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アウシュビッツで感じた人類史の悲劇【クラクフ🇵🇱旅行記】

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。

人生で一度は訪れたいと思っていた場所へ足を運んできました(2024年9月訪問)

<歴史的背景>
第二次世界大戦中、ナチスドイツを率いていたヒトラーは、ユダヤ人を徹底的に差別し、殺害するという方針をとっていました。

「ドイツ民族が貧乏なのは、ユダヤ人が金儲けをしているからだ!」などという乱暴な理屈をふりかざし、ユダヤ人を見つけては強制収容所に送っていました。

【自己紹介】

アラサー内科医

休職して世界一周中(2024.5〜)

かなり重い内容です。苦手な方は目次から後半の「古都クラクフ編」へスキップしてください。


アウシュビッツはポーランドのOświęcim(オシフィエンチム)という場所にあり、古都クラクフからバスで1時間30分の場所にあります。

ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺の際に使用された強制収容所です。

Google map

私たちはガイドブックを購入し、自力追悼しました。ガイドツアーや予約なしで回る方法は↓にまとめてあります。興味がある方はご覧ください。


アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所

広大で殺風景な収容所と効率化された処刑システムに衝撃を受け、写真はあまり撮れませんでした。

まず最初に目に飛び込む入り口の看板。
「働けば自由になれる」と謳っています。

しかし現実は真逆でした。
非人道的な扱いを受け、死ぬまで働かされる。

よく見るとBのアルファベットが逆さになっており、これはせめてもの反抗の現れと言われています。

奥に見える建物が通称「死の門」

こちらはビルケナウ第二収容所。
1944年には9万人を収容していた巨大施設です。

写真はプラットホーム跡と死の門。
各地から移送された人々が降り立ちました。

ビルケナウのホームに降り立つユダヤ人

移送中は食物や水などは一切与えられませんでした。密閉された貨車にぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々は、夏のすさまじい暑さや冬の氷点下にも、なす術がありませんでした。

バケツ以外には、トイレもありませんでした。強制移送という屈辱に加えて、糞尿の悪臭が移送者を苦しめました。

食物も水も得られない中、多くの移送者が目的地に到着するまでに命を落としました。武装した警察が警備として移送に同行していましたが、彼らは逃走を試みた者はすべて銃撃するよう命じられていました。

ビルケナウは恐ろしいほど広大

到着後に被収容者の選別が行われました。
その人の人生が3秒で決められます。

働けるものは右へ。
老人、妊婦などの女性、子供は左へ。

右のものは「労働者」「人体実験の対象」に、
左のものは「ガス室」へと送られました。

ユダヤ人は、性別・年齢・職業・国籍と政治的思想を問わず “ユダヤ人である” という理由だけで殺害されました。老人・病人・妊婦・子供には生き残る権利がありませんでした。そして彼らは収容所の囚人として登録すらされませんでした。

ユダヤ人は自由な生活を夢見てこの場所に来ています。必要な家財道具やこのようなお茶碗、鍋などを持って来ていましたが、全て没収されました。

広大な土地に建ち並ぶバラック(宿舎)は有刺鉄線、監視塔で囲われ、外部とのあらゆる交流が禁じられていました。施設はさらに高圧電線で覆われていましたが、あまりにも過酷な環境にわざと触れて自殺する人も多くいたそうです。

寒い日も(真冬にマイナス20度にも)、暑い日も一日中、夜明け前から夜遅くまで労働です。点呼時に1人でも不在だと見つかるまで探し続けます。

ある日は20時間近くも寒空の中立たされ続け、説教されたという話も残っています。

https://www.auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf

アウシュビッツでの犠牲者数は、ユダヤ人だけでも100万人に及ぶと推定されています。ポーランド人やソ連軍捕虜の犠牲者数もかなりの数いることに驚きました。

バラック(宿舎)

手近なバラック(宿舎)の中に入ってみました。

基礎もない地面に直接建てられており、煉瓦敷きの通路はぼこぼこと波打っていました。

通路の両わきには三段の寝棚があり、木の板が貼り付けられただけの簡素な寝床。1段に5.6人が肩を寄せ合って寝ていたと言います。外は夏空の快晴だというのにバラック内は肌寒く、冬の寒さは想像を絶します。

証拠隠滅のため爆破された焼却炉

ビルケナウ収容所には5基の大規模なガス室と焼却施設を備えた施設がありました。

大戦末期、ドイツの敗色が濃くなり、収容所が連合軍によって解放される日が近づくと、これらの施設は証拠隠滅のために親衛隊らによって爆破されました。

大量の有毒ガス缶(ZYKLON-B)

