通信網企画室
後期学園訓練が終わる頃、人事部の課長が「研究所のモウキって何をやってるところ?」と訊いてきた。「年寄りばかり、何をやってるかは知りません」と答えた。数日後、異動命令が出た。こっそり教えてくれていたのだ。
研究に戻れると思っていたのに、またしても企画だ。交換、光ファイバ、端末など、各分野のベテラン十数名の部署で、全員管理職である。私も管理職になったのに部屋の最年少である。当時のキーワードは、ATM、IN、FTTH(ファイバツーザホーム)だった。どれも普及を見ていない。逆に、当時は重視されていなかったインターネトや移動体が、その後、急速に発展した。未来予想は難しい。
主業務は、再び議事録である。副社長主催の会議は日比谷本社で月一回、二時間足らずなのだが、先輩と二人でメモを必死でとった。各事業部が研究所に要望や文句を言う会議だ。略語で早口、資料は無いことが多い。文脈を補足しつつ要約するのは大変だった。A4数枚にして上司に渡すと、真っ赤なって戻ってくる。強烈な不満は和らげられ、「調査」「検討」「方向」などにすると会議の雰囲気はぼけてしまう。本社の空気は伝わらない。修正を繰り返し、最終的にはA4半分に。
本社側の不満を要約すると「研究所は現場を見ていない」だと感じた。たとえば交換機では、研究所は大容量化と小型化を進めていたが、現場は保守の容易化を欲していた。大容量化も保守容易化につながるのだが、どこから取り換え、電話網をどう設計し直していけばよいのか。そも地方では大容量の交換機を必要としていない。電話局が余ってしまう。
技術の変革を事業の変革に取り込んでいく過程を、誰がどう進めるか、という大きな課題なのだが、不満は大小区々である。議事録が大幅にカットされたのは、「そこは研究所の役割じゃない」という判断だったのだろう。研究所では「ノーベル賞を目指せ」と言う人がまだ居た。
網企は「なんでも相談室」でもあった。学芸大の社会学部から講演依頼があり、私が行くことになった。最新の通信事情を九十分。デジタル化と光ファイバについて一時間解説し、残り三十分を質疑にした。質問はセキュリティだった。いまならインターネットのセキュリティや個人情報漏洩は文系の人にも馴染がある。しかし、このときは電話のデジタル化である。盗聴するならアナログのほうが圧倒的に簡単ですよ、と説明しても不信感は拭えず、同じような質問が続いた。
「ある課題をある技術で解決する」というのは、そう簡単なことではなかった。どんな技術にも長短があり、複数の関係者がいる。電話サービスは歴史があり、コンセンサスが出来上がっていたが、新サービスでは宣伝や啓蒙を含めた総合的なプロデュースが必要なのだった。
研究公開を見て回るのも仕事だった。「これを本社に見せたら、どう反応するだろう」と考えてしまう。プレゼンは自身の技術中心で、競合がどうしているか、導入はどうするつもりか、などの視点に欠けていた。当時見学した技術で、のちに本格導入されたという話を聞かない。研究とはそういうものだ、と諦めるのは簡単だが、目利きが重要なのだと痛感した。
カナダの交換機メーカ、ノーザンテレコム社と、次期交換機の共同開発を検討することになり、カナダから大勢、武蔵野にやって来た。私も参加した。打合せを進めるうちに、根本のずれが見えてきた。「次期」の時期だ。研究所側が「十倍の容量をめざす」としたのに対して、ノーザン側は「いつをめざしているのか」ぶつかった。「次期というなら、それくらい」という論法では平行線だ。また、CPU選定についても、ノーザンはOSの仮想化を提案してきた。研究所側は性能が厳しい交換機で仮想化は無理。いやいやCPUは急速に高速化しているから、仮想化のオーバーヘッドは早晩無視できる、と平行線だった。私はNTTの交換機でOS部分のオーバーヘッドを見積もった。当時は判断に苦しんだが、いまOSの仮想化は常識だ。
のちに私は、カナダに半年赴任することになる。そのときにはもう研究所籍ではなかった。研究所は、このあとも共同研究を細々続けていたようだ。だが、次期開発には至らなかった。日本メーカの反対も水面下であったろう。
カナダの航空博物館に行くと、ジェット機の開発を米国の圧力で断念した「無念の歴史」コーナーがあった。交換機のコーナーも出来ているかもしれない。いまは買収され、この会社はもうない。
網企で悶々と過ごしていたある日、電話がかかってきた。「ベル研のバーンスタインという人が、ドヤマに会いたいと言ってるんだが、心当たりある?」学会で座長を務めている部長からだった。オランダの学会で「うちに来ないか」と誘ってくれたベル研の所長だ。オランダの一年後、手紙がきた。NYの博物館や美術館の日本語版パンフレットに「これで奥さんを説得できる」というメモが同封されていた。私が「妻に相談」と言ったのを覚えてくれていた。しかし、妻は東芝を辞めるつもりはなかったし、私は統括チュータだった。
覚えていてくれたのは嬉しかった。新宿のホテルまで会いに行くとランチをごちそうしてくれた。「今何をやってる?」に「プランニング」と答えたが、実際には何もやれていない。そして、妻と赤ん坊を残して渡米する勇気がないことにも情けなかった。
それからである。山口百恵の「いい日旅立ち」を「世界のどこかに私を待っている人がいる」と歌うようになった。研究所に私を待っている仕事がないと感じ始めていた。
網企は所長直属である。所長から頻繁にオーダが来た。その一つに「FTTH早期実現アイデアコンテスト~各家庭までファイバを~」があった。意外かもしれないが、みな冷やかだった。
こんなことがあった。光ファイバの有効性を実証するため、横須賀の研究所と武蔵野をファイバでつないでデモしよう、と提案した。ところが、ファイバを一本敷設するにも、公道を横切るのは大変で、費用も工期もかかると却下された。敷設がそんなに大変なら、FTTHの普及は難しいじゃないか。そのうえ、光の送受信機は当時、千万円オーダだった。
それでも所長はアイデアコンテストをやると言う。応募が少ない。それならと、私はあえて大胆な案を出した。トイレからファイバを流し、下水処理場で受け取る。これなら道路工事は要らない。細くて腐蝕しないファイバの特性を活かしている。審査で所長は「おもしろい」と言って部長らを見回したが、返事はなかった。このすぐあと、所長は大学に天下ることが発表になった。アイデア募集を強行した理由はこれだったのか。
私は希望していた開発部門へ異動が決まり、私の送別会は所長の送別会と兼ねることになった。所長の御車を送るとき「君も元気で」と見送られた。
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