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【ふしぎ旅】首切り地蔵
新潟県上越市三和地区に伝わる話である。
水吉の堂百というところに、大きな石の仏頭がある。
鎌倉時代の作で、人々は、これを「首切り地蔵」と呼んでいる。
南北朝時代の建武四年(1337年)、この地方で大きな戦いがあった。
足利尊氏方の信濃・市河の軍勢が大挙して、越後に侵入し、これを迎え討った新田義貞方の池・風間勢が敗北した戦いだ。
この時、五体満足だった地蔵様が三つに切り分けられ、胴体は板倉の筒方村へ、手足は頚城の手島村へ運ばれたのだという。
「首切り地蔵」ではなく「石造仏頭」として看板などには表示されている。
小さなお堂の中に、それはあり、真ん中が阿弥陀如来、左が観音菩薩、右が地蔵菩薩の仏頭となっている。
通常、首切り地蔵と言うと、首の無い地蔵様を思い浮かべる、そのようなものも、近くにあった。
しかし、メインは仏頭である。大きさは、大きいところでおよそ1mくらいあり、さて、胴体は、と考えると、かなり大きな石仏になることが想像される。
作られた時代から、自然石に頭を差し込む、差し込み式仏頭と推測されるらしいから、三つに切り分けて、というのは、古来の人の想像であろう。
少し調べたが、板倉にも頚城にも地名はあるが、そのようなものはない。
1mの仏頭と言うと、胴体はどう考えても5m以上はある。そのような巨大なものであれば手足はともかく、胴体は見つかってもよいだろうとは思うのだが。
しかし、そうすると仏頭が置かれるべき自然石は?ということになるのであるが、少なくともこの近辺には、それらしい巨石は見つからない。
ただ、近くに水科古墳群などの古墳があるため、古墳を胴体とすれば、とも考えられるが、そんなものは聞いたことが無い。
大体、自然石の上に仏頭などと言っても、万治の石仏くらいしか、ピンとこないのだ。
あるいは磨崖仏の類なのかもしれないのだが、いずれにせよ、この仏頭の胴体は、どこにあるのかを想像するのも楽しい。
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