比喩について
ある人が、言葉を発する時、「想定される受信者」によってメッセージが変化する。
それが顕著に現れる一例として「比喩表現」がある。
いわゆる”ものの例え”というやつだ。
この比喩表現というのは定義づけようとするだけで、様々な論が飛び交うのだが、ここでは一応「あるものを表現する場合に、標準的な言い方の代わりに別な言葉を用いること」とでもしようか。
大事なのは定義づけでなく「なぜ、標準的な言い方の代わりに別な語を用いる必要があるのか」ということで、ここに「発信者が想定する受信者」(作者が思い浮かべる読者)の存在が関わってくる。
理屈はともかくとして、とりあえず一例を挙げてみよう
浜辺にはクローバーの花 白い雪のように散らばり
鼻をすすりくしゃみをして 犬が空を見上げてる
(”ローラースケート・パーク”、小沢健二)
このフレーズでの、比喩表現は、「クローバーの花 白い雪のように散らばり」の部分である。
本来「クローバーの花が一面に咲いている」という表現でよいはずが、ここではその代わりとして”白い雪”が使われている。
それは何故か?
単純に考えると、”自分が見ているクローバーの花”とその言葉から連想される”クローバーの花”とは違うものだと言いたかったということが挙げられる。
「このクローバーの花の色の白さは、”クローバーの花”と言うだけでは受信者には伝わらないかもしれない」
そのような受信者の認識への不安が、”クローバーの花”の代わりに”雪”という語を使わせたのだ。
そして、それによりクローバーの花の純粋な白さが強調され、それと共に雪のはかなさ、冷たさなどのイメージがクローバーの花に付け加えられる。
もう一つ、別の例を挙げてみよう。
白い羽根をつけた 君の笑顔が
やがて この空じゅう うめつくすだろう うめつくすだろう
(”水の中のクラックネル”、カジヒデキ)
ここでは、前記した例と違い、比喩はイメージ(図像)ではなく、意味的なものとして使われている。
”白い羽根をつけた 君の笑顔”という表現を現実のものとするとインディアンの格好をした女性が笑っているだけという不気味なものになる。
ここでは”白い羽根”とは意味的なものと考えるべきで、”白い羽根”は、この後にくる”空”という語からも喚起されるのだが、鳥というよりは、むしろ”天使の翼”と考えた方がいいだろう。
すると、天使の持つ純粋さ、優しさなどの意味が笑顔に繋がるわけだ。
”天使のような笑顔”としても意味的には正しいが、あえて”白い羽根”という語を使うことにより、その純粋さが”白”という表現により強調される。
このように、本来、比喩とは自分(発信者)だけが持ち得るリアリティをいかにして受信者に伝えるかという思考を前提として成立していると言ってもいいだろう。
つまり、比喩を使わない文章というのは、基本的には「自分だけのリアリティなんてものはない」と思っているか「他人も自分と同じ感じ方をしている」という思考が、根底に流れている。
契約などの文章で比喩が使われないのはそのためで、自分だけが持っているリアリティを約束事に使われても、それは意味をなさない。
それでは「自分だけのリアリティ」といった、そのような特殊なものを説明するときにしか、比喩を使わないのかと言えば、もちろんそれは違うわけで、普段、私たちが目にするであろう比喩表現は、むしろ別の使われ方をすることの方が多い。
過ぎ去った日々をもう振り向かない
この痛みは明日には傷じゃない
そう思えたら声高らかにHi! 声上げて大海原にダイブ
飛び込んで息を一杯に吸い込んで 全力で自由に動け!
