせて退場者11名を出したこの乱闘劇は、NHL史上最悪の乱闘劇とも呼ばれ、この試合の日が聖金曜日(復活祭前最後の金曜日)だったことにちなみ、【聖金曜日の虐殺】として、長く語り継がれることになった。(下の英語の動画は、NHL公式YoutubeがUPした、【聖金曜日の虐殺】の試合動画。)

第3章:対立を激化させた”2つの理由”

1つ目の理由:ビール会社のライバル関係

 かつてカナダのビール業界はラバットを筆頭に、モルソン(現在のモルソン・クアーズ)、カーリング・オキーフの3社がしのぎを削りあう状態であった。【ちなみにラバットは大リーグのモントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)と関係が深く、NHLとはあまり関係がなかった】
 ラバットに次ぐ2番手だったモルソンは、モントリオール・カナディアンズのスポンサーを務めただけでなく、カナダの公共放送CBC(英語)/ラジオ・カナダ(フランス語)の土曜夜の名物番組だった「ホッケー・ナイト・イン・カナダ(フランス語では「ラ・ソワレ・ドゥ・ホッケー(ホッケー・ナイト)」)」のスポンサーを務めるなど、ホッケー界に絶大な影響力を持っていた。
 一方3番手に甘んじていたカーリング・オキーフは、モルソンに対抗すべくケベック・ノルディクスのスポンサーに名乗りを上げた。1979年にノルディクスがNHLに加盟した際に、「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」の放映権料の対象から”ノルディックスだけ”5年間除外されるという事件が起きたが、当時のノルディクスの球団社長が、「これはモルソンのカーリング・オキーフに対する嫌がらせだ」と言及した。
 カナディアンズとノルディクスの対決は、モルソンとカーリング・オキーフという、2つのビール会社の【代理戦争】の場でもあったのだ。だが、もう一つの理由が重要なのである。


2つ目の理由:「カナダか、ケベックか」

 2つ目の理由が重要なのであるが、ずばり、「政治問題」である。この問題を探るには、第二次世界大戦後のケベック州の歴史をたどる必要がある。
 かつて1950年代まで、モーリス・デュプレシ率いる「ユニオン・ナショナル党(UN)」がカトリック教会や農民層の支持を背景に、反共的な長期政権を築いたが、 ケベック州の文化・産業・経済は著しく停滞した。
 デュプレシの死後、カナダ自由党から独立した、「ケベック自由党(PLQ)」による【静かな革命】と呼ばれる大規模な政治改革に伴い、ケベックにナショナリズムの嵐が吹き荒れ、ケベックのカナダからの独立運動にまで発展した。
 その後、ケベック独立問題をめぐってPLQから独立した「ケベック党(PQ)」はケベック州の独立を強固に主張し、UNの衰退後は、PLQと双璧をなす存在となった。ちなみに国政レベルではPQ=革新左派・PLQ=保守右派とされているが、州内レベルだと、PQ=右派ナショナリズム・PLQ=左派リベラルとなる、一種の逆転現象が起きている。
 そして、PQは1980年にケベック独立を問う住民投票を行ったが、否決された。

 その流れで、カナディアンズはチームカラーの赤、そして「カナディアンズ」というチーム名も相まって、カナダ残留を望む”連邦派”のチームと目された。そしてケベック州内ではアングロフォンの多いモントリオールの土地柄もあり、「アングロフォンのチーム」とみなされることもあった。

 対してノルディクスは、ケベック独立を支持する”主権派”のチーム、または「フランコフォンのチーム」と位置付けられた。というのも、ケベック・シティの人口の9割がフランコフォンで占められていたのもあるが、WHA時代は水色だったチームカラーを、NHL加盟後にケベック州旗の青に変更し、ユニフォームにケベック州のシンボルである、フルール・ド・リス(アヤメの花)をあしらったことも大きい。

 モントリオールの英語新聞「モントリオール・ガゼット」紙の1984年4月9日の記事によると、カナディアンズの地盤であるモントリオール東部以外の地域では、PLQ支持者がカナディアンズ支持、PQ支持者がノルディクス支持という傾向がある、という記事を載せたことがあった。

