信任のプロセスについて ⏤選挙によせて⏤
ぼくは、今こそ政権交代が必要だと考えている。
衆院選が現実の日程に乗った今、野党は協調し合って戦ってこそ勝機があるだろう。互いに理念の違い、政策の違い、政治に対するスタンスの違いはある。ある意味で避けられない。その違いをどうしたら乗り越えられるのだろうか。
東京8区の一件が気になっていた。山本太郎氏の同区からの出馬表明に続く混乱とその撤回について、だ。ご存知ない方は、ネットで検索してみて欲しい、今なら混乱のままに様々な意見の飛び交いを観ることが出来るはずだ。
政治に何を求めるのか。どう振る舞うのか。勝ち・負けが全てなのか。
政治は、公的な権力に直結しているだけに、政治を担う人物・政党について、選挙等で市民の信任のプロセスを経て選出することを避けては通れない。そして、そのプロセスは多数決の原理が担う、ということになっている。
ところが、単純なようでいて、そう簡単ではない。
例えば、結果を出すことだけが目的と化すと、排除の論理、とでも呼べるものがこの信任のプロセスを脅かすことになるのではないか。
そう。ぼくはこの十年間の安倍・菅政権のことを言っているのだ。
彼らの政治の最大の特徴とはなんだろうか。
「あんな人たち」を排除すること、だろうと言うのがぼくの答えである。
安倍晋三がマイクを握り街頭演説で言った、反安倍と目される群衆に対しての『あんな人たちに負けるわけにはいかないんです!』という叫び。
それはすぐさま、安倍政治を象徴する言葉として広まった。
仮に、これが選挙等において、対立する政治家・政党等の間で交わされた言葉であれば、決して上品とは言えないまでもあり得ることだと思う。政策や政治のスタイルそのものが対立する同士が互いを激しく論難・非難しても、それは少なくとも有権者に選択肢をはっきりと示す意味合いはあるだろう。有権者は、その激しい論戦、駆け引きを見て、自らの思いの一部なりとも託し得る相手を選択することを可能にする。その対立は、公的な権力を行使することを含む政治という営みを、有権者に代わって担うようにと信任する、そのプロセスに取って必要なものだろうからだ。
ところが、安倍晋三が罵倒した相手は、対立する政治家・政党などではなかった。彼は、自らが選択肢を提供しなくてはならないはずの主権者である市民に対し、その汚い言葉を投げつけた。市民を罵倒したのだった。
例を上げれば限りがないほどだが、彼らはしばしば国会質疑を蔑ろにし、野党からの様々な質問に正面から答えようとせず、『お答えを差し控える』と繰り返した。モリ・カケ・サクラの疑惑でも、ご飯論法とも称されたあえてズラす答弁を繰り返した。役人は総理、政府への忖度を繰り返し、あるいは、忖度する役人が重用され、ついには公文書偽造まで繰り返す事態に至った。2014年に設置された内閣人事局が、官僚の人事権を握ったことが背景にあった。一方、野党からの質問主意書には珍妙な閣議決定の数々で答えた(〈安倍内閣総理大臣は、ポツダム宣言については、当然、読んでいる〉などの馬鹿げたものが多数含まれる)。更に国会で決められないことを閣議決定で既成事実化するかのような姿勢をみせた(集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った、等)。さらに、国会では数々の強行採決を行った。
安倍内閣の強行採決
2013年(第2次安倍内閣)
特定秘密保護法案
2015年(第3次安倍内閣)
安全保障関連法案
2016年(第3次安倍第2次改造内閣)
TPP承認案、関連法案
2017年(第3次安倍第2次改造内閣)
介護保険関連法改正案
テロ等準備罪(共謀罪)法案
2018年(第4次安倍内閣)
働き方改革関連法案
参議院定数6増法案
統合型リゾート実施法案(カジノ法案)
水道法改正案
出入国管理法改正案
そして、憲法改正の問題がある。
ぼくは、現行憲法に何も問題はない、とか、一言一句変えてはならない、などの極端な立場はとらない。しかし、自民党の改正案は、決して改正案とは呼べないと思っている。立憲主義という理念がある。一言で言うと、「単に憲法に基づいて統治がなされるべきであるというのみならず、政治権力が憲法によって実質的に制限されなけれなばならないという政治理念」だとされる。ところが、多数の論者が指摘するように、安倍自民党の憲法改正のベクトルはこの理念の逆を行くものだった。
明らかに、私権の制限と、政治的独裁に向かうベクトルを持った改正案だったのだ。国民を縛り、為政者自らにはフリーハンドを与えよう、と言うような。
もう一度、選挙に話を戻せば、主権者である市民、国民が、民意を託す政治家・政党を信任するプロセスを、選挙と呼ぶなら、安倍政権が行ったのはその信任のプロセスへの愚弄とも呼ぶべきものだった。『あんな人たち』を切り捨て、排除することを省みない。それで選挙の投票率が落ちても構わない。自らのオトモダチは優遇し、そうでないものは都合の良いようにあしらう政治。すると、安倍政権とオトモダチ関係を築いた岩盤層とでも言うべき層が政財界を中心にせり上がってくることになった。投票率が下がれば下がるほど、むしろその岩盤層のおかげで安倍政権は盤石になったのだ。
一体誰のための政治か。
