人生が永遠に続くのではないとしたら
この投稿のタイトルはいささか変ではないか。
人生が永遠に続くわけがないことなど、誰だって知っている。
もちろん、その通り。
人間には寿命というものがあり、不死の人間などいない。したがって、誰の人生も永遠に続くということはない。仮定法など使って、「永遠に続くのではないとしたら」などと書くのは始めからナンセンスなのだ。答えは決まっているのだから。
理屈としては、その通り。誰でもが、永遠の人生などないと知っている。
だが、我々の「生」の実感としては、どうだろうか?
ぼく自身の実感としては、子どもの頃はほとんど、「人生は永遠に続く」と感じていたような気がする。いや、永遠という言葉はいささか過剰に過ぎるとして、いつまで続くのかは分からないが、なんだかずっと続きそうな気がする、少なくとも終わりは見えない。
そんな感じ。
天気の良い日に海に出かけていく。左右に大きく広がる海岸に出て、横一線に引かれた海と空の分かれ目、水平線を眺める。海はあくまでも広く深く、空はどこまでも青く高い。あの水平線の彼方まで、ぼくは舟を漕ぎ出そうとしている。それがどのくらいの旅になるのか、想像もつかない。そして、自分は一人ではない。隣には、大きな船に乗った親がいて、世話をしてくれるし、近くには常に前後して兄弟姉妹がそれぞれの舟に乗って騒がしく漕いでいる。いや、それどころか海原の至る所、近く遠くに無数の船がいて、友達の顔だって見える。それぞれが水平線の彼方をめざしているのだ。
それが言わば、「人生が永遠に続くとしたら」ということだろう。
それが、いつか、ある時、永遠の彼方まで続くと見えた水平線に雲がかかり、突然のように、どうやら終わりがあると、「自分の人生も永遠に続くわけではないのだ」と、気付く。気付く、というより分かる、実感する。ということが起きる。それが何故起きるのか、何かきっかけがあるのか。
ぼくには経験がないが、歳の近い兄弟姉妹などが亡くなる経験などは、そのきっかけになるのかもしれない。初めて身近な人の死、というものを経験し、自分もいつか死ぬ、というよりいつ死ぬか分からない、と実感する、そういう場合は、かなり若い年齢でも死を意識する、「自分の人生も永遠に続くわけではないのだ」と、気付く、ということが起こるのかも知れない。
あるいは、ある意味で恵まれた日本の状況の中で、そう言えるだけで、世界には幼い頃より死に隣り合わせ、という国や地域がいくらもある。
何を言いたいのか。
つまり、(たぶん、という話ではあるが)多くの人にとって、人生は「人生が永遠に続くとしたら」の海面の上を舟で遥かな水平線の彼方をめざして漕ぎ始める、というふうに始まる。しかし、その言わば裏面には「自分の人生も永遠に続くわけではないのだ」の層があって、その層はある時に(遅かれ早かれ)、くるんと一回転して入れ替わる。入れ替わったあとは、また一回転する、ということは二度と起こらない(たぶん)。その体験は、というか、その体験をどう受け止めるか、という体験の質が、人生の後半、あいるは老年というものを大きく変えてしまうのかも知れない、ということ。
ぼくが述べてみたいのは、たぶん、そういうことだ。
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