1979-80シーズンの、モントリオール・カナディアンズのユニフォーム。
上がホーム用、下がロード(アウェー)用。
チームカラーの赤は、創設時から100年以上たった今でも、ほとんど変わらない。
ケベック州の旗
フルール・ド・リスの紋章がかたどられている。
ノルディクスのNHL加盟初年度(1979-80シーズン)のユニフォーム。
上がホーム、下がロード(アウェー)用。
ユニフォーム下部と肩にそれぞれ、
「フルール・ド・リス(アヤメの花)」の意匠が施されている。

 ケベック独立運動をめぐる、反対派(連邦派)と賛成派(主権派)の激しい攻防、そして「アングロフォンのモントリオール」VS「フランコフォンのケベック・シティ」という要素もあり、カナディアンズ・ノルディクス両チームの対立は決定的なものとなった。
 しかし、「フランコフォンのためのチーム」として作られたモントリオール・カナディアンズが、巡り巡って「アングロフォンのチーム」呼ばわりされる羽目になろうとは、なんとも皮肉な話である。


第4章:対立の終焉

 悪名高い【聖金曜日の虐殺】後も激しいライバル関係は続いたが、1989年、カーリング・オキーフがモルソンに買収されたことで、ライバル関係に陰りが見え始めた。
 1990年代初頭に、ノルディクスは存続の危機に陥った。本拠地「コリセ・ドゥ・ケベック」の老朽化に加え、ケベック・シティがNHLの中でもっとも市場規模が小さいことが原因の1つであった。チームはケベック州政府に救いを求めるも拒絶され、1995年、ノルディクスはアメリカ・コロラド州デンバーの実業家に買収され、チームは「コロラド・アバランチ」となった。ケベック・シティの市民にとって悲しいことに、デンバー移転1年目でスタンレーカップ初優勝を成し遂げてしまったのである。
 また、翌96年にはウィニペグ・ジェッツがアリゾナ州へ移転し、「アリゾナ・コヨーテズ」に、さらにその翌年(97年)には、ホエーラーズがハートフォードからノースカロライナ州へ移転し、「カロライナ・パンサーズ」となった。これによってWHA時代から移転を経験していないのは、「エドモントン・オイラーズ」のみとなった。
 一方、モントリオール・カナディアンズの方も85年と93年にそれぞれスタンレーカップ優勝を遂げたのを最後に、スタンレーカップ優勝とは無縁の状態が続いている。ちなみにカナダ勢がスタンレーカップ優勝を成し遂げたのは今のところ(2023年12月現在)、1993年のカナディアンズが最後である。

 ちなみに2011年、どん底状態のアトランタ・スラッシャーズ(1997年創設)がウィニペグに移転したことで、ウィニペグ・ジェッツが”復活”した。これに続けとケベック・シティも、2012年に18,259人収容の「ビデオトロン・センター」を完成させ、ノルディクスの”復活”を心待ちにしている状態である。

2012年に完成した、ケベック・シティのビデオトロン・センター
手前右の建物が旧「コリセ・ドゥ・ケベック」

おわりに

 北米地域のダービーマッチは基本的に政治色が薄いイメージがあるが、今回の例のように政治的要素の色が濃いダービーマッチも存在することが分かった。
 ちなみにノルディクスがケベックシティを去った後、ケベック州の政治では大きな変化が起こった。
 2000年代以降、PQを脱退したフランソワ・ルゴー率いる右派ポピュリズム政党「ケベック未来連合(CAQ)」の躍進により、ケベック州議会におけるPLQとPQの二大政党制はここに崩壊し、ケベック独立運動はすっかり息をひそめた。
 しかしそんなCAQも、ケベック・シティでは盤石にもかかわらず、モントリオールでの得票率はさっぱりという風に、モントリオールとケベック・シティの”対立”が今なお健在であることを示している。
 
 「アングロフォンVSフランコフォン」の民族的対立、そして「ケベック独立」をめぐる政治的対立が反映された、「カナディアンズVSノルディクス」というカードは、北米スポーツ界では貴重なケースだったので、ノルディクスのデンバー移転はもしかすると、北米スポーツ界にとっては大きな損失だったといえるのかもしれない。


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