大事な人を亡くした時の心のケア~お墓は救いにならないのか~
「千の風になって」は仏教界でもめたらしい
これから記すことは、母を亡くした僕が、自分の悲嘆と折り合いをつけるための思考法、あるいはメンタルマネジメントなので、宗教の教義やら、哲学的な意味合いはまるでない。
あくまでも僕にあった思考法、グリーフケアと思って参考にしていただければ幸いである。
ずいぶん以前の話となるが「千の風になって」という歌が流行したとき、仏教界から反発があったという。
もう少し詳しく語ると「お墓に私はいません」と故人自らが歌うという内容が「お墓を否定するものだ」ということ。
また、この歌が示す「私は風になって世界中に遍在しています」という死後の世界観が「仏様のおかげで成仏し浄土へいく」という仏教の考え方と異なっていること。
その2点が主だったらしい。
「お墓に私はいません」という部分は後で詳しく語るとして、まずは「亡くなった私は風となって遍在しています」という部分から考えてみよう。
魂は風となり遍在する?
物理的に考えると焼かれて灰となり、その一部は素粒子として風にのり世界中に遍在しているともとれる。
宗教的に考えると実体なきものは霊性として(魂とよんでもよい)世界中に遍在していることとなる。
前者は考える必要はあるまい。
我々が亡くしたのは細胞や素粒子ではなく、”存在”そのものであるから。(ここで細胞にも意識がとか言い出すととんでもなくややこしくなるので無し)
後者としては仏教的ではないかもしれぬが、原始的な宗教概念としては珍しいものでは、あるまい。
守護霊などという概念などはその最もたるものであるし、あるいは先祖が我々を見守っているなどというのも、近いだろう。
ただ実際の問題として、死者が風になろうと、あるいは意識などもたぬ無機物に成ろうと、成仏して浄土に行こうと、天国や地獄に行こうとも、その考えは死者に向けたものであり、遺された我々の直接的な救いとはなりえないということだ。
グリーフ(悲嘆)について
ここで、メンタルマネジメントから考えるグリーフ(悲嘆)の問題を考えてみよう。
このような状態にある時に、精神的にも肉体的にも症状が出たり、行動に変化が現れたりする。
日本人に多い反応としては、次のようなものがあるという。
とりわけ、思慕の念が強いことは想像できる。
僕の場合は、この他に強かったのは「あそこでああしてれば(よかった)」という取引や後悔と呼ばれてるものとは少し異なり、自分がやるべきことはやったし、自分の行為そのものに後悔はなかったのだが、亡くなった母の真の気持ちが最後まで分からなかったことに対するどうしようもない不安が残り、それが原因でかなり気分が落ち込むことがあったし、今もある。
遺された者のグリーフケア
とにもかくにも、このようなグリーフのケアとして代表的なものとしてウィリアム・ウォーデンがあげた「喪失を乗り越えるための4つの課題」がある
愛する人を失った悲しみとは真空の恐怖に似ている。
その人の肉体が無くなった時に、その喪失は、その人とのそれまでの絆、記憶を含めて闇へと吸い込まれ、悲しみと共に、ともすれば自分すらも飲み込まれそうになる。
それに正しく対処するには、喪失した世界から目を背けることでも、悲嘆を乗り越えることでもない。
喪失を受け入れ、そこより生ずる悲嘆を受け入れ向き合い、新たな現実の中で新しい形で故人とつながりを持つということだ。
この新しい形でのつながりという部分で「亡くなった者がどうなるのか」という観点が重要となる。
先にも書いたが、「成仏する」「安らかに眠る」「無機物になる」「風になる」と言う言葉は亡くなった者が主語だ。
遺された者にとっては、これだけではあまりにも優しくない。
死者が救われたといって、そのままに遺された者が自動的に救われるわけではない。
遺された者は、ただ俗世間の中でそれでも精一杯生きなければならないのだ。
喪失と言う事実を受け入れるということ
まず、そのためには愛する者の「死」「喪失」という事実を受け入れる必要がある。
今回、僕が母を亡くして気づいたことは、葬儀とは故人のものでなく、遺された者の儀式だなということだ。
葬儀という儀式、そして四十九日という時間をかけて、「死」「喪失」という事実を、自分の中で納得させていく。
よく悲しみを和らげるには時間が必要と言われるが、葬儀とは時間をかけつつ「成仏」という比喩を巧みに使い「死者」から「仏」という特別な存在に故人が変わっていくことを遺された者に納得させるための儀式なのだ。
そうした上で、人が亡くなるということ、今までの世界からいなくなるということを、ゆっくりゆっくりと時間をかけて認識していくのだ。
そのようにした過程を経た後、亡くなった者と、遺された者がどのような形でつながるのか。
ここでようやく死後の世界が故人のためでなく、遺された者と故人双方のものとなる。
遺された者のための死後の世界
ある者は「故人は苦しみのない浄土にいるのだから、故人は安らかでいる。我々が心配することではない」と思うだろう。
ある者は「個人は風となり、大空を吹きわたり、時には私達を近くで見守っている」と思うだろう。
また、ある者は、肩にふる雨に、故人を思い出すかもしれない。
もちろん「もう何もない」と思い、無常を知る者もいるだろう。
そのあたりは、それぞれの思いや、グリーフで得た感情によって異なってくる。
たとえばグリーフの反応に「取引」という感情がある。「あの時、~しておけば」とか「もし~だったら」という感情に深くとらえられ、時には自責の念に行きつく。
