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【ふしぎ旅】北向きじぞう
栃木県那須町につたわる話である。
寒い寒い冬の日、那須野が原を北へ北へと歩く人たちがいました
「おっとう寒いよう、腹がへったよう・・・」
寒さとひもじさでみんなとても辛そうです。
その年は富士山が爆発し、天候は不順で、関東周辺でもお米も野菜も全くとれなかったのです。多くの人々が住み慣れた土地を離れて、少しでも暮らしていけそうなところへ逃れていきました。
この家族も米どころの出羽の米沢へ行けばきっと仕事も見つかるだろうと思い、ひたすら歩いてきたのです。
夕方頃、ひとつの村にさしかかりました。
「もうし、お尋ねいたしますが、このあたりは何というところでしょうか」
呼び止められた男は答えました。
「伊王野っていうところだよ。ずいぶんとやつれているようだが、どこへ行くんだね」
「はい、わしらぁ江戸近くの百姓でしたが、不作続きでどうにもならず、故郷を出てまいりました、これからヨネザワへ行こうと思っています。ヨネザワへはどう行けばよいのでしょう」
「ヨネサワっていやぁ、あの山のすぐ陰だよ。もうすぐそこだぁ」
そう言って男が指を指したのは伊王野の村人が”ヨネサワ”と呼んでいる長源寺の前から北へ続く沢でした。
男は子連れ夫婦が訪ねた出羽の米沢と伊王野のヨネサワを間違えて教えてしまったのです。
子連れの夫婦は、男の話に元気を取り戻し、何度も礼を言いながら、教えられた道に消えていきました。そのうしろ姿を男は心配そうに見つめていました。
翌朝、降り積もった雪の中にうずくまり、子供を抱きかかえたまま、凍え死んでいた子連れの夫婦が見つけられました。
村人たちは悲しみ、その遺体を”シャカド山”に運び、塚をつくって、手厚く葬ってやりました。
いつしかこの塚は「ガキ塚」と呼ばれるようになり、村人たちは土手の上に「ガキ塚」に向けてお地蔵さまを建てました。
お地蔵さまは今でも北側にある「ガキ塚」を見つめて立っています。それが「北向きじぞう」です。
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地蔵の背面に正徳五年(1715年)の建立とある。
宝永四年(1707年)には富士山爆発があり、非常に社会的に不安定な時期であったという。
また、この頃は富士山ばかりでなく浅間山も度々噴火し被害をもたらせた。
さらには元禄期後の不景気で、人々の心は荒んでいたという。
そんな時代の話だ。
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行き倒れになったものを供養した塚などは全国的に見ても少なくない。
慈しみのものか祟りを恐れてかは知らないが集落内で正常な理由でなく死ぬものがあれば、見ず知らずのものであっても成仏してほしいと思うだろう。
特にこのように、少しでも関りがあった者がいたならなおさらである。
目指す米沢がそんな近くない(150キロくらい)ということを知っていれば、ペース配分などを考えて、凍え死ぬこともなかったであろうから。
伝説のとおりであれば米沢の名君、上杉鷹山(1751~1822)の前の時代の話であり、それでも当時は米沢は肥沃な土地と思われていたということだろうか。
あるいは関東あたりと比べればということかもしれない.
それにしても当時の米沢は、15万石、会津は28万石であるし、距離的にも会津の方が近いのだからなぜ会津若松を目指さなかったのか気になるところではある。
はたして米沢に何があったのだろうか
あるいは、ただ単に行き倒れの者に、ヨネザワ違いの話を加えただけかもしれない。
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北向き地蔵を実際に訪れると、思っている以上に大きいし立派だ。
石垣の上に置かれ、その上には地蔵様の他にも多くの石塔がたっている。
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慰霊のものだか、それとも他信仰のものかは分からない。
”馬”という字が読める碑があるから馬頭観音などの庚申塔もあるのだろうか。
もともと、この地蔵様があった場所は下城古墳という古墳であったということだから、かつてより地域の聖なる所として認識されていた所なのだろう。
伝説どおりだとすれば、地蔵様のあるところは行き倒れた者を供養した場所ではない。
供養した場所は”シャカド山”であり”釈迦堂山”である。
“釈迦堂というくらいだからかつてより仏教信仰となんらかの関係があったのであろう。
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無縁仏を埋葬しただけでなく、さらにそこを見守るように地蔵様が建てられたのあれば、きちんと供養して成仏を見届けようという意思を感じる。
そこには、祟ることなく成仏してほしいという強い感情があったのではないだろうか。
伝説の通りであれば、ある者が道を間違えて教えたことになる。
もしかしたら、それ以上にひどい扱いをした者がいたかもしれない。
だからこそ、わざわざ懇ろに供養する必要があったのではないかなどとも勘ぐってしまう。
とは言え、それから300余年が経ち、地蔵様と言い伝えは未だに残っているのだから、この出来事はそれほどまでに周囲の者に驚かれた出来事だったのであろう。
近くには街道沿いの宿場町もあり、その人々にもこの話を夜話としてしていたのかも知れない。
人々の思いは歴史と共に紡がれ、そしてお地蔵さまがその証となっているのだ.。
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