天と地を同時に見ることができる場所
そこが始まりでした。
私たちの住んでいる日本という土地は
海に囲まれています。
この海を渡って来た人々が日本のトップで
居られる。
という認識が僕の皇室に対する基本的な見方です
その入り口で最も身近に
その渡来に思いを馳せることができる場所が
難波津、熊野灘、舞鶴湾。
だと思います。
今回ここで書く智仁勇への導入となる
ルーツですので、頭の片隅に置いてご覧ください
さて、日本人とは?の旅の始まりで
御多分に洩れず、僕が触れたものに
日本書紀、古事記、天皇家がありましたが
この接触に後悔の念を抱いたのはつい最近でした
その理由は、いづれについても
始まりが確約できる資料とは言い難い文献しか
触れることのできない事柄だから
そして、後悔ののちに気付いたことは
本当の始まりはもっと現実的。ということです
先程あげた場所はそれぞれが渡来するものに
対して特徴的な受け入れがあったかと思います
まずは難波津
こちらは渡来する人々がたどり着いた岸辺には
既に多くの民が居住していた筈です。
いずれの居住域もさほど大きくはなく
それぞれが独立しそれぞれの規則で
居住していたかと思います。
次、熊野灘。
こちらはのちの時代には荒々しく猛々しい人々が
ひしめいて来る場所ではあると思いますが
概ね寛容に大らかに受け入れがなされた筈です。
その中でまだ僕が理解へと至りきれていないのが
最後、舞鶴湾ですが
きっとその後の王権の歴史を見る限り
非常に厳格で強固な価値観に基づいて
受け入れがなされていたのではないか
と考えます
まぁ、いずれにしても大袈裟に追い払ったり
交戦的な態度で渡来する人々に
対処した。と言うことはなかった。と思います。
この解釈に基づくと
渡来する人々は徐々に増えていったんだろうな。
と
そして増えすぎてしまった渡来の人々と
元々いた人々のいざこざをまとめるために
選択した決断が、渡来の長に自治を委ねる
それを、その後権威主義に居る人たちが
描いた物語が
古事記の国譲りだったんだろうな。と
とはいえ、描かれ方はいづれであろうが
委ねられたトップは
常に原点を思い出せるよう。
象徴を創作しそれを引き継ぐことで
始まりを心得よ。
と伝えたのではないでしょうか?
今回はとても長い記事となりましたが
この記事をイメージしやすくまとめた
図を用意してみました。
きっと歴史を見る眼が変わる筈ですので^ - ^
ご覧ください
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