【ふしぎ旅】柴橋の宝塔
新潟県胎内市(旧中条町)に伝わる話である。
さて、単純に言えば、盗賊退治の話となるのだが、それにしては、登場人物や地名などがかなり詳しく、他の伝説とは違い、何かしらのモデルとなった話があるのではと思う。
この辺りは奥山荘という荘園で、柴橋館という館跡も近くにあるのでそれにも関係している者なのかもしれない。
盗賊側にもきちんと名前があるのだが、この”さくもくの善右衛門”とやらは、調べても分からず、そもそも”さくもく”というのが、どういう意味があるのかが分からない。
ともあれ、不思議なのは、これだけに人物名や地名がハッキリしているのに、やけにアッサリと伝わっているということで、もう少し物語として肉付けされてもよいだろうと思うのだ。
英雄軍団対盗賊軍団の戦いとして、例えば小桜峠で盗賊が日暮れを待っているシーンなどは、どうやって攻め込むか作戦を立てている盗賊と、それを知って守りの準備する英雄たちという流れなどありそうなところだが、 あっさりと、村を襲う盗賊を殺してしまうというところで話が変わる。
話の展開が大味すぎるのだ。
これでは、わざわざ木曽から新潟まで出てきた盗賊たちに対して、あまりにも雑やしないだろうか
芝居であれば、盗賊たちの名のりのシーンだけで一幕ありそうなものだ。
そう、この話、もともとは芝居であったのではないかと思わせるほど、細部はしっかりしている。
そのあらすじだけが伝説として残っている感じなのだ。
たとえば、この話のシーンごとに絵を書き、台詞台本などが別にある(あるいはその日の気分で即興で)話の肉付けをしていくという紙芝居があれば、昔の子供達が大好きな話になりそうだ
案外と、そんなふうにして、現実にあったことが物語となり伝えられているのかもしれない。
さて、この宝塔であるが、実際に探してみると、なかなかに難しい。
住宅街の中、神社のすぐわきに建物がある。
田舎であるとよく風景であり、神社の社務所でなく、その集落の集会所となっていることが多い。
ところがその中に、この柴橋の宝塔があるのだ。私が訪れた時は、冬囲いをしていたので、直更に分かりにくかった。
石塔は石造り、三重塔である。建物の一角にあり、石塔を守るだけの建物にしては広すぎるのではないかという気がする。
お祭りをするというので、祭礼をするために広いスペースが必要なのであろうか。
あるいは、集落全体のお祭りをする意味で、まさに集会所的な意味合いがあるのかもしれない。
伝説にある、小桜峠は新発田、加治川方面より、柴橋集落に向かう途中にある大桜峠あたりではないかと思う。その近くに小桜なる表記の看板があった。
長野方面から来ているのなら、こちら方面はかなり遠回りになりそうな気もするのだが、盗賊にも盗賊の事情があるのだろう。
お礼参りをしたという熊野若宮神社、年末年始あたりは今もあり多くの参拝客で賑わうという。町の中に荘厳としてあり、かつてはもっと賑わっていたのだろうということを感じさせる風格がある。
盗賊を弔ってやれというお告げをする神様というのも、なんとも懐が広いが、あるいは盗賊では無かったかもしれない。
墳墓が作られるくらいに慕われた人の塚が、それを伏せて祟りを鎮めるための塚などとされている例はいくつでもある。
この柴橋の宝塔も、地元では”ほうとう様”と呼ばれているくらいなのだから、単純に盗賊の墓では済まないような気がする。
先にも述べたが、わざわざ木曽の山奥から、越後まで、盗賊がくるにしては、随分と距離がある。
もしかしたら盗賊ではなく中央政府でそれと地方の武士の対立、紛争があったのではなかったろうか。
わざわざ、芝居がかった名前にしたのも、この話がフィクションであることを強調するためにあえて、そうしたのではないだろうか。
そういえば、建仁の乱での越後の反乱軍の武将、板額御前は場所こそ違うが、胎内の熊野若宮神社あたりの出身である。
また、板額御前が守った鳥坂城は木柵と、空堀には逆茂木(さかもぎ)が立ち並らび守っていたと言われる。
”さかもぎ”と”さくもく”という語感は似てなくもない、
なにか、その辺りの中央軍と地方の対立のもやもやが、この一連の話の背後にあり、宝塔が作られたのではないか、そんなことを考えさせる。