世界に一つだけの花
柄谷行人だったか、吉本隆明だったかと思うのだが、旧約聖書においての代替性の問題について言及している箇所がある。
それはヨブ記について書かれた文章で、うろ覚えで申し訳ないのだが内容としては「ヨブは本当に救われたか」 ということであったと思う。
ヨブ記がどういう話かというと
裕福で信仰厚い人物であったヨブという男が、神によってその信仰を試される。
その試練として、自分の財産(家畜など)や子供達を災害によって奪われ、さらには自分の健康な肉体までも病気(全身に腫瘍ができる)に冒される。
しかしヨブはその信仰を守ったため、身は元通りとなり、財産は以前にも増して増え、そして以前よりも多くの子宝に恵まれた。
という内容のものだ。
ここで問題となってくるのは、果たして子供は、代替がきくのかということだ。つまり、一度「災害によって命を奪われた自分の子供」と「新しく生まれた自分の子供」の価値は同等か否かと言うことだ。
いや、子供だけではなく、家畜などの財産も果たして同等なものなのであろうか。
子供や家畜などに関して代替がきかないのであれば、ヨブがかけがえのないものを失ったという事実は変わらないので、救われたとは言えないのではないだろうか。
面白いことに新約聖書では「ある人が百匹の羊を有していて、その中の一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山にのこしておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないであろうか」と一匹の羊と九十九匹の羊は同等の、いや一匹の方が大事であるというとらえかたをしている。
これは「(この)一匹の羊は他の九十九匹の羊とは代え難いものである」ということを示している。
もちろんそれは迷い出ている羊のみが特別なのではなく、九十九匹のうち、いずれかが迷えば同じように探すという意味で羊は同等の価値を持っている。
重要なのは、「(この)羊」の価値は「(この)羊」しか持ち得ず、他の羊では代替がきかないということだ。
先に述べたヨブ記も同じで「(この)子供」は「(あの)子供」では代わりにはならないのだ。
で、何が言いたいかと言うと、今、この駄文を読んでくれている、あなたも決して代わりはきかないと言うこと。
人それぞれ、これを読んでいるキッカケや読んで考えることは違うであろうし、毎回読んでくれている方、初めての方、色々とあるだろう。
けれども、あなたが訪れてくれた一歩は他の人の一歩では代えられないのだ。
ありがとう。