第12話 友達がいません【下書き再生第二工場】
その日の朝もいつもと大して変わり映えのしない朝だと思っていた。いつもと同じ時間に起きていつもと同じ朝食をとり、いつもと同じ時間に家を出ていつもと同じ時間に出発する地下鉄に乗る。
そしていつもと同じように地下鉄の駅から地上に出たところに今朝はプラカードを持っている少年が立っていた。これだけはいつもとは違う光景だった。
ふーん、何この子。意味分かんない。
そう思っただけでお終い。プラカードに何が書かれているのかも見なかった。そんなことに余計な時間を使いたくない。朝の会社に向かうこの時間はいまから取り組まなければならないミッションのことで頭の中がいっぱいなのだ。だから駅から出たところに変な少年がいた。ただそれだけ。それ以上特別な感情は湧いてこない。私はただ会社に向かいそして仕事をする。そこにあらゆる雑念が入り込む余地はない。
朝から会議やらプレゼン資料の作成やら、後輩のミスのフォローやらクライアントからの急なスケジュール変更などといった突発的な事態に振り回されながらも慌ただしくも充実した一日が終わった。ほんの30分ほど残業してから退社していつもの道を歩いて地下鉄の駅に向かった。今夜は部屋に恋人が来る。だから一刻も早く帰りたい。もしかしたらもう部屋に来て待っているかもしれない。
地下鉄の駅の入り口に今朝見たプラカードを持った少年がまだ立っていた。今朝見たときと同じように、いや、今朝は気づかなかったけれど無表情な顔を道端の一点に向けていた。
まだここにいたのかと少し驚きながらもさしてその少年に関心を持つ気にもならない。そんな事よりも私は一刻も早く部屋に帰りたいのだ。私はさっさと少年の前を横切って駅に降りていき、地下鉄に乗った。ほんの一瞬だけあの子は一体何をしているのかと考えたがそんなことはどうでもよくなった。恋人が好きなワインを買って帰らなければならない。どんな銘柄にしようか。そんな事を考えているうちに降りる駅に地下鉄は着いた。
♢
部屋に帰ると恋人が先に来ていた。明かりがついている部屋に帰ってくるたびに何だかホッとする。ただいまと言いながら満面の笑顔で迎えてくれた理沙とハグをしてキスをした。まずシャワーを浴びて着替えてから、理沙がつくっておいてくれた料理を、私が買ってきたワインを飲みながら二人で食べた。
「今朝さ、変な子がいたんだよね」
私は理沙が取り分けてくれたサラダをつつきながら理沙の顔を見た。
「その男の子ね、プラカードを持って会社の最寄り駅の入口に立ってたのよ」
理沙はワインをひと口だけ飲んで、それで?と訊いてきた。
「その子がさ、朝見たんだけど夜もいたのよ。同じところに」
「子供が?一日中ずっと同じ場所にいたっていうの?」
理沙は驚いた顔をして私の顔を見た。
「ずっとかどうかは知らない。途中でどこかに行ったのかもしれない。家に帰ったとか。でも帰りにも見たのよ」
私は理沙の反応を見た。私が期待したほど理沙は面白がっていないように見えた。
「でも可笑しいでしょ?変なコントとか罰ゲームを見せられたみたいで、やらせてる人もどんなセンス?なんか微妙って思った」
私は理沙を見て微笑んだ。理沙はしばらくの間黙って考え事をしているように見えた。少しの間、なんとなく嫌な沈黙が漂うのを感じた。もう一度理沙の顔をみると明らかに不愉快そうな顔をしているようにみえた。
「おかしいよ」
理沙がそう言いながら私を見つめていた。
「ね、可笑しいでしょ。なんでそんなところにプラカードを持って立っているのか」
「いや違う。私がおかしいって言ったのは彩夏のことだよ」
急にテレビの音が大きくなったような気がした。不機嫌そうな理沙の顔を見ながら私はどういう反応をすればいいのか分からなくなって戸惑った。理沙からそんなことを言われるだなんて思ってもみなかった。
「なんで?私そんなに変なこと言った?」
理沙は黙ってワイングラスをぐるぐる回しながら口を開いた。
「そんな変わった様子の子供をみたら、おかしいって思わない?何があったんだろうって思わない?もしかしたら困難な状況に立たされているんじゃないかとか、場合によっては声をかけるとか通報したほうがいいとか、そういうことを彩夏は何も思わなかったの?」
責めたてるようなきつい口調では無いにしろ、明らかに心の奥で怒りを感じているのが分かる理沙の抑えた口調に私はすっかり混乱してしまった。理沙がそんなに真剣になるとは思わなかったからだ。