言ってみればクロールで その先へ進め・・・
(”クロール”、GAKU-MC)
生き方とか、日々のあり方を何かにたとえるというのは、よくあることだが、ココでは水泳にたとえている。
そして、クロールという比喩を使用している。
本来”大海原にダイブ!”というフレーズの時点で、”クロール”のいう泳ぎ方を私たちは想像する。それは、クロールが最も基本的な泳法だからだ。
にも関わらず、さらにクロールなる語を用いるのは、クロール=自由形と言いたいがためだ。
つまり、”自由に生きろ!」ということを、少しひねって”クロール”という比喩で表現したわけだ。
ここでは受信者がクロール=自由形であるということを知っているということが前提とされ、この比喩が成り立っているわけで、そういう意味合いにおいては、「自分だけのリアリティ」を相手に伝えるということよりは、「自分のリアリティ」が「受信者のリアリティ」と同格のものであると確認したいがために、この比喩を用いているわけだ。
おそらく、このクロールという語ではなく、他の語を使っても発信者が言いたいことは伝わるだろう。
にも、関わらず、その語を用いたのは、自分のリアリティが受信者と同じということを確認し、それとともに受信者の方でも、発信者と同じリアリティを感じているのだと確認させるためと言ってもよいだろう。
そのような比喩の使い方の中で最も顕著な一例を挙げてみよう。
750ライダーのように 海に急ぐので
委員長乗せて 轍(わだち)をのこして 風になるのです
アスピリン片手のジェットマシーン そんな気分
Bye-Bye もう疲れたよ
夏休みの終わりのような毎日に は もう ウンザリ
(”冬へと走り出そう”、加藤文文)
ここでは「750ライダーのように」と「夏休みの終わりのように」という2つの比喩が使われている。
比喩そのものが意味するものを考えた場合には、「自分だけのリアリティを相手に伝える」という理由で比喩を使う必要はない。
にもかかわらず、この比喩が使われるのは、まず、石井いさみ作の少年チャンピオンで連載されていた漫画「750ライダー」のイメージを思い浮かべて欲しいと、作者(発信者)は読者(受信者)に要求しているのだ。
それは、この漫画が分からないと、次にくる”委員長”なるフレーズは、まったく意味が通らなくなることからも分かるだろう。
付け加えるなら「アスピリン片手のジェットマシーン」という語は比喩ではないが、このフレーズは佐野元春の”Happy Man”からのものであり、要は、この歌詞を理解するにはコミックとロックの知識が必要とまでは言わないまでも重要な役割を有している。
こう考えると「夏休みの終わりのような毎日」という分かりやすい比喩も、何か別の知識を必要とするのかもしれない。(フリッパーズ・ギターの”DOLPHIN SONG”の最後のフレーズを示唆しているとか)
そうは言わないまでも、このような”コミックとロック”という当時の一般的な学生生活を根底におかないと”夏休みの終わり”がどのようなものであるかということが理解できない恐れすらあるわけで、比喩が意味を持たなくなってくる。
つまり、ここでは”そのような生活をしている人こそ、作者の意図を理解できる仲間である”という小さな共同体を作ろうとする意識が根底にある。
この考えを突き進めると、いわゆるカリスマ的な人が、なぜ比喩表現を使いたがるのかという理由が分かってくるだろう。
発信者(語り手)は、ある特殊な比喩表現を使うことによって、自分が特別な存在だということを主張しつつ、その比喩表現を理解できる人達も特別な存在だということを暗に指示する。
それにより発信者と受信者の閉鎖的(排他的)な関係(他の人には理解できないような結びつき)が出来上がるわけだ。
また比喩を多用する人は、いずれにせよ、人間関係や現状に不満や不安を持っていると言ってもよいだろう。
通常の生活をするかぎりにおいては「自分だけのリアリティーを他の誰かに伝える」必要は無いのだし、また「自分が受信者と同じである」ということを確認する必要も無いわけだから。
さて、今までグダグダと書いてきたことを、要点だけを簡単にまとめてみよう。
1.本来的には比喩とは自分だけのリアリティをいかに相手に伝えるかという思考を前提にしている。
2.比喩を使わない文章というのは、基本的には「自分だけのリアリティなんてものはない」と思っているか「他人も自分と同じ感じ方をしている」という思考が根底にある。
3.比喩は、自分のリアリティが受信者と同じということを確認し、それとともに受信者の方でも、発信者と同じリアリティを感じているのだと確認させるために使用されることもある。
カリスマ的な人物が比喩をよく使うのは、自分が特別な存在だということを主張しつつ、その比喩表現を理解できる人達も特別な存在だということを暗に指示することにおいて、発信者と受信者の閉鎖的(排他的)な関係が出来上がるからである。
4.比喩を多用する人は、いずれにせよ、人間関係や現状に不満や不安を持っていると言ってもよい。
これでも、まとまっているとは言えないが、とりあえずこのような視点を持っておくと、ある文章を読んだときでも、その作者の性格や意図などが推察できて、面白い発見があったりするので、お試しのほどを。