「可愛い三無主義」という仮説
なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか、という記事をネットで読んだ。御田寺圭さんというライターが書いた記事だ。
記事は、コロナの時代に入り、急落する安倍内閣の支持率が、若者層だけは持ちこたえていることの不思議に着目している。
朝日新聞が実施した最新の世論調査(2020年5月第2回調査)によれば、支持29%・不支持52%であり、支持率が不支持率を大きく下回る結果となっている。(中略)しかし、年代別で細かく見てみると、じつに興味深いことがわかる。29歳以下の若者層の内閣支持率は高く、僅差ではあるものの依然として支持率が不支持率を上回っているのである。
この記事の通りだとすると、極めて憂慮すべき状況だと思うけれど、その若者たちが育った価値観は、結局のところ我々の世代が用意したのではないか、と言う疑念を持つ。
記事によれば、多くの若年ユーザーを抱えるタイプのSNS、例えばTikTokでは『「ゆるふわ系おじさん」としてちやほやされ、親しみをもって「イジられる」内閣総理大臣の姿が』見られる、のだという。
「安倍さんに会ってハイタッチしてくれた!」と喜ぶ動画、自作の「アベノマスクのキャラ弁」を紹介する動画、会見する安倍総理の顔をアプリを使って「かわいく」加工した動画――これらが多いもので20万件以上の「いいね!」を獲得している。寄せられるコメントも、批判的なものは極めて少なく、「親近感が湧いた」「かわいい」「応援してます」というような、肯定的なメッセージが多く目につく。
これは、一時期、菅官房長官が「令和おじさん」として若者に人気を博した、という報道があったことをも思い起こさせる。
御田寺の見立てによれば、『彼らの多くは「マイクロ共同体主義」とでもいうべき人生観を持つ。すなわち「自分と自分の仲間内だけがうまくいけばそれでよい」という最適化戦略を取っているのだ。』ということになる。
さらに、
もちろん、安倍政権や自民党が、どちらかといえば富裕層に有利で貧困層にはめっぽう厳しい政治をしていることや、将来世代(つまり自分たち)に経済政策や社会保障の失策によって生じたツケを回そうとしていることも、若者たちは承知している。しかし、だからといって若者たちが野党を支持するようなことはない。「かりに自分たちがデモなどで政治的に抗議しても、自民党はそうした政策をやめないだろうし、どうせ野党は勝てないだろう。そんなことに自分たちの時間や労力といった貴重なリソースを割くくらいなら、せめて自分や家族や仲間くらいは、この冷酷な社会を生き抜けるように、足場を固めることを優先して行動する」と考えているのだ。
もう一点重大なのは、若者たちにとって「批判」の捉え方が、一般的な理解とはまったく違うということだ。(中略)「なにかを懸命に頑張って取り組んでいる人」に対して、やたらに批判的な言動をとる人は、「足を引っ張る人」「文句ばかり言う人」「和を乱す人」――つまり、いわゆる「陰キャ」なのである。「偉い人」なのに「かわいくて」「親しみやすい」安倍総理を、しばしば口汚く攻撃する野党や知識人・文化人たちは、彼らにはみな「陰キャ」で「かわいくない」ものとして映っている。
という指摘が続く。野党や進歩的知識人の政権批判は、彼らに取っては「陰キャ」な行為と映り、嫌悪の対象になるのだ、という。
読んで、ぼくの現政権に対する認識と、御田寺が指摘する現代の若者(全部とは思わないが)のそれとが、ほとんど倒立するくらいに食違うことに驚きつつも、ある種の説得力を感じたことは事実だ。ただ、戸惑いの方が大きい。すっきりとは納得できず、何故、と言う気持ちが残る。
そこで、以下飛躍した妄言のようなものになるかもしれないが、現時点での自分の仮説を置いて、この記事を理解しようと試みた。興味をお持ちなら、続いて以下の文もお読み下さい。しかし、まったくの見当違いであった、という可能性もある。
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ぼくの世代が若かった頃、シラケ世代とか、三無主義(「無気力・無関心・無責任」)とか言われた。
『しらけ世代(しらけせだい)は、1960年代に活性化した日本の学生運動が鎮火したのちの、政治的に無関心な世代。1980年代には、世相などに関心が薄く、何においても熱くなりきれずに興が冷めた傍観者のように振る舞う世代を指した。また、真面目な行いをすることが格好悪いと反発する思春期の若者にも適用された。』(Wikipediaより)
極論を言うようだが、このシラケ世代が産んだ「政治に無関心な」政治家の代表が安倍晋三なのではあるまいか?