そこに決定的に欠けているのは、いわばノーサイドの思想だ。どんなに激しく戦っても、試合が終わって勝負がついたらサイドにこだわることをやめて、本来の目的である国政に、国民全ての幸福のために尽くすことーーそれが政治家の務めだろうーーが、見事なくらい欠落している。
北欧では、90%もの投票率の国がある、という。日本はどうか。
明るい選挙推進協会HPを観ると、1993年の衆院選挙の時まで、なんとか70%前後の投票率を維持してきたが、1996年の選挙で、いわば底が抜ける。一気に59.65%と60%を割り込んでしまうのだ。そこから2003年の選挙までは、60%前後で推移することになる。
それが、2005年と2009年の選挙では、なんとか70%近くまで持ち直す。その2009年の選挙では民主党が政権を取る。ところが、2012年に自民党が政権に復帰した選挙ではまた59.32%まで一気に落ちる。そして、2014と2017年の安倍政権絶頂期にはいずれも52〜53%台の超低投票率が定着してしまう。
ざっと言えば、25年間の間に、多少の揺れ戻しがあったにしても、15%〜20%程度も投票率が落ちたことになる。それだけでも大きな問題だが、更にそこには見逃せない論点があるように思える。
2012年の投票率の落ち込みは、明らかに民主党政権への失望感が反映されていると推測して間違いないだろう。前回政権奪取した時の選挙に比べて、一気に10%弱投票率が落ちているのだ。ただし、別の見方もある。実は、先に述べたように、1996年から2003年までの間、既に日本は投票率60%前後を体験している。その後、政権交代への盛り上がりがあり、投票率はつかの間70%近くまで盛り返す。そして民主党政権が誕生するが、わずかな期間で期待は失望に代わり、一気にまたもや投票率が落ちるのだが、言ってみれば政権交代への期待が盛り上がる前の水準、60%前後、に戻っただけ、のようにも思える。期待した分が吹き飛んで、もともとの自民党時代の60%近くに落ち着いた、とも見えるわけだ。
ただ、そこで投票率の下落は止まらなかった。
安倍政権になって、二度の総選挙で更に投票率は10%弱落ちるのだ。
何故か。
それこそが、先に述べた安倍政権の信任のプロセスの破壊、の現れだろう。
というのが、ぼくの考えだ。
安倍晋三は、確かに政敵に対しても(総理大臣の職にありながら)汚い野次を何度も飛ばして、指摘されても止めることができなかった。だが、それ以上に実は、(自分の意に沿わぬと考える)有権者を、国民を、何度も罵倒してきた政治家なのだ。それも、口頭で、というより、はっきりと政治的行動として「罵倒」した。
かつてないタイプの為政者と言える。
その結果、一部の有権者は、当然のことながら深刻な政治不信を抱くに至った。
それが、安倍政権になって、自らの未熟さによって撃沈した民主党政権の終焉時の選挙より、更に一段と投票率が下がった理由に違いない、というのがぼくの見立てだ。
安倍晋三は、トランプ大統領と同じように、国民を分断し、優遇する者と切り捨てる者に分けてしまった。その帰結として、貧富の差が広がるのも当然だった。
もし仮に、北欧の国のように、投票率が90%あったら……、いや、そんな贅沢は言うまい、仮にあと10%上がれば、明らかに野党と自民党は伯仲することになるだろう。それ以上、投票率が上がることがあれば、今の自民党が政権を取ることはないだろう。
繰り返すが、そこには有権者の深い政治不信がある。
つまり、政治不信こそが自民党を支えていると言う逆説がある。投票率が低ければ低いほど、言い換えれば人びとが政治に希望を失う状況が有ればあるほど、政治不信を感じない、現状に困っていない人たち(=自民党支持の岩盤層、更に言えば、自民党利権に群がる人たち)の声が、民意としてより投票行動に反映される、と言うことになる。だが、そんな政治が本当に、永続するものだろうか?
そもそも安倍・菅政権の10年間で、彼らの政治のために、日本の国力は既に隠しようもないほどに低下してしまったのだ。アベノミクスなど虚妄でしかなかったと今や明らかだが、反省も振り返りもなく、もしろ隠蔽や記録の改竄があった。批判に耳を傾けることなく(子どもじみた反発だけはいつもあった)、都合の良い意見を聞いて、独断に走ることも多かった(アベノマスク)、学問を軽視ないし蔑視して、政治に生かすことも少なかった。そう。子どもや若者を大事にしない国になった(子どもの貧困が深刻化して何年になるだろう)。教育現場は疲弊し、研究の現場も荒れてしまった。労働者も切り売りされ、大事にされない国になった。頼みの科学立国も立ち枯れてしまった。ただ、株価を上げることにこだわり、旧態然とした大企業の優遇措置が続くことで、その企業の内部留保のみ積み上がり、事業の刷新力、競争力を失った。日本はすっかり、政治的にも経済的にも取り残された。古い国になった。誇りを失い、他国を、特に近隣諸国を非難する国になった。そう。貧しい国になった。
安倍晋三個人の個性が反映されていた、と言うことなのだろう。リベラルな価値には反発し、ルサンチマンによる政治を行った。それは、喜劇であり、悲劇であった。
この10年が、そうした悪循環の歳月だった、とぼくは感じている。
もう、十分だ。この悪循環を止める時が来ている。というか、止めねばならない。
政治不信はぼくにもある。深い不信と危機感として。
そして、何より悲しみとして。
だからこそ、投票しない、ではなく、する、ことが今、大事なのだと思う。