BECAUSE
春を待つこの頃の、思い出したような寒波にやられてしまいそうだ。寒さは人の行動を鈍化させ、思考能力を奪う。薄っぺらいコートをなるべく体に密着させ、風の通り道を塞ぐように街を歩けば空想に逃げられるような風体だが、そうもうまくいかず頭の中では晩飯は温かいスープにしようとか、そんなことしか浮かんでいない。詩的じゃない。
冬は詩的で、劇的で、美化された現象であるべきだ。少なくとも僕の好きな冬はそうだ。こうも成り下がってしまったのは誰のせいだろう。低気圧か、環境を悪化させている生産活動か、それに牙をむく活動家か、薄っぺらいコートしか売らない都会の呉服屋か。
こうして都会の寒さを嘆きながら僕の好きだった冬を思い出してみる。あの頃は10代。まだ北海道の地方都市で高校生だった。氷点下だろうが猛吹雪だろうが、外に出て友達に会いあてもなくふらつくのが楽しかった。とにかく欠かせないのは冬の公園だ。雪国の高校生は基本的に雪山に飛び込む。太もも辺りまで雪深かろうと掻き分けて歩く。そして先頭の奴が疲れたら交代してまた掻き分けながら歩くのだ。この雪かき特攻隊のシステムは如何に後ろに付き楽に進むかにあるといってもいい。どうしても先陣を切りたいイカれた奴が一緒の時はこっそりガッツポーズをする。だが、そこまでして冬の公園に押し入ったところで特に何もない。誰もそのことは考えていないが。
雪の夜は良い音楽が聴ける確率が3倍高い。これは僕の持論だ。特に、風のない音もなく降る雪の日がいい。街灯やテールランプや、雪山の白さが反射しているのか、とにかく混ざり合って町が紫に近い色になる。雪国以外の人には全く理解できないと思うが、見たこともない景色になるのだ。見たこともない景色の中を一人歩く時の孤独感は計り知れない。聴くのは単調なリズムのギターロックがいい。細やかなノイズと降りしきる雪が非常にマッチする。
雪が降り、町が覆い隠される中で僕らは育った。押しつぶされないよう必死に生きながらえた。空が僕らを隠してくれるその中で、いろんなことを学んだように思う。教師に隠しておくこと、社会に隠しておくこと、友達に言わないこと、親にも言えないことがあった。高校生の頃の僕らには隠しておくべきものが多すぎた。そこでうまく隠してくれたのが雪であり、冬だった。
社会人になれば隠すものなんてない。かかってこいと空を睨みつけ都会へ出てきた。都会の空は狭いからすぐに捉えられるさと皮肉を言いつつ生きていくつもりだった。計算違いだったのは雪がないことだ。
いざ逃げたい隠したいとなった時に、僕らに降り注ぐ恵みの雪がないのだ。あるのは身も凍るような冷たい風だけ。アスファルトも出てるし冷たいし、服屋には薄っぺらいコートしか売っていない。
今では「冬が好きだった」というのが正しいのかもしれない。冬じゃなくて、雪が好きだった。雪がなければ冬じゃないと言い出すくらいに。
クローゼットを見る。背広と薄っぺらいコートが僕を見る。明日まで待ってくれと踵を返した。思い出の冬とはおさらばだ。
The Birthday / BECAUSE
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