連行された人々から没収されたメガネや鞄のほか、2トン近くもある女性犠牲者の髪の毛といった遺品がそのまま展示されています。

他の遺留品はあまりにも生々しかったため写真に収めることが出来ませんでした。

連行された人々の靴
一足一足にその人の人生があった

アウシュビッツには遺影も多く展示されていますが、ほとんどは3ヶ月以内に亡くなっています。騙され笑顔で列に並ぶ一家の写真、子供の写真、痩せ細った人々の写真。脳裏に鮮明に焼き付いています。

1日の食事

これは一日の食事です。腐ったパンと具のないスープ、コーヒー汁と言われた不味いスープ。摂取エネルギーは 1日1300 kcal。当然、過酷労働を支えることもできず、9割以上の方は餓死または病死したそうです。

アウシュビッツの四号館入口には、アメリカの哲学者、ジョージ・サンタヤナの言葉が掲げられています。「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味わざるをえない」

「戦争の狂気」を語り継ぐ大切さを身をもって感じました。


ポーランドの古都クラクフ

クラクフはチェコとの国境に近い南部ポーランドの都市で、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランド王国の首都として栄えた古都。

ここまでの旅路です。
スロベニア → ハンガリー → チェコ → クラクフとジグザグに中欧を北上中です。


夜明け前から旧市街を散策

珍しく早起きに成功したので、
夜明け前から旧市街を散策します。

ガジミエシュ地区

私が宿泊したエリア「ガジミエシュ地区」は、1300年代から第二次世界大戦までユダヤ人地区として栄えていました。

現在は若い世代を中心にサブカルが発展し、おしゃれタウンになっています。クオリティの高いアートが街中に点在していて、毎晩夜遅くまで賑わっていました(眠れないくらい)。

夜中3時までドンチャン騒ぎしていた街とは思えない静けさ。朝5時から散歩している変人は私しかいません。

戦後、ユダヤ人の人口は激減しましたが、その歴史と文化は今もこの地区に息づいています。シナゴーグ(=ユダヤ教の会堂)やユダヤ人墓地などが点在し、ユダヤ文化が根付いています。

ポーランド最古の旧シナゴーク

こちらはポーランド最古の旧シナゴーク(=ユダヤ教の会堂)で、15世紀に建てられました。キリスト教の教会と比べると質素に感じます。

ナチス政権はここを倉庫として使用しましたが、現在は歴史博物館になっています。


ガジミエシュ地区 おすすめレストラン 「No.6」

ガジミエシュ地区はおしゃれなカフェやレストランが沢山ありましたが、その中でもリーズナブルかつ美味しいレストランを紹介!

お気に入りすぎて滞在中に3回訪問(笑)

そしてこの爽やかなサイダーが料理と合うこと!

サイダーこと「シードル」は、りんごから造られるお酒です。ヨーロッパでは、パブやレストランなどにはほぼ必ずといっていいほど常備されています。


シンドラーのリスト

また、この地区は映画『シンドラーのリスト』の舞台となったドイツ人実業家オスカー・シンドラーが実際に経営していた軍需工場があります。

これまた重い内容の映画ですが、オススメです。ドイツ人の中にも、文字通り「命と全財産」を投げ打ってユダヤ人を助けた実業家がいたことに感動しました。

映画「シンドラーのリスト」

映画「シンドラーのリスト」のあらすじ

第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。

オスカー・シンドラーの工場
オスカー・シンドラー 1908-1974

開店前のベーカリー

クラクフ中央広場

旧市街「中央広場」は圧倒的な広さで、ヨーロッパ最大規模と言われています。たしかにこの旅、後にも先にもこの広場が一番の開放感でした。

周囲にはレストランやカフェがひしめいています。特に昼以降は人々で溢れ、活気に満ちた雰囲気を楽しめます。

夕方の広場
夕方の広場

馬車の待ち列ができるくらい広いです。

正面に見えるは「織物会館」

昼間も賑やかですが、早朝が圧倒的にオススメ。

早朝の澄み切った空と静かな広場。
無数のハトと私で広場を貸切です。
アウシュビッツを訪れた後だったので、手近なベンチに座り気持ちの整理もできました。

広場の中心には「織物会館」が立っています。その存在感は圧倒的で、何度見ても美しいです。琥珀や毛皮、切子硝子や木彫りの小物入れなどを売るお土産屋さんがあります。

ヴァヴァル城

歴史地区の中心には、ヴァヴェル城がそびえ立ちます。城壁内に入るだけなら無料です。


いかかでしたでしょうか。

日本人にとってアウシュビッツを訪問する機会はなかなか無いと思います。

訪れた一個人として、感じたことを言葉にして伝えることの大切さを強く実感しました。

皆さんはどう感じたか、
コメント頂けますと嬉しいです。

著:Dr. クレヨン


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