【ふしぎ旅】菊姫悲話
新潟県五泉市(旧村松地区)に伝わる話である。
昔、早出川をはさんで左岸に雷城、右岸に福蓮寺城があった。
この二つの城主は非常に仲が悪く、つねに争いが絶えなかった。どちらも山城で、戦いの際には水を得るものが有利な条件だった、
ある年、両軍が激しい戦いを繰り広げた。
早出川岸に陣取った福蓮寺城は雷城から水を汲みにくる兵達を撃ち取り、戦いを有利に展開した。
雷城は必死の抵抗もむなしく、ついに落城した。
その時、城主は城にある財宝を二ノ平に埋め、娘の菊姫に「雷城再興のおりに、この財宝を掘り出して役立ててくれ」と言って城に火を点け自害した。
燃え上がる雷城を後にした菊姫は、麓の永谷寺に身を寄せた。
しかし、これを知った福蓮寺勢は、寺へ押しかけ、姫を引き渡すよう要求した。
このため、姫は激しい雨が降る夜、永谷寺を抜け出して、早出川沿いに山道を逃げ、難所である東光院へとたどりついた。
しかし、その頃には福蓮寺勢だけでなく「姫を探して、美しい姫と財宝を手に入れたい」という雷城の生き残りの者まで血眼になってさがし、ついに東光院まで押しかけてきた。
それを知った姫は「もはや、これまで」と大岩から下の淵へ身を投げて死んでしまった。
それから夏の夜になると、東光院淵の中から女のすすり泣く声が聞こえてきたという。
その後、菊姫は淵の主の龍神となって福蓮寺城を襲ったり、早出川を氾濫させたりして恨みを晴らしていた。
その頃、永谷寺では、毎年四月九日に盛大な大般若会を行っていた。
その日、本堂へ独りの美しい娘が現れ、信者に交じって、熱心にお経を聞いていたが、娘が立ち去ったあとを見ると、かならず畳がぐっしょりと濡れていたという。
人々は龍神の菊姫が人間の姿になって参詣に来るのだと噂した。
また、この寺の代々の住職が死ぬとオボト石と言われる丸い石がどこからか運ばれてきて並んでいた。
これも龍神の菊姫が東光院淵から運んできて建てるのだと言われた。
この石は何度川へ投げ入れても、一夜明ければ、必ず元の場所へ戻っていたという。
人々はこれを「無縫塔」と呼んでいる。
早出川沿いをめぐる、合戦物語であり、時代としては南北朝から戦国時代初期の話らしい。
この、戦いにおいては、城を守る際、水が無いということを欺こうと、白米を滝のように流して、水があるように見せたとか、雷城の財宝の隠し場所など、様々な伝説があるのだが、中でも上記した菊姫にまつわるものが多い。
菊姫が身を投げたと言われる東光院淵はまだあり、近くには河原の広場となって、川遊びが出来、そこまで物悲しい雰囲気はない。
ただ淵のあたりは、深くなっており、遊泳禁止となっている。
過去にも水難事故が何度もあったということだ。
今でこそ、辺りはひらけているが、当時は物寂しい山道であったであろう。
そこを抜け、淵の断崖から下の川の激流を見た時の菊姫の絶望たるや、無念であったろうと思う。
だからこそ、姫の祟りなどという話が生まれたのであろう。
さて、この東光院の入口にお地蔵様があるのであるが、この地蔵様、少し不思議なところがある。頭が自然石で出来ているのだ。
これが、次の永谷寺のオボト石の話につながる。
永谷寺は、現在では雷城の登り口となり、当時の面影を残している。
境内の奥は墓地となっているが、その傍らにオボト石はある。
ぐるりと敷地を取り囲むようにあり、比較的最近のものまである。
伝わっている話では24個となっているが、29世まで、およそ30くらいの墓が並んでいる。
形そのものは、漬物石の少し大きいくらいのたまご型の石である。
「無縫塔」そのものは、卵型の墓塔を言い、僧侶の墓石としては一般的らしい。
それが自然に運ばれてくる話は、たとえば静岡の大興寺では、子生れ石というものがあり、住職の死期が近づくと崖の土から石がポトリと落ちるという話も残っているから、同様の話が各地にも残っているのであろう。
自分の死期を石で知るというのは、僧侶としても、なんとも複雑な気持ちであろう。
もっとも、現在はどうなっているのかは知らないが。
案外と、自分で探しているのかもしれないが、詮索するのは野暮というものだろう。