中学受験より「小学受験」ーそれって本当にその子のためになるの?Part 3 人格形成
「小学受験」、とても反響が大きく、驚きました。ただ、前回同様、まだ受験の真っ只中で、大学院生は最後の追い込みなので、森永さんの追悼と重なり、空いてしまいました。Part1では、出生数の人口動態と団塊の世代などの視点から、Part2では、学校法人(特に私学)の経営面から、子どものうちに「囲い込み」をする、という意味もある、と書きました。 今回は、最も重要な側面、未就学児を「お受験」させることが、その子どもにあたえる影響、すなわち人格形成の視点から、書きたいと思います。
一言で「人格形成」といっても、中学受験ならまだともかく、自らの意思で「お受験」に向かうとは限らない幼児の段階で、系列校へのエスカレーター方式に乗ることが、どんな影響を与えるか。
これまでも少し触れましたが、同じ大学が複数の小学校を系列校として持っているのが一般的で、従って、系列校の中でも「難関校」と「入りやすい学校」があることは厳然たる事実です。私が7歳の時、小学校の書道で「文部大臣賞」を受賞した時、朝礼で表彰されて、とても誇らしかったのを覚えております。成功体験がその後、ずっと「文部大臣賞」を受賞できるよう、手に霜焼けを潰しながら自分の身体より大きい「半切」に少女が夜中12時過ぎても、1千枚以上書く、過酷な練習に導きました。本番の日は、「教育委員会」の印が作品から選ばれる厳しい競書会で、不正防止に監督の教師は他校から来る、競書会へ高校まで、楽しいから、続けられたのだと。
その意味で、「合格」は成功体験です。しかし、どの受験も同様に、親や本人の第一志望校に合格できるとは限らず、難関校なら「落ちる」失敗体験をすることになります。それが、その子どもにどう影響するか、です。
勿論、個人差はありますが、私の体験や他の方々のお話を総合すると、そもそも動機が「エスカレーター式で早い段階から内部進学なら難関大学に行ける可能性が高い」という点にある為、大学側も系列校に当然序列を付けている。問題は、最も低いレベルの系列校にしか合格できなかった、あるいは補欠しかなかった、時です。
①ある子どもが実は真ん中程度の出来だった場合でも、レベルが低い系列校では、相対的にトップクラスになる。その結果慢心し、綺麗な言葉で「切磋琢磨したいので、中学は受験したい」と思い、その勉強を始めてみると、意外にも、自分には難しい。小5の基本問題が0点。プライドが高いので、出来ないことはやらない。これが何を意味するかというと、受験勉強から逃げる為に小学受験したのに、不得意な科目の克服が嫌では、どの中学にも入れない。
②また、系列校で低い小学校の場合でも、教師は公立に比べ給料が高いので「書く」練習をさせたいのでしょうが、それが苦手だから、その小学校にいる訳で、教育熱心な教諭は出来る子には添削を惜しみませんが、何も書けない子に、物理的に添削はできません(エコ贔屓ではなく)。これも劣等感につながる。
③更に言えば、偏差値の非常に低い小学校の、トップクラスにいる10歳前後の少女が、プロ講師を家の「使用人」扱いすることもあります。解らないとつまらないので、わざわざ欠伸して、虫歯だらけの口の中を見せられたことも。しかも、親や学校の教諭なんて騙すのは簡単だと思ってる。最初に「A子ちゃんは明るいからクラスの中心でしょう?」と言うと「その通り!」と言う顔をします。いじめのリーダー格だったことが後にわかりました。「可愛く笑えば、大人なんて騙すの簡単!」という人格。
④反対に、偏差値の低い小学校で、以前書きましたが、土曜日にサッカーの大事な試合があるのに、級友が数人で頭の上まで持ち上げ、その子を床に真っ逆さまに投げ、膝の半月板を骨折させられました。まだ小3なのに。成長期の膝の骨折は障害として残るかもしれない。その怪我をさせた児童らは、大人なら刑法上の罪を着せられる量刑なのに、親は、下の子の小学受験で必死。皆、劣等感の塊なので、「いじめ」の温床になることが多いのです。今頃、あの子はどうしているだろう、と今でも思います。