”にいがた総おどり”と”だしの風まつり”
今から17年前、2003年の夏のことだ。
この夏、私は2つの祭に大いに関わることとなった。
そして、今もその年にあったことは、忘れられない思い出以上の経験として、現在の私に強く影響を残している。
第1回にいがた総おどりの頃
話はその1年前に戻る。
2002年10月末、長袖でも肌寒い夜のことだ。
新潟市から30キロほど離れたところ、当時は安田町(現在の阿賀野市)において、踊りの小さなイベントが開催された。
その1年前に、新潟市の万代シティーであったよさこい踊りのイベントでの演舞を見て感動した当時のサントピワールドの社長の朝妻さんが、同様のイベントが園内で出来ないかと考え、その踊りの団体の代表に相談した。
それが”にいがた総おどり”の立ち上げメンバーで、総合プロデューサーの能登さんと岩上さんだった。
イベント担当であった私もその席に同席しており、新潟商工会議所の一角の小さな部屋を事務局として、何人もの若者がいたのを覚えている。
第1回の”にいがた総おどり”の直前だったからか、踊りに夢中で、事務局前の廊下で踊って、商工会議所の方に小言を言われる踊り子もいる、そんな時のことだ。
当時は”にいがた総おどり”の人たちのことを得体の知れない素行の悪い輩と思っている人も少なくはなかっただろうと思うから、商工会議所の方の中には迷惑だと思っている人がいたのかもしれない。
私も、その踊り子に多少の恐怖を感じつつ、ただ、踊りに対する純粋な熱量だけは本物だと感じていた。
そんな中で熱く踊りの素晴らしさ、そしてその感動を次世代に残したいという思いを話す能登さんと岩上さんの言葉に感心し、そして自分と同世代ということを知り、自分の熱量の無さを恥じたものだった。
その後、9月に”第1回にいがた総おどり”が開催され、その熱に導かれるように、その一か月後、サントピアワールドで”よさこいフェスティバルinサントピアワールド”が開催された。
”にいがた総おどり”の準備も忙しい中、能登さん、岩上さんをはじめ、多くの方に、このイベントの開催に協力していただき、”にいがた総おどり”に比べると、はるかに小規模ではあったが、確かに祭りへの情熱は、安田の地に灯った。
第1回 安田だしのかぜ祭
その祭りへの情熱は、”和 阿賀野連”という地元でのよさこいチームを生み出し、2003年に地元のよさこい祭を生み出した。
祭りの名前は「安田だしのかぜ祭」
会場は、私が働く「サントピアワールド」だ。
「だしの風」とはこの地に吹く山からの吹きおろしの暴風のことを言う。
その勢いは非常に強く、大きいものになると樹木を倒したり、家屋が吹き飛ぶ。
そんな迷惑な乱暴な風だが、地元にいる限りは、その風の脅威から離れることはできない。
ならば、その風を嘆くより名物として笑い飛ばし、新たなるエネルギーとしよう、そんな思いから名付けられた。
その祭りの立ち上げにあたり、会場主催者として、多分、私はそれまでの人生の中で、最も動き回ったのではないかと思う。
地元の安田町の役場の方と毎日のように話し合い、地元の権力者の方に「新しい祭を作りたいんです」と伝え歩き回った。
もちろん、”にいがた総おどり”の能登さんや岩上さんとも、何度も何度も話し、”参加の踊り子に喜んでいただくには”とか、”来場された方の心を動かすには”ということを話し合った。
祭りを運営するための協賛金集めをし、新潟県などの助成金申請書を何度も提出した。
通常発注すれば50万くらいするであろう屋外ステージも、私を含めたサントピアワールドのスタッフが手作りで作った。
サントピアワールドの園内で、寝泊まりして、夜通しの作業をした日が何日もあった。
結果25チーム。800名の踊り子、そして観客動員6,000人という規模のお祭りとなった。
いい世よ来い、いい世の中が来るように、いいよさ来いのよさこい。
踊り子たちは祭りの魂を取り戻そうと踊り続けました。
自由な祭り心を取り戻そう、祭りの魂を取り戻そう。
その願いは新潟に届きここ安田にも小さな火がともりました。
ともに手と手を取り合い作ろう祭りを!!
