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第18話 地球とグルグルバット【下書き再生第二工場】

 大学の正門の向かいにある喫茶店は暇を持て余した学生達の溜まり場だ。大人ぶりたい学生達の煙草の煙が充満する店内で、俺は藤田とテーブル越しに向かい合って次の講義まで時間を潰していた。

 流行りのフォークソングが流れる店内で、いままで黙り込んでいた藤田が口を開いた。

 「吉岡、笑わずに聞いてくれるか」

 藤田はいつになく真面目な顔をしていた。

 「いや、場合によっては腹の底から爆笑してやる」

 どうせ藤田の話などしょうもないに決まっている。俺は爆笑の風圧で店の窓ガラスを全部割ってやるという意気込みで身構えた。

 「斎藤さんのことなんだ」

 残念ながらその話題は笑えない。俺は身体の中に目いっぱい貯めていた息を全部ゆっくりと吐き出した。

 斎藤さんは相当タチが悪い。斎藤さんの異性にまつわる噂はどれもこれもろくなものじゃない。

 「なあ藤田、あの女だけはやめろと俺は何度も忠告した」

 藤田はぼんやりと窓の外を眺めていた。そんな藤田のせいで俺まで周囲がぼんやりとしてきたような気になった。

 「斎藤さんとなにかあったのか」

 気が乗らなかったが一応訊ねてみた。何となく予想はついている。

 「この前斎藤さんと学食で昼ご飯を食べたんだけど、その時に斎藤さんが口元についた米粒を取ってくれたんだ」

 ああ、それか。みんなそれに引っかかるんだ。

 「斎藤さんはこんなことは藤田くんにしかしないんだからねって言ってくれたんだけど、昨日今井にも同じことをしているのを見てしまったんだ」

 それがお前が深刻な顔をしてため息ばかりついている理由なのか。くっだらねえ。あまりにもくだらなさすぎて座っている椅子の座面が抜けて床にめり込むんじゃないかと思ったが、幸いそんなことにはならずに済んだ。

 「それだけじゃないんだよ」

 いや、もう斎藤さんエピソードは聞きたくないよと思いつつも藤田の情けない顔を見ているうちに情が湧いてしまった。それで仕方なく聞いてやることにした。

 「この前講義が終わったあとで熱を測って欲しいっていわれてさ」

 「斎藤さんの脇の下で体温を測ってやったんだろ」

 何故お前が知ってるんだと言わんばかりに藤田が驚いた顔をして俺をみた。藤田の顔を見ながらこいつも随分と痩せたなと思った。

 「図書館の隅っこで田辺がしてるのをみたよ。記念講堂の裏のベンチでも長谷川にやらせてたな」

 藤田がガクッとうなだれた。藤田の頭が首からもげてテーブルの上に転げ落ちるのではないかと思って焦った。

 「藤田よ、お前まさか斎藤さんになにか貢いだりしてないよな」

 「貢いだりはしてないよ。ただ学食で会うたびにオムライスを奢らされるだけさ」

 「なあ藤田。お前はいまぐるぐるバットをしている」

 藤田が顔をあげて怪訝そうな顔で俺を見た。

 「どういう意味だ」

 「お前は地面に突き立てた斎藤さんというバットの周りをひとりで勝手に回っている。それも必死にな。しかも斎藤さんのことしか見えていない」

 藤田が真剣な顔で俺をじっと見ている。

 「しかし斎藤さんは微動だにしない。お前だけが必死に回っている。そうだろう」

 藤田は俺の問いかけには答えずに窓越しに外を眺めた。正門の横には学生運動にのめり込んでいる連中が立てた看板が並んで塀を埋め尽くしていた。米帝。解放。闘争。血なまぐさい言葉の羅列。

 真剣な顔で外を眺める藤田の顔を見ているとおそらく心当たりがあるのだろう。

 「その挙げ句お前のぐるぐるバットのせいで地球の軸が傾いてえらいことになりかねない。それほどの勢いだ」

 相変わらず藤田は外を眺めていた。三人連れの女学生が大げさにはしゃぎながら窓の外を通り過ぎていった。彼女たちとは対照的に、この世の不幸を一身に背負ったかのような顔をしている藤田を見ながらこいつは心底情けないやつだと呆れる思いがした。

 「いいか藤田。斎藤さんというバットには地球を傾けるほどの力があるんだ」

 藤田がため息をついた。窓ガラスが溶けるんじゃないかと思うほどのため息のお手本のようなため息だった。

 「その挙げ句お前は真っ直ぐに歩けない程フラフラになっている。藤田よ、あの女はお前には無理だ。目を覚ませ」

 藤田が俺の顔をみた。先程までとは違い目に力が漲っているような気がした。

 「ふん、そうか、じゃあ逆に言えば俺がバットになって斎藤さんを振り回せばいいんだな」

 その発想の飛躍もどうかとは思ったが、いまは取り敢えず藤田に元気が戻ればいいと思った。だが斎藤さんはひ弱な童貞野郎の藤田ごときが敵う相手ではないだろう。

 「お前にそれが出来るのならな」

 「俺にだって斎藤さんを振り回せる立派なバットがあるはずだ。とりあえず斎藤さんの周りをぐるぐるバットするのは止めるよ」

 藤田よ、いまのお前にそれが出来るのか。俺は藤田の思い詰めたような顔をみながら些か不安な気持ちになった。真っ直ぐ歩けないくらいフラフラなお前はあさっての方向によろよろと突っ走りそうだな。

 「まあ、頑張れ。っていうかあの女だけは本気でやめろ」

 そう言い残して俺は講義に向かった。

 翌日、藤田が斎藤さんに自分の股間のバットを見せつけて通報され、現行犯逮捕された。

 藤田よ、もしもお前のバットが立派だったら通報されずに済んだかも知れんな。しかしお前のアホさは地球を突き抜けて日本の反対側のブラジルまで行きそうだな。

 俺は差し入れの週刊プレイボーイとファンタオレンジを買って拘置所に向かった。

 駅に向かう並木通りのイチョウの葉を揺らす風に秋を感じた。

#下書き再生工場

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