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私って実は宝物だった
すごい、最近21年生きててやっと気づけたかもしれない。
自分が生きてることって、それってすごく感動的なことだ。
自分ってとってもらぶりーだ。
時に残酷なことに心を病んだり、ふつふつと湧く怒りを抑えられなかったり、良いことばかりではないけど、でもそれは自分が生きてきた中で築き上げた私だけの軸があるから起こる感情だ。
それに対して自分なんてと責めるより、そんな自分もらぶりーな存在だよねって思いたい。
なんでそう思いたいのか?だって自分が何より財産であり資源であり、幸せの象徴だから。
人間って結局優しいように見えて利己的だから、だったら思う存分利己的な思考を利用して、考え方から幸せになってやろう。
幸せな考え方が出来れば、行動言動にもそれが現れるはずだし、回り回った幸せがまた自分の手元に来るかもしれない。今はそんな考え方が出来ている。
私もそうだが、なぜ人間は「私なんて」と下げてしまうのだろう。
そう思う時って、すごく毎日がつまんなかったり何か過去の失敗や過ちを引きずっていたり、トラウマがフラッシュバックして行動出来ずに後悔したり…が私には多い。というか多すぎる。
ただ不幸自慢をしたい訳ではなくて、私はそれを理由に別ベクトルへとどんどん掘り下げて、最終的に行き着いてしまうのが「私なんて」の思考なのである。あまりにもマイナスがすぎる。
もう「不」でしかない。不‼️不‼️不‼️
どうなるかなんてその日その時その瞬間でしかないのに、どうも人間は生きづらく出来ている。
自分という人間を自分で辞めるのは世間一般的に止められてしまうのだから、人間として生まれた以上突っ走るしかないのだ。
人間は自分の意思で生まれては来ないが、私は自分を大切にしてくれる周りの人の気持ちのおかげで自分は成り立っているし、これからも突っ走らなきゃと思える。
まぁ、突っ走れなくなったら、それはその時。
マイナスな未来を自分で考えて、自分を不幸にしてしまうのはあまりにも勿体ない。どうせ生きるなら楽しく幸せでありたいのはどんな人でも共通なはず。
自分が生きてることってそもそも普通だったり当たり前では無いから、そんな中で毎日をより良く過ごそうと頑張る自分がらぶりーで宝物なんだよね。
宝物って物が付いてるけど実は物じゃなくてもいい。誰かの存在だったり人の想いだったり、自分自身だったり。そういうのでいい。仮に物だとしても、それを持っている自分は大切にできたりするよね。何ならゲームのセーブデータでも良い。なぜならそのデータを残すまでに努力したのは自分で、自分でしか成し遂げてないことだからだ。宝物になっていく過程の中で自分は必ずどこかで関与しているはずだから、宝物は案外すぐ側にある。私の場合は宝物が自分だってつい最近気づけたし、昔から私を取り巻く大事な人たちは宝物だ。
実は日常には自分が宝物であるヒントが結構眠っている。
自分の誕生日にケーキを食べること。もしくは食べたいって思うこと。自分が辛い時そばに居てくれる人。自分の事のように怒ってくれる人。頑張った時になにか自分へご褒美したくなること。上手くいくまで何かに没頭して頑張れること。それって、自分が大事じゃないとそもそも起こらない物事だと気づいたのは、割とつい最近だったりする。自分って結局自分のこと大好きじゃん!って納得してからは、あまり病まなくなった。
…ちなみに、誕生日以外だってケーキを食べてもいいのだ。だって、美味しいのだもの。
時に他力本願でいい、時に年齢にそぐわない泣き方をしてもいい。辛いもう嫌だ私なんてと思った次の日、それでもやっぱり自分が大切であることに変わりなければいいのだ。
美味しい朝ごはん食べたら元気が湧いてきちゃったりするじゃないか。
自分の幸せが沢山あればあるほど頑張れるんだから、自分の大好きな食べ物を朝ごはんでもりもり食べちゃうとか、そういう気合いの入れ方をしてもいい。私はウィンナー10本食べたいもんね。
周りの人が幸せそうでいいなと思うなら、自分も幸せぶっていい。いつかほんとに周りも気にならないくらいの幸せが訪れるかもしれないから。
他人のトゲトゲで心を痛めたって、「らぶりーな私になんてことをするのだ!家帰ったら傷癒すために甘いもの食べよう」と心の中で唱えよう。板チョコ10枚とかドカ食いしよう。
それで仮に太っても、傷を癒して元気でらぶりーな私の身体だと思おう。元気になった時また軽く運動すればいいのだから。
日常で起こるほとんどのことを、自分で変換する術を身につけた私は最強で天才でらぶりーな存在なんだよーーー!