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サマークラス全録 前編

 (注)サマークラス開催時期は8月21日からであるため、本記録は少し前の時期に行われたものである。

 自分は今回、前田先生が主催するサマークラスにスタッフとして参加した。

 このサマークラスは計4日間行われ、午前中は音読および算数・数学・課題などのデスクワークの消化、午後は都内の美術館や博物館のフィールドワークと通し、その感想を作文にする。今回訪れた美術館は、根津美術館東京国立博物館森美術館(シアスター・ゲイツ展)東京国立近代美術館である。

 特にフィールドワークは、前田先生によって何年も前から行われてきた活動であり、かくいう自分も数年前、まだ中学生の頃に生徒として参加したことがある。中学生ながら博物館の壮観な雰囲気に触れ、とても有意義な体験だったのを覚えている。

森美術館から都心を望む

 自分はそうした経験を踏まえ、展示品や美術品の持つ価値や芸術性に触れるのが面白いと感じることができたわけだが、このフィールドワークではそれに比すべき大切なことを学ぶ。それは、その体験を即座に書き起こすことである。

 鮮烈な体験とは、その名の通り新鮮なものであり、同時に時間と共にその鮮度が薄れるということである。今日感じたことを明日覚えている、それは身近なように思えてとても難しいことである。

 その時感じたこと、その時知ったこと。その情報の正確性は、その瞬間から着実に薄れ始める。それを何らかの形で記録せずに、そのまま1日を終えてしまう。それは非常にもったいないことだ。

その人が何を思ったり感じたか、それを画像や映像で見て知ることはできない。その人が言葉で、文章で書き起こすことで、ようやく人はその真実を知ることができる。

 感想の記述。そのための作文作成。これは経験の忘却を防ぐのに有効である。その日の鮮烈な記憶で書かれる文章には、その翌日書いた文章とは違うリアリティがある。そしてそのリアリティこそ、その時知ったり感じたことの再現そのものである。

 文章を書くとはどういうことか。それは芸術から感じたことを可視化するだけにとどまらない、自分があの時、どのように思ったかを見返すことである。そしてそれを読んで再びどう思うのか。それこそ人生において文章作成がもたらしてくれる大切なメッセージだ。

 日によって一定でない感情の起伏を、文章によって浮き彫りにすること。文章作成にはその勉学的な要素のみならず、自らの精神性の理解という可能性も含んでいる。

 そして重要なのが、これらの行動を行っている人間は大人でも少ないということだ。いや、むしろ大人だからこそ少ないと言える。

 大人は将来就職し、そうでなくともお金を稼ぎ、生きるために人生を割く。何でもできる自由時間は、子供時代と比べ極端に少なくなる。だからこそ、子供のうちにやる意味がある。YouTubeやゲームの進化によって、文章を嗜む人間は減りつつある。インターネットの台頭によって、人々は芸術というものを、ただ画像や風評によって知ることができる。

 ゲームを知るに文章を嗜むこと。インターネットを知るに芸術に触れること。

東京国立博物館に向かう

 今回のサマークラスを経て、自分は間違いなく、これを小学生中学生の年代にしかできない特権である、と考えるようになった。

 中編に続く

 


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