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制作を理論で問うことに寄せて――あなたの健やかなアートライフのために(3)
筆者の、アート制作に携わる人との付き合いから、制作行為にとって理論とはどのようなものかを考えています。絵画、イラスト、文芸問わず、広く創作活動をしている人のために。
この(3)ではようやく制作と理論とを結びつけることを試みて、ひとまず筆を擱きます。アーティストの産みの苦しみにとり、「わたしたち」がよき産婆役となりますように。
見出し画像は「わたしたちとの立ち去り」をイメージしました。見ていると気持ち悪くなるので見つめない方がいいです。(1)から(3)に掛けて色づいているのがポイントと言えばポイントです。
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《アーティストにおける理論知の必要性、あるいは「美しい花がある、花の美しさというものはない」》
哲学者レヴィナスの芸術論に話を戻そう。彼にとり芸術は「対象そのものの代わりに対象のイメージをさし出すこと」なのだった。そしてイメージは対象ではないもの、非対象として措定される。それでは芸術のすばらしさとは卓越した非対象物の造形にあるということになるのだろうか。いわば芸術のための芸術という、この現実とは別な次元の価値を提示することに重きが置かれるものとして理解すればいいのだろうか。レヴィナスはそれを背徳的な表現であると述べる。何にとって背徳的か。現実にとってである。と同時に彼は作品の現実化、言い換えれば作品としての単純な完成を、芸術論的な観点から許容しない。作品の現実化(完成)というのは、〈現実離脱〉としての芸術に属さないからである。そう、レヴィナスにとっての芸術は、対象としての事物が非対象的なイメージとして現実化することからの離脱を目掛けた造形の闘争として理解されているのだ。敢えて例示を試みるならば、わたしたちは昼の光のなかで事物を見ようとする、事物は見られる前には〝正体不明の何か〟という地位にあり、わたしたちが見ようとする動作において、それはやがてこの目にとりイメージとして結ばれることになるだろう、しかしそのイメージの前にわたしたちは昼間の光を受けて地に差した事物の影を見る、その影を捉えているあいだは、いまだ事物はイメージになりきっていない、かといってそれは事物そのものであるというわけでもない、そういう〝見え〟がある。――レヴィナスの芸術論は、そうした〈現実の影〉の領域に芸術を関わらせるのだ。
影の領域に留まること、それはまた夜を維持すること、夜明けからの逃走である。芸術はわたしたちの夜なのだ。夜という比喩はもちろん昼との対比で生きるメタファーだ。昼というのは〈認識の世界〉のことで、事物が概念として知解可能である領域のことを示す。〈分明な現実〉と言ってもいい。それに対して夜というのは、事物をイメージとして把握できてしまう〈認識の世界〉ではなく、それはただ〝ものがある〟という〈存在の世界〉の領域なのだ。概念とは意味のあるものとしてイメージ化されたものであり、〈存在の世界〉はその手前にある〈不分明な現実〉を意味する。
わたしたちは言及の都合上、「意味する」という言い方をした。このことは〈存在の世界〉を〈認識の世界〉において名付けてしまっている。そもそもわたしたちは文字に依存して語っている以上、それを免れることはできない。影の領域や夜の維持を指向するアーティストにとって、そういった定義付けというのは危険かもしれない。このことはアーティストにとっての方法論の問題に接続できるだろう。《プロローグ》にて記述した〝「作れてしまう」という技術〟と〝「作ってしまう」という事実〟との相剋だ。
アーティストとなった経緯には、必ず〝「作れてしまう」という技術〟に対して〝「作ってしまう」という事実〟が先行しているはずで、その逆ではない。常にアーティストにとっての方法論は、後者の事実のレベルにおいて涵養され、前者の技術のレベルへと昇華されることになる。