※当日の進行台本より
多くの方の協力において盛大に行われた第1回安田だしのかぜ祭の後、誰もいないステージに仰向けになって見た夜空は本当に綺麗で、それまでの苦労が報われた気がした。
はじめて、「大きな仕事をやりとげた」と実感できた、そんな祭りだった。
そしてそんな場に立ち会えたことは間違いなく、”にいがた総おどり”の能登さんや岩上さんはじめ皆さんの力があったからで、深く深く感謝していた。
この祭りの立ち上げに携わったことを機に、私はその後、多くのイベントにスタッフとして携わることとなり、経験は大きな力となった。
最後の安田ふるさと祭り
それから2週間後、またサントピアワールドでお祭りが開催された。
祭りの名前は”安田ふるさと祭り”、戦後はじまった商工会主体の祭りで、地元の大事なお祭りだ。
例年は、地元の芸能発表、民謡流し、花火大会といった典型的な地方の祭りのプログラムであったが、この年は違った。
平成の市町村大合併を前に、安田町として最後のお祭りであった。
一つの地区に、同じ季節に二つも祭りがあることはおかしいだろうということで、すでにこの年に生まれた”安田だしのかぜ祭”と、この”安田ふるさと祭”は次年度には合併するということが暗に決まっていた。
その意味では、この年が最後の”安田ふるさと祭り”でもあった。
そんな大事な祭りに、”だしのかぜ祭”の縁から、”にいがた総おどり”のホストチーム”響'連”がゲスト参加で演舞することとなっていた。
”安田の祭りは踊りの祭典”
そんな印象を、地元の人にも持っていただけたら、そう思い、特別にプログラムに組み込んでもらった。
ところが、だ。
その日は朝から大雨がふる予報。風も強風の予報だったので花火大会は延期が早々と決まった。
実際に、祭りの時間の夕方になると風は多少強いが、雨は降ってない状況だったので、民謡流しまでは実行しようということになった。
祭りが始まると、小雨が降り始めた。
まず、地元の芸能団体が、各々のステージ発表をする。
それらの発表が終わり、いよいよ”響'連”の演舞という時になって、雨脚が強くなった。
ステージは雨で滑って危ない状態だ。
演舞中止かと思った、その時、”響’連”の方から「やらせてください」と申し出があった。
安田の地に灯った踊りへの思い、祭りへの魂は、雨などでは消すことが出来ない、そういう思いがあったのだろうか。
実際に演舞が始まると、さらに雨は強くなった。
完全にどしゃ降りだ。
それでも、響連は、雨に負けない演舞を続けた。
終盤の”ハレルヤ”辺りだったであろうか。
雨はさらに激しくなり、もう前も見えないほどであった。
風も暴風となり、会場を照らす投光器が、揺れて危険な状況だ。
私と、もう一人のスタッフが慌てて、その投光器が倒れないように、必死で抑えに走った。
もはや、ただの雨ではなく嵐だ。
私は、その嵐の中、投光器を抑えながら、ただ踊る”響'連”を見ていた。
純粋に踊りが醸し出すエネルギー、それは見ている皆に伝わっていた。
演舞が終わった後、響連への惜しみない拍手が続いた。
涙するものもいたと思う。
総踊りで一緒に踊った観客はずぶぬれになり、なぜか笑っていた。
踊りの力がもたらすエネルギー、感動、そして真摯に踊りに取り組む姿勢、そういったものを、この時に真に実感した。
”にいがた総おどり”に思うこと
次の年、2つの祭りは「ふるさと だしの風まつり」となり、新潟を代表する踊りの祭典として、最高で観客動員数2万人ほどを数えるほどのお祭りとなった。
ライトアップされた遊園地で踊る姿は、非常に美しく、子供たちも多く参加する楽しいお祭りであった。
その後、およそ10年、私はその祭りの運営事務局として携わっていたが、その経験は今の私を支えていると言っても過言ではないだろう。
また、その経験から、私自身、”新潟総おどり”のスタッフとして、あるいは演者(パフォーマー)として、そして観客として、様々な立場で関わってきた。
やはり、万代を包み込むあの熱気は圧巻であるし、スタッフ、踊り子、観客の皆が笑顔ということも素晴らしいと思う。
そんな縁がある”にいがた総おどり”が、新型コロナウィルス禍により、存続の危機にあるという。
思うに、今回の新型コロナウィルス禍で恐ろしいのは、直接的な死や、経済状況が悪くなることは勿論だが、エンターテインメントが、このままでは滅びてしまうという怖さもある。
あらゆる行動が”密”という言葉で否定され、どんどんと出来ることが狭まっていく。
人間らしく”笑い”、”泣き”、”感動する”ことすらもはばかられ、無表情になってゆく。
確かに、エンターテインメントは、”今日”を生きるためには必要でないかもしれない。
しかし、豊かな”明日”を作るためには、必要なものだ。
それこそ、”にいがた総おどり”が、開催当初より掲げる「次の世代のために、感動ある世の中を作る」ために、”新潟総おどり”は、新潟という地にはなくてはならない大事なお祭りだと思う。
だから、少しでも力になれれば嬉しいし、力になりたいと思う。
いつか、また普通にエンターテインメントが楽しめる世の中が来るように。
”いい世さ来い”と願いながら。