僕も、亡くなった母が健康診断に行かなかった人だったから、「もし早く健康診断を受けておけば」などという感情を強く持ち、少しでも自分の身体に不調があれば健康診断に行くようになった。
たとえば、それまでの自分の行いが悪かったから大切な人を亡くしたのだと感じたのであれば「悔い改めます」と言って宗教的な方向へ向かうことだろう。
とにかく、遺された者にとって大事なことは「人が死んだらどこにいくか、どうなるか」という本に書かれた様々な論説でなく「自分にとって大事な人が亡くなったという事実の受け入れ」とそれからの「故人との新しいつながり方を見付ける」ということなのだ。
故人との新しいつながり
「故人との新しいつながり」を考えた時、遺された者と故人との間にある一番深いつながりは何か。
僕は、端的に「記憶」だと思う。
故人の記憶とは、傷口のようなもので、思い出すと切なく、悲しくどうしようもない思いがあふれ出てくる。
傷は時間と共に、故人の死を認め、傷跡へと変化していく。
それでも、最初の内は時々傷跡から血がにじむこともあるだろう。
だけれども、僕らは個人を忘れられないのではなく、忘れたくないのだ。
だからこそ記憶を残そうと、思い出話を口にしたり、文として残したりしようとする。(今の僕がそうだ)
このようなことを書くと、そのような考えは故人とのつながりを求めるあまり、記憶に引きずられ現在の自分を見失うのではないかという批判を受けるかもしれない。
過去に後ろ髪を引きずられ、現在の足元がおろそかになるのではということだ。
しかしである。
過去の記憶と未来への希望は、現在、此処、自己にしかない。
僕と言う存在は、故人の記憶と共に故人が生きていた過去へ戻ることは出来ない。
また故人の記憶を捨て、未来に存在することもできない。
ただ、現在、此処、自己にしか自分は存在しないのだ。
にも関わらず、記憶は存在する。それはどういうことか?
それは現在、此処、自己をしっかりと認識する限りにおいては過去に引きずられるということを意味しないということだ。
記憶によって故人を思い出す時、その存在はまた「かつて在った者」として現在、此処、自己によみがえるのだ。
すなわち、それこそが故人との「新しいつながり」に他ならない。
故人は記憶の中に遍在する
故人は記憶の中に遍在する。
思い出した時に故人は存在しているのである。
「それでは誰の記憶からも無くなったら・・・」
それは知らない。知ったところで意味が無い。
哲学的、宗教的な論を僕は述べてない。
最初に述べているように、これは愛する者を亡くした人達が、自分の悲嘆との折り合いをつけるための思考法である。
母を亡くした僕が、どのように考え、実行して、悲嘆とむきあっているかを書いているに過ぎないのだから、それが正しいかどうかはあまり必要ではない。
大切なのは、愛する者を亡くしたという事実と、「喪失」という現実にどのようにして向かいあえばよいのかということだ。
さて「記憶」こそが、故人との新しいつながりを大きく示すものであるならば、自分の悲嘆と向き合うためには、故人との記憶にフタをするべきではない。
仮に記憶があふれ出した時、その感情は致命傷的に自分を傷つけるおそれがある。
むしろ記憶と向き合い、その中でこれからの自分の確かな生活を続けなければならない。
「記憶」と向き合うことが「故人」との新しいつながりならば、先に記したように「故人を思い出した時、故人は存在している」こととなる。
であるならば、故人を思い出すキッカケがあるならば、そこに故人は存在する。
キッカケはなんでもよい。
故人と行った想い出の場所、故人が好きだった食べ物や歌、得意だった料理など、様々にあるだろう。
お墓に故人はいないのか?
ここまで語ってようやく「千の風になって」の「お墓に私はいません」の部分について語ることができる、
誰かが、お墓の前で泣いていたのなら、その時点で故人を思い出したのだから、その人にとっては故人は存在している。
お墓は故人の記憶を呼び起こすキッカケとなっているのだから、まさにお墓に故人がいることは確かである。
と同時に、風を感じた時に故人を思い出すならば、故人はまた風として存在しているのだ。
それは故人ではなく、遺された者の理屈として正に存在していなければならない。
何度も述べる様にそれが正しいか、正しくないかではない。
そう考えることにより遺された者の心が救われるならば、そう考えるべきなのだ。
正しいのか、正しくないのかを考えた時点で、遺された者の悲嘆を無視あるいは軽視していることとなる。
「千の風になって」を語る時は、一般論や哲学の問題としてでなく、「故人に呼びかけられている者」すなわち「墓の前で泣いている者」の問題として語らなければいけなかったのだと思う。
「墓の前で故人を思い出し泣いている者」がいるとして、そのような者に、たとえ故人本人であろうと「そこに私はいません」と言うことのどこに悲嘆からの救いがあるというのだろうか。
あるいは慰めになるのであろうか。
あくまでも、それは遺された者、嘆く者が徐々に受け入れていくべきもので、誰かが高らかに歌い上げるべきでは無いということだ。
もちろん、悲嘆に苦しむ人々の中で、この歌に救われた人は何人もいるだろう。それは、そのような故人との新しいつきあい方が、その人にとって救いとなっているというだけのことだ。
何回か述べているが、故人との新しいつきあい方、つながり方には、悲嘆の数だけ、遺された者の数だけ道がある。
だから言えることとしては、少なくとも「墓の前で故人を思い出し泣いている者」に対し「そこに私はいません」などと言うことは、あまりにも残酷で無粋すぎやしませんか?
それだけのことだったのではないだろうか。