ところが、アーティストはしばしば自らが見出した型に嵌まっていってしまうことがある。作家性やスタイルと呼ばれるようなものに。それは技法ひいては方法の固着を招くことになる。そのフラストレーションは、《制作行為と自己発見》のくだりで述べた〈内なる鏡〉に映らない〈剰余の鏡像〉を、自らが制作した〈外なる鏡〉としての作品に発見できないことによって起こるものであると解釈できる。いわゆるスランプである。スランプというのは理論的な観点を持たずに、言い換えれば、自己批判の視座を確保せずに〝「作れてしまう」という技術〟に依存して制作したことにより、〈剰余の鏡像〉の造形化がもはや陳腐なものになっていることへの、無意識の側からの忠告なのである。「媒体」としての「自分」はあくまで「見る/見られる」の〝あいだ〟の存在なので、「見える/見せる」の〝あいだ〟の「自分‐自然」のリアリティの疎通には当然、敏感になる。
〝「作ってしまう」という事実〟がなおざりになることの危機への抵抗に理論的な知性は効力を有する。制作行為が、ひとつの作品としての答えを造形するという点では、〝「作れてしまう」という技術〟が幅を利かせてなんら支障も来さないかのように思われる。しかし実際のところ、制作行為はアーティストにとり、〈答えだし〉ばかりではなく、〈問いかけ〉としての位置づけの方が深刻なのだ。最も重要なのは〈答えかた〉なのではなく〈問いかた〉なのである。上手い〈答えかた〉が素晴らしい作品を生むのではなく、良い〈問いかた〉が卓越した作品を生むのだ。
制作において〈問いかた〉について問うことは、技術の領域を問いに付すのではなく、事実の領域への〈問いかけ〉となる。そしてそういった、問いの問いかたを問うのは理論的知性および哲学的理知、あるいは、「自分とは何か」という自己批判の視線においてということになる。
自己批判というのは静態的なものではなく動態的なものであって、いわば、知識というよりも運動なのだ。「自分」という構造物をさまざまな鏡を立てて映し、見えないところがあれば何枚もの鏡を所定の並びに設えてみたりする。当の「自分」は小宇宙と呼ばわる向きがあるように、ほぼ無限の射影と画角を持つ。その鏡を適切に位置づける能力をつけるのに、わたしたちは言葉の知性と感性とを鍛え上げていく。
《プロローグ》でのミナコさんの発言を引こう。
「つまりね、あたしたちは現実を生きているわけだよ。その現実のなかで違和感を覚えてしまう。その違和感を言語を通して作品にしていく。自分が感じた違和感がその作品にうまく表現できたときに、そのときにリアリティが立ち上がるんだ」
引用した発言において、言語的なプロセスの位置づけがどのようになされているだろうか。
わたしたちは言語的な操作が、それが定義づけになってしまうという点から問題視することができる。なぜなら、美しい花はあるが、花の美しさというものはないのだから。アーティストはどのような方角においても美の輝きを目掛けて制作を行う。彼は花の美しさを狙うのかもしれない。それはしかし観念でしかない。重要なのは事物の、その実在性が醸す美しさであり、それはある支持体に繋ぎ止めることによって実現する。先の例えで言えば、美は花とともにあって実現している。
ところが同じ例えをこうとも解釈できる。なるほど美はそれだけで考えるとなると観念になってしまうのだろう。そして花の方が実在のレベル、〈存在の世界〉の住人なのもわかる。だが鑑賞者としてのわたしたちは花を(レヴィナスが示唆するように)イメージの世界においてしか認識できない。となると実在のレベルはむしろ、多くの鑑賞者にとっては、そしてアーティストと呼べる人種においてさえも、花の美しさの方にそのリアリティを感じるということもあるのではないだろうか。アーティストはそれを見据えて、あるいは見透かすことによって制作に臨んでいるのではないか、と。――この解釈から言うと美しい花は言語的なものとして理解できる。先の引用における「言語を通して」という箇所は、「美しい花:実在/花の美しさ:観念」という点では了解することが困難だ。しかし「美しい花:イメージ/花の美しさ:実在」の図式で捉えたなら、美しさの支持体として花はあり、花が花であるというイメージの世界を対象とした言語的な彫琢が可能であるという認識が開ける。ここで言うところの「言語」というのは物を物として把握する認識・理解・了解を可能とするような、言葉を話す人間が前提にしている〈象徴形式〉のことを指す。りんごそのものの画像イメージと、それが赤くてツヤがあって云々…という関連イメージの癒着を可能にしているシステムが、〈象徴形式〉である。そうしたイメージ同士のつながりを認識する次元もまた言語的なレベルにおいてあり、その点で「美の支持体としての花の支持体としての風景の支持体としての画布」という連環をイメージすることは言語の問題となる。
