121DAY ‐日本一の国語おじさんの国語スキルを最大限に活かす神授業4(臨済録編)‐
今日11月20日はリベラルアーツだった。今日は主に二つの教典にふれたので、二本のブログに分けて今日のリベラルアーツを振り返る。
まずは、唐代の禅僧臨済の言行を弟子慧然が記したとされている仏教言行録「臨済録」を紹介する。
まずこの臨済録において理解してほしいのが、臨済録が、今日まで知れ渡る禅宗臨済宗の聖典とは全くの別物ということである。書物としての臨済録も禅宗臨済宗も確かにもとの教えは同じ禅僧臨済ではあるが、臨済録はそういう仏教宗派とかの次元とは無縁なのである。これは当時この書物が編纂された時代背景を観ればその理由がわかる。この臨済録が編纂された当時は、そもそも宗派の違いによるセクト意識というものが存在せず、師匠の教えを弟子に受け継がせるという法の継承のみの一点を意識していたからであり、むしろ当時の僧風との間では頻繁に知識や意見交流も活発化していた。そのため、臨済宗という集団の教えにかつてのグローバリティな時代背景をあてはめる必要性はないのである。
さらに師匠の教えを弟子に受け継がせるという点に一味付け加えるなら、その当時の法の継承の仕方は、「弟子の見識が師匠と同等なら師匠が弟子に法を伝授する徳が半減し、弟子の見識が師匠よりも勝っていなければ法を伝授する資格はない。」と言われ、わかりやすく言えば弟子が師匠よりもすごくないとその教えはここで廃れてしまうとまで言われていた。(あくまでそういう考え方がはびこっていただけだが)
そういうことからもこの臨済録からは、禅僧臨済がそう言った時代背景を生き延びつつ後世の弟子に自身の教えを残すべく奮闘した生き様も見て取ることができるのである。
ここで臨済の言葉を本書から抜粋してみる。
「今日、仏法を修行する者は、何よりも先んじてまず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかむことができたならば、生きるも死ぬも自在となり、なにかに関しての至高の境地を得ようとしなくても、それはおのずと向こうから来るようになる。
諸君、今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだ。自力でやろうと思ったらすぐにやることだ。このごろの修行者がダメなのはどこに原因があるか。それは自分を信じ切れていない点にあるのだ。もし自分を信じ切れていなかったら、あたふたとあらゆる現象に体を動かしてしまうし、周囲の外的条件に翻弄されてしまって真に自由になれない。
もし君たちが自分自身を信じきり、周囲の外的条件を求めまわる心を断ち切ることができたならば、それは偉大なる仏様のそれと同値である。君たちは偉大なる仏様に会いたいと思うか。それなら自分を信じ、いまここでわしの説法を聴くお前たちこそが仏だ。ほかの人間は自分が仏だと信じれないがゆえに、外に向かって答えを求める。仮に何かそれらしい教えを学びえたとしても、それはうわべだけの響きで本来の仏の心はつかめぬ。取り違えてはならぬのだ諸君。
今、自分たちが持つこの目と鼻と口と身体と頭の働きに何が欠けている。欠けているものなどない。これらの働き自体が自分にとって害をなしたことは無いではないか。もしこのように自分を信じ、行動したならば、それこそあなたの人生は安泰であるにちがいあるまい。」
この自分を信じることこそが自分の中にある可能性に気付ける唯一の道ではないだろうか。「自分」を見失わない方法ではなかろうか。今回はここで終わる。今回の「臨済録」は岩波文庫の物を使っている。(とはいってもリベラルアーツで使うのは全部岩波文庫だが。)