安倍さんは「みんなのため」の政治には興味がない。自分と、自分の世界だけのために政治をしている人、のようにぼくには見える。
政治、と言う言葉について、同じくWikipediaから引用すれば、
広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。」としているわけであるが、政治は、社会や社会に生きるひとりひとりの人にとって そもそも何が重要なことなのか、社会がどのような状態であることが良い状態なのか、ということも扱い、様々ある人々の意志からどれを選び集団の意志とするか、どのような方法でそれを選ぶか、といったこととも深く関係している。
古典である『政治学』を著した古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、政治を研究する政治学を《善い社会》の実現を試みるためのマスターサイエンスであると位置づけている。(中略)政治哲学者のハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、政治を 自己とは異なる他者に対して言語を使って働きかけ、結合する行為であると捉えている。つまり政治とは人々が善い社会で生活することを達成するために、社会に対して働きかけることであり、また何が善いことかという判断に関する議論を伴うものであると言うことができる。
また極論を言うことになるが、安倍さんはもともと上記のような意味での「政治」に関心や志を持ったことはなかったに違いない、と推察する。シラケ世代のエートスをそのまま保持して壮年に至り、一旦サラリーマンになるが、ある時政治家の家系に生まれたことが権力の私的利用に好適であることに目覚め、以降「政治家」の着ぐるみをかぶって政治的活動を始めた人物、と理解することが出来るだろうと思う。
更に言えば、若者の世代が反応しているのは、安倍晋三自身と言うより、彼が身にまとうシラケ世代の、三無主義的エートスの方なのではないか。そこに世代を超えて共感している可能性がある、と思う。若者から見て、大人になっても三無主義の安倍晋三は自分たちの似姿にも見え、「可愛く」見えるのかもしれない。
つまり、現代の若者の内の相当数は、ぼくらの時代の三無主義のバージョンアップ版とも言うべき「可愛い三無主義」を生きている。「可愛いシラケ」世代なのではないだろうか。
そして若者が、そのような「可愛い」+「三無主義」(「シラケ」)を生きざるを得ない現実が、確かにあるのだとしたら。
それこそ、我々の社会と政治は、そのことをきちんと分析し、受け止める必要があるのではないか。若者のこと、と言うより我々自身のこととして。
さて。可愛い三無主義とは一体何なのだろうか。
それは、ある種のニヒリズムなのかも知れない。初めから大きな夢や希望を持つことは諦めている。ただ、投げやりと言うのでもない。コツコツと真面目に学び、ブラック企業であったとしても身を粉にして働くほどのある種の切実さの中を、多くの若者は現に生きているように思える。その点は、ぼくらの時代のシラケとはやや異なるのかも知れない。その代わりに、かどうか、夢や理想を高いところから語るような言説や、人々へ向ける眼差しは冷めている。嫌悪感を隠している。声高な左翼的な理想を語る言葉は恐らく偽善としてしか耳に入って来ないだろう。
それは多分若者の保守化の一断面であって、何らかの意味で、未来に背を向け、懸命に今の自分と自分の仲間たちだけを守り抜こうとする態度なのではないか?
恐らくは、そのくらい現代の日本は若者に辛く当たっている、とも言いうる。
その中で彼らを慰める価値観、日々の拠り所が「可愛い」と言う価値、になるのではないか。様々な辛さ、悲しみ、怒りを辛うじて救い、慰めるものとしての「可愛さ」という価値。
日本の若者が見つけ育てたこの価値観を、日本人は一体どう受け止め育てて行けば良いのだろうか?
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