言語とイメージの関係を譬えるのに哲学者と言語の関係をなぞってみる。しばしば、「哲学的」という言い方は複雑かつ晦渋であるというニュアンスを帯びる。それは哲学者の文体を指し示すものとしては的を射ているだろう。だが、重要なのはその難しさがなぜ要請されてしまうのかというところにある。わたしたちが日常の場面で使用する言葉は、語彙や用法の点で見てもわかりやすい。そのことは外国語を習う際の基本単語の設定基準を思えばいい。そうした単純さは日常生活の場面でなら構わない。しかし哲学者は日常生活では問題(matter)として意識に昇らないようなところに問題を見出し、問いに付す。そのときに鍵となるのが〈解像度〉である。問いを発見するのも問いを見つける〈解像度〉なのであり、その問いを考えるのにも〈解像度〉の高さが問われるのだから。その精度。視線の解像度と思考の解像度。一見して、前者は感性的なものであり、後者は知性的なものとして分類でき、その間に言語的なつながりは見出しにくいかもしれない。しかし人間が新しい言葉を覚えるたびに見違える世界の様相を思うにつけ、言語とイメージの〈解像度〉を、感性と知性という分類によって別々の部屋に案内するというのは間違っている。少なくとも、わたしたちの現実はそうではない。要するに、言語とイメージは一冊の辞書の記述によって関連付いているのではなく、身体と環境世界との関係のような生態的・有機的な連関において息づくように、生動しているのである。その意味で言語は身体であり、身体は言語であるといった、わざわざ別のものとして分割してしまうことをせずに同一のものとして把握するという〈融即〉の状態をその消息を説明する語として与えることができる。それをわたしたちは「存在即自然」と呼ぶことをためらわない。
わたしたちはまずはじめに「作ってしまっている」という事実に与する。そこには本当の理由を見出すことはできない。あてがわれる理由はすべて修飾のための、虚構の理由になる。しかしそれが虚構であることが重要なのだ。言葉というものは、道徳的な是非を問わずにいれば〝なんとでも言える〟のだから。なんとでも言えてしまうがゆえに、わたしたちは大真面目になって〝こうとしか言えない〟言い方を探すのである。これはアーティストの制作でいうところの「花の美しさ/美しい花」問題の変奏でもある。花の美しさは〝なんとでも言える〟。ところが美しい花は〝こうとしか言えない〟、それどころか〝なんとでも言えない〟ものとしてある。以上を踏まえたうえでも、アーティストにとっては結局、手持ちのカードは〝なんとでも言えてしまう〟言葉の世界のアイテムでしかない。そうしたなかで、適切により美しくアイテムを並べるための言語感覚を鍛えることが問われるのだ。それが〈解像度〉の獲得なのであり、直観力の研磨でもある。概して、ジャコメッティにしろ野見山暁治にしろ、素晴らしい言語的感性を持っているという事実は押さえておいていいだろう。それはつまり、彼らがよく「見る」ことができるということの証左なのだ。卓抜なるアーティストのトークを傾聴することに深い学びを得られるのも、彼が〝なんとでも言えてしまう〟言葉を用いる、言語の感覚を研ぎ澄まし、彼が選んでみせる〝こうとしか言えない〟言葉のなかに、それ以外には〝なんとでも言えない〟意味を顕現させているからである。
「自分」の感覚を、知覚の対象が「自分にとって確認できるような仕方で他人と共有することはできない。〝意味〟というのはそうした位相において感覚的に体験される。感覚の隔たりはまた、現実の異なりでもある。卓抜なるアーティストの言語感覚で以て発される強度のある言葉が、深い意味を顕現させて他人の感覚を震わせ、そして、共感が叶う。強度のある言葉というのは先述した〝こうとしか言えない〟言葉のなかに、それ以外には〝なんとでも言えない〟意味を顕現する〈言葉〉のことである。この文末の〈言葉〉に、広い意味でのコミュニケーションを担うものとして「芸術作品」の語をあてがうことができる。饒舌な芸術作品とは鑑賞者に沈黙を強いる。美しい花がそうであるように。それは圧倒的な調子で以てわたしたちに〈言外の孤独〉を命じる。言葉の住人であるわたしたちを、言葉の外部へと追放させるような強い言葉。