テレビにはどこかの地方の名物料理の食レポをしている芸人の顔が映っている。見ている人をイライラさせるような能天気な顔で笑う芸人を見たら私も段々とイライラしてくるのを感じた。
どうせくだらない話なんだから、へぇ、変な子だね、そんなこともあるんだね、で終わると思っていたのに、いや、そんな風に流してくれたらいいのに正面から言い返されたら、まるで私が何かまずいことをして責められているみたいじゃないかという気分になった。
「いや、そんな事よりも会社に行かなければならないし、朝から大事な会議もあるし、明日のプレゼンの資料だって作らなければならない。クライアントから届いたメールの内容を精査しなければならない。そんな風にしていたら時間なんていくらあっても足りないのに。それに私だって今年ようやくミドルマネージャーになれた。だから仕事の事で頭がいっぱいなのよ。いま仕事でミスする訳にはいかないし、とにかく成果を出さなければいけないの。だから変な子供になんて構っている余裕なんてないの。分かるでしょ?」
そうだよねとでも言いたげな顔で理沙が私を見ている。
「誰だって同じじゃん。朝のラッシュアワーよ、私の他にも沢山の人が歩いていたけど、誰一人として子供に話しかける人なんていなかった」
「だからと言って、彩花がそんな女だなんて、知りたくない」
私は胸に重たいものを載せられたような気分になった。理沙の言葉がジワリと重く胸に食い込んでくるような気がした。
「いいよ、別に彩花がそんな女でもいい。っていうかみんなそんなもんだよ。私だってくだらない人間だよ。だから彩花にだけ特別な何かを期待したりなんてしないし、私にだってそんな資格は無いよ」
「でも本当に嫌でたまらなかったのは、彩花が笑いながらその子供
の話をしたこと。なんで笑えるの?」
♢
今夜は泊っていくと言っていた理沙は食事が済むとさっさと帰ってしまった。理沙が帰った後の部屋はいつもよりももっと広くて静かになったような気がした。私は食事の後片付けがされていないテーブルの上の、理沙の口紅の跡がついたワイングラスを見つめた。
あなたの機嫌を損ねるようなことを言ってごめんなさいとでも言うべきなんだろうか。でもそんなに私が悪いのか。理沙をわざと不愉快にさせるようなことをした訳じゃないのに謝る必要なんてあるのかと思った。
そう云えば数年前、理沙と台湾に旅行したときに迷子の少年をみつけて、そのとき理沙は何分もの間その少年の面倒をみていたことを思いだした。
柄にもなく私は誰かに今の気持ちを聞いてもらいたくなった。そして相談したくなった。こんな不安や苛立ちや寂しさが入り混じったような気持ちになったのはいつ以来だろう。でも、相談したり話を聞いてくれる友達がいない。そんな友達なんてひとりもいない。
大学に通いはじめたころからそうだった。私は交友関係を自分の利害だけでつくってきた。この人と付き合って何か特になることはある?無いなら付き合うだけ時間の無駄。何か有意義な情報をくれるひとなの?就活に有利なコネでもあるの?
たしかにそういう人間関係には血が通ったぬくもりは無いのかもしれない。
でも、それが何って思う。人情とか、義理とか、面倒くさいことばかりでそんなものが一体なんの役に立つというんだろう。
♢
理沙はもう戻ってこない。そんな気がした。そしてそういう予感はいつも不思議なほど当たる。おかえりなさいと言いながらハグした理沙と、黙って靴を履く理沙の後ろ姿を思い浮かべた。
私はボトルに僅かに残っていたワインをグラスに注いで飲み干した。
でも心に余裕がないのも心を許せる友達がいないのもみんな同じでしょ?責められるべきは私だけじゃないはずだと思う。
つけっ放しにしていたテレビの中でお笑い芸人がたいして面白くもないことを延々としゃべっていた。
苛々した私は思わずテレビにリモコンを投げつけた。
テレビの液晶画面のリモコンが当たったところが紫色の虹のような模様を写しだして、また元に戻った。
相変わらずお笑い芸人がくだらないエピソードトークを濁声で喋っている。人をイライラさせる馬鹿丸出しな顔で。
私はテレビを消した。
リビングの窓ガラスに映っているのは顔色が悪い疲れた顔をしている35歳の女だった。いつもよりも静かな部屋で、いつもより深い夜の闇の中で、私はただリビングに突っ立っていた。
明日は休み。
あの少年は、明日もあそこに立っているのだろうか。