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第25話 休み方がわからない日本人【下書き再生第二工場】
『ちょっと生き方が不器用なだけのお父さんたちへの賛歌』
リビングに寝転んでテレビを観ていた夫の携帯電話が鳴った。
「会社だ」夫は携帯電話のディスプレイをみてひと言そう呟くと、「はい高田です。お疲れさん。どうした?」と携帯電話に話しかけた。そしてそのまま立ち上がると、「うん、うん、それで?」と言いながら寝室に入っていった。そして寝室からは夫の声が聞こえてくる。おそらく仕事の電話で間違いない。なにかきっとトラブルが起きたのだろう。そして職場に駆け付けるために服を着替えようとしてクローゼットをごそごそしているのだろう。
わたしは寝室に入って携帯電話に向けて話している夫の姿を眺めた。夫は携帯電話を左手に持ちながらも既にズボンを脱ぎ、ベッドに腰かけて片手で薄いグリーンの作業着のズボンを穿こうとしている。
「うん、分かった分かった。いまから行く。あと一時間もすればそっちに行ける」そう言って夫は電話を切った。
「悪いな。いまから仕事に行ってくるわ」夫はわたしの顔を見るなり上着を羽織りながらそう言った。悪いなと口では言いつつも、全く悪いとは思っていない素振りで玄関に向かう夫の後ろ姿をただ眺める。
「今日はコストコに連れていってくれる約束だったじゃん」
「それどころじゃないんだ。生産ラインが停まっちまったら大変なことになるんだから」
夫は慌てるでも興奮するでもなくいつもの調子で言った。なにも悪いことをしているわけじゃないからそれで構わないんだけど、わたしだってコストコには用事があるから行きたいわけで、何も用事は無いけどどうせ暇でしょ?連れていってよ、と言っていた訳じゃない。
「とりあえず行ってくる」靴を履きながら夫が言う。
「ねえ、ちゃんと代休貰いなさいよ」わたしは夫のすっかり薄くなった頭頂部を見下ろしながら声を掛けた。
「分かってる」
夫はそう一言だけ言い残すとさっさと車に乗りドアを閉めた。わたしは夫の車が走り出したのをみて家の中に戻った。
分かっている。というか、きちんと承知している。夫の勤務先の工場でもし生産ラインが停まってしまったら、わたしには分からないが大変な損害が出るらしいということぐらい、夫からもう何度も聞かされているから分かっているのだけれど、夫はトラブルが起きていない時ですら、「気になるからちょっと電話するわ」とか「不安があるからちょっと様子をみてくるわ」と言ってまともに休んでいるところをみたことが無い。わたしもこんなときこそ夫のことは気にせず自分の時間を満喫すればいいのに、それが出来ない性分だからややこしい。そして結局、その日夫は帰らなかった。
「ただいま」翌日の、もうそろそろ夕方になる頃になってようやく夫が帰ってきた。
「お疲れさま。大変だったね」
「うん、俺達じゃどうしようもなくてさ、結局メーカーの人に来てもらったんだ」
夫はそう言って大きなあくびをすると、ソファに横になりそのまま寝てしまった。やれやれ。そう思いながら寝ている夫に毛布を掛けた。
「芙美子さん、僕はなんの取り柄もない男かも知れません。でも、一途にあなたのことを大切にします」
そうプロポーズされてから二十五年が経った。たしかに面白みのない人だ。休日すら仕事のことをかんがえているような人だ。
「俺だって休日は仕事のことなんて忘れてのんびりしたいよ。でもな、うちの工場が停まってしまったらいろんな会社に迷惑がかかるんだ。自動車メーカーにも家電メーカーにも、いろんな会社にな。俺はな、いや俺達はこうやって裏から下から日本を支えてるんだよ。日本を支えているのは訳のわかんないユーチューバーやホストなんかじゃないからな」
ひと言多いような気もするけど、わたしだってそう思ってる。
「それがあなたのプライドよね」
「そうよ。これが俺のプライドだよ。休みかたが分からないわけじゃねぇ。休むのが下手で悪いか!ってな」
そうはいっても夫もわたしももう五十をとうに過ぎた。今までのようにはいかない。もっと健康に気を遣わなければいけない年齢になった。
「でもたまにはきちんと休みなさいよ。あと、若い人に無理強いしたら駄目ですからね」
「分かってる。若い奴らに無理強いなんかしないさ」
「上司が休まないと若い人は休みずらいんだから」
「まあ、白いシャツ着た連中はよう、ブルーカラーとかなんだとか言って毛嫌いするけど、労働者をなめんじゃねえぞ、っていう話だよ」
まあね、必要ない職業なんてこの世の中にはないのよ。どんな職業もこの世の中に役に立ってる。
すると夫の携帯電話が鳴った。寝ていた夫が目を覚まして、目をこすりながらディスプレイをみて呟いた。
「会社だ」
「まさかあなた電話に出るんじゃないでしょうね」
昨日の昼から今日の夕方までずっと働きづめで、またいまから仕事に行くなんて、いくらなんでもまさかそんな無茶はしないだろうと思いつつ、それでもやはり不安になった。夫も緊張した表情で携帯電話を見つめている。
「はい、もしもし。あ、おつかれさん」
お前はここにいろとばかりに目くばせをして夫は携帯電話を片手に寝室に入っていった。それでもさすがに心配になったわたしは後を追った。
「あなたいくらなんでも今から仕事行くのはやめてよ、ね?」
半開きの扉の向こうから、夫の声が聞こえる。
「メグちゃん、営業電話はかんべんしてって言ったじゃん。来週は必ず行くからさ」
キャバクラの女の子からの営業電話だった。
でも、たまにキャバクラで羽目を外すぐらいなら許すことにしている。
大丈夫、夫は休み方を知ってますよ。正しいかどうかは分からないけど。夫婦そろって健康ならば、それで充分じゃない。