わたしたちの言葉は美しい花の美しさを語れない。それはただ、花の美しさのみを、観念として語れるに過ぎない。この線から言えば、美しさを語ろうとするその語りはすべて観念化してしまうことになる。頭脳のなかに頭脳知として格納されてしまうと言ってもいい。だがしかし、アーティストが「自分」を対象として見つめる(見‐詰める)ための目が身体における知性、すなわち身体知であると解釈すれば、「観念化=頭脳知化」と美を観照する身体知とはやはり対立するものではない。頭脳知を言語の領域だとし、身体知を身体の領域と捉え直すにしても、それらは「生命=存在」の概念で合一することになる。それを「自分」だと見做してもいい。しかしそれは「自分」というものを構成している要素としての言語と身体とを分析した、その後で発見したような「自分」なのだ。全体的体験としての美の観照がアタマという器官のみによって感得されるわけではない。それはカラダまでをも含んだ存在全体でもって享受する啓示的な出来事となる。美しい花の美しさはアタマでわかるのではない、というわけだ。
感覚は現実を構成する単位である。それは現実を立ち上げる。起動する。事実として、感覚は身体に依存する。たとえ霊感と言われるものであっても。アタマは中枢として身体に君臨する。感覚はそこで統御される。しかし実のところ、カラダのあちらこちらで立ち上がる感覚の群れは個々別々なのだ。身体は中枢を持たない。非中枢的なもの。それをまとめるのにわたしたちは身体に君臨する「アタマ」ではなく、アタマもカラダをもひっくるめた「生命=存在」という言葉を当てがう。
「生命=存在」と言った言語と身体との合一したレベルを思えば、アーティストの身体的知性と理論的知性――これを身体的感性と理論的感性とで言分けたとしても、作品制作という生きたプロセスのなかでは殆ど同じものになるだろう。知性と感性は作品において合流する――との有機的な結びつき、あるいは結ぼれを見透かせるのではないだろうか。
言語とイメージとの関係を記述するのに、わたしたちは哲学者と言語との関係を例として挙げた。ここではアーティストにとっての身体的知性と理論的知性との関連を示唆するために、わたしたちは次に外語学習者と外国語との関係を例として記述することにしよう。外語学習においてはアタマだけの学習行為をするだけでは、いわゆるネイティブ話者とのコミュニケーションは取れない。つまり使えるようにはならない。そこではカラダのレベルでの学習行動がいる。しばしば言われている外語学習のカギとして「自分の口で発声できない音は聴き取れない」という言説がある。それは実際効果がある。単語や和訳を目で以てアタマに取り込もうとするだけではダメで、口とそれを聞く耳で以て音と意味とを接続するというカラダへの刷り込みをしなければならない。現実を立ち上げる単位は感覚である、と先に述べた。言語を学ぶというのは現実の現れ方、見え方、感じ方に関わる。それはアーティストにとっての観照能力とも関連する。アーティストにとって美を感じる感覚は、言語を習得していく過程とアナロジーの関係にある、とわたしたちは考える。
言語と身体。その関係は表面をなぞっていると裏面へと繋がってしまうような道行きなのだ。人間の発達を考えると、わたしたちは身体へのインプットを行うことによって言語を習得してしまっている、という事情……というより、事実にある。そしてその後の人生で、さまざまな体験を経てさまざまな物事を覚え、知り、習得していく。そうした物事のルールとパターンというのが、わたしたちにとっての言語なのだ。以上の経験の消息を考えると、わたしたちはわたしたちにとっての言語と身体とを、わたしたちの「生命=存在」から切り離すことはできない。なぜなら、物事が現象するのは身体によって可能になる、物事というのは感覚を介して現れるということだ、それは言語を可能にする条件でもある、身体は身体へと感覚を通して物事を情報として自身の身体にインプットする、言語はわたしたちがわたしたちであるよりも前に立ち上がってしまっている、この段階でないとわたしたちは「自分」ではない、なので「自分」は言語なのだ、と言ってもいいのであって、わたしたちがわたしたちであることを、「アウトプットされた言語が言語であることによって自らへと自らが言語であることをインプットする」と捉えてもいいだろうし、身体が「自分」に先行していることに目を向けてみるとして、身体が周囲の環境を受容することをインプットであるとすると、「アウトプットされた身体が身体であることによって自らへと自らが身体であることをインプットする」、と把握しても構わないような構造があるからだ。つまり、言語と身体には互換性がある。〈ひとつごと〉として、一致してしまっている。
アーティストにとり、理論知は言語以上の〈ひとつごと〉としての「自分」を深める。そしてその実践としての制作体験において身体知を体感させる。そこにおいて理論知には身体知を賦活させる効果が見込める。身体知は理論知を実感させ、理論知は身体知を賦活させる。よって、〈ひとつごと〉である「自分」としてのアーティストにおいて、理論知としての言語的インプットも身体知としての身体的インプットも、十二分に重要なものとなることは言を俟たない。
《理論的自己同一性、あるいは「理論で生きる人間、理論で作るアーティスト」》
さて、ここまで言語という言い方をしてきたが、アーティストと理論との関係について考えたいわたしたちは、言語が言語であることから理論が理論であることの方へと視線を向けることにしよう。
理論は断片的なものではない。理解や身体化の深さに程度の差こそあれど、それはまとまりを有した系統的なものとしてある。わたしたちが日常的に物事と対面するのも、そうした了解のためのフレームが働いているからこそ成立する。それは座学で学べる頭脳知でもあり、実技で培われる身体知でもある。理論とはそうした精神機能や身体機能に根差した諸々の行為が、「自分」という場で理解されたものを指し、それは新規に学習することのできるものとして位置づけられる。フレームという言い方でくくるならば、頭脳知における理論は〈認識フレーム〉とまとめることができようし、身体知における理論には〈認知フレーム〉という表現を付与することができよう。しかしそういった理論的枠組みというのはえてして当人にとっては見えにくい。
理論とはそういうもので、それが理解され、身体化されると、わたしたちの意識の現場から無意識の方に後退する。例えばわたしたちが仰向け姿勢で寝ている状態から直立姿勢へと身を起こそうとするのにも、そうした無意識的な理論が働いていて、すっくと立ち上がれるところを十秒ほどの時間を掛けて行ってみたときに、自分の動作がどれほど無意識裡に働いている理論に依存しているかがわかる。これは身体動作の例ではあるが、言語と身体という言語表現が人間が人間であるという状況においては互換性があることを認めたわたしたちにとって、理論というものが学史上で記載される暗記物的なものばかりではないことに納得することができるだろう。もちろん暗記物的なものとされている言葉においてもそうした無意識への後退は起こっている。現にわたしたちが他人と会話をするときに、いちいち相手の言葉の意味を確認したりはしない。相手の内面を辞書で意味を確認するようには確認することができない以上、お互いが意思疎通のためのメディアにしている言葉にはミスリードや定義違いが起っている可能性はぬぐえない。詩人はそうした違いを敢えて強調し、言葉の異物感を露出させ、言葉を物質として扱う手触りを教えてくれる。無意識が採用している理論というのはそういった異物感・違和感をなるべく意識と身体の隅へ隅へ、陰へ陰へと移してしまう。
〈ひとつごと〉としてのわたしたちは理論の集合であり、他面では、集合の理論としての「自分」なのである。それは意識的な活動において常に既に、そして現に、起動してしまっているのだ。これを〈理論的自己同一性〉と呼ぼう。それこそが「自分」という名の現実なのである。そうした事実に気づいたとき、わたしたちはアーティストと理論知との関係にある見通しを立てることができる。
アーティストはその芸術活動において「自分」を探求している。「自分」は「自然」に通じている。その道筋を問い続ける。あるいは、そこに現実性(リアリティ)を感じるために。それはどこかで鑑賞者に繋がってしまうだろう。それを実在させようとする意志によって制作された作品に説得性が宿ることで。しかし、理論知が無意識裡へと後退するように、リアリティを感じることができた「自分」は不感症へと頽落する。わたしたちが気づいた事実――理論的な自己同一性は、そうした頽落的不感症への抵抗を可能にする。不感症への頽落というのは要するに、ある対象を観察するというのは絶えずなんらかの理論を通してなされる他ないという〈理論負荷性〉がもたらす、理論的な枠組みの限界の露呈のことである。それに相対するための抵抗というのは、やはり理論の方からということになる。先ほどわたしたちは理論を「新規に学習できるもの」と理解した。そしてそれは精神機能からの向きと身体機能からの向きという二つの方面を持つことも把握し、その総合が「自分」であると了解したのだった。その「自分」が〈理論的自己同一性〉であることに肯うならば、アーティストにとっての理論知の学習は、ある自明なまとまりを解約するためでもあり、より「自分」の感覚に適合するまとまり(リアリティを感得しえる理論)に構築し直すという効果を見込めるだろう。それはアーティストの制作に、よりいっそうの透明性を与えるような〝見る〟ための知であり、実践なのである。
《エピローグ、あるいは「2018年4月21日㈯13:20において締めくくる自己発見」》
結局のところ、わたしたちの「アーティスト」は美しい花を目掛けて制作を行為する。花の美しさを無視できないという意識で以て。彼の制作が「方法論=作家性」としてまとまってしまうことを、わたしたちは恐れるのだ。彼は言語を失えない。彼は「わたしたち」でもあるからだ。彼の言語は彼の身体になってしまっている、彼の身体は彼の言語になってしまっている。それが「わたしたち」なのだ。
僭越ながら、アーティストとしてのわたしたちは、何か難しいことを発見しただろうか。なんてことはない。ここまでのプロセスはせいぜいたった一文の想いを分析してみたに過ぎない。要するに「われ惑う、ゆえにわれ彷徨う」といった程度のことだ。デカルトが「われ惟う、ゆえにわれ有り」と宣ったところに、わたしたちの実存は「有る」を容易に感得できない。それは常に「有ったかもしれない」もしくは「有ったように思われる」といった所感の域を出ない。ただ、芸術制作のなかで彷徨うばかりだ。そしてまた、アーティストたちは惑う。そこには邪道も、正道さえもない。いつだって踏み出した先の地面に未知/道は〝あった〟としか言えないのだから。
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ここで「わたしたち」の輪から、わたしは抜けることにする。
わたしは書いた。ここに至るまでの文字を。その道のりにおいて言語を使用してきたことは言うまでもない。現にこうして書いている。それは身体抜きには言語はありえないことを告げてもいる。いささか過剰な受け止め方ではあるが。この記述を行うにあたって何も知らないではいられなかったし、記述をしていくなかでも何かに気づかずにはいられなかった。ここまで書くという以前には、このような形になることを知らなかった。海図のようなものは手にしていただろう。しかしそれは未来図でもあった。未来は未だ来たらざる時を告げている。未だ来たらざる時は今にはない。なのでそこにどのような書き込みがなされていたとしても、今があるというようには実在しない。それは制作する今の積み重ねを経て造形される「わたし」であり、客体として鑑賞に晒されるという意味で「わたしたち」でもある。かくして、「わたしたち」は制作された。わたしは未来図を破り捨てたのだ。
そして、当然のように、わたしは「わたしたち」を置き去りに、まだ続いていくだろう。トゥー・ビー・コンティニュー。
Dear Muse
<終>
参考資料
・エマニュエル・レヴィナス『レヴィナス・コレクション』合田正人編訳(1999)
・エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳(1996)
・伊藤和夫『[新版]ルールとパターンの英文解釈』(2018)
・橋爪大三郎『言語派社会学の原理』(2000)
・若松英輔『小林秀雄 美しい花』(2017)