NTTを退職する
大学卒業後、娘はロンドンで就職することを想定し、1Kを購入した。駅から四分、八階建ての大規模マンションはイギリスでは珍しい。管理人の二十四時間常駐が気に入った。建ったのは世界恐慌の年、築年数は母と同じだから覚えやすい。各部屋に付いているスピーカは、空襲を知らせるためのものだった。全館スチーム暖房、窓は二重ガラスに交換されていた。娘の卒業前に私がNTTを卒業、退職金を娘の英国口座に送金した。これで養育義務完了だ。
五十三までソフトウェア開発のあらゆる面を経験してきた。組合も、シリコンバレー支店も経験させてもらった。しかし、部下を無茶な開発に送り出す管理職は、もう夢中になれる仕事ではなくなっていた。「泪」と銘を付ける私の最期のソフトウェアはどれだろう。
利休は、様々な茶道具をプロデュースしたが、茶杓は自分で作った。それまでは象牙や金属が用いられたが、利休は竹を自ら削って茶杓を作った。最期に私が書いたプログラムは・・・
そんなことを考えながら茶席に入ったのがいけなかった。京都の寺の古材を使った由緒ある茶室に招かれたのに、掛け軸の拝見を忘れていたことに、座ってから気づいた。掛け軸は茶席のテーマを表している。だから、本来は茶室に入ったら真っ先に拝見するのだが、もう次の客が拝見していた。袴をつけ、すっかり茶人を気取って来たのに、なんという初歩的なミス。「まだまだ茶席の本質を理解してませんね」叱る先生の顔が浮かぶ。
先生の指導が一段と厳しくなった。最初の頃は、扇子で手を叩かれた。「茶碗が先」「持ち方が違う」「角度!」などを扇子でピシッ。ところが、扇子は出番がなくなり、先生が首を傾げるようになった。「美しくない・・・」どこが悪かったでしょうか?「気持ちが伝わってこない」そ、そう言われても、どこをどう直せばいいのか。
箸の扱いが「醜い」は毎回指摘された。中学のとき指に怪我をして、持ち方を変えた癖が残っている。「言い訳しない!本気でやる気あるんですか」
教室の新年会では、生徒が持ち回りで準備する。そこで、張り切って「アハ体験」の茶道版を作った。「このビデオの点前には間違いがありま~す」茶道の上級者ほど、茶碗はここ、蓋置はここ、それが当然だと思い込んでいるから、かえって見つからない。ゲームは盛り上がったが、先生をイラつかせたようだった。「あなたの心はまだ会社にある、そんな人に教える茶はありません」
切腹を言い渡された感じ。この歳になって箸の持ち方から直すのか。そこまでやらねばならぬのか、と思ってしまう。お茶はたかが趣味ではないか。でも、趣味だから、気に入らない生徒は教えない自由が先生にはある。
「退職前に趣味を始めておきなさい」会社の研修でそう勧められ、五十歳から何か始めることを宣言させられたのだが、その意味がようやく分かった。
さて、どうしよう。そうだ、退職したら自分史を書こうと大学時代に決めていた。パソコンに向かってみる。「私は」と入力して、そのあとが出てこない。これまで企画書や報告書を散々書いてきたのに、手が動かない。数カ月悪戦苦闘して気づいた。会社で書いていた文章の主語は、陽にではなくても「我社」や「当事業部」だったのだ。頭の中がすっかり会社人間になっていた。そんな私に妻のアドバイスは「ハローワークに行ってみたら」だった。
東芝を辞めてキャリアカウンセラーになった妻は、修行のためハローワークの相談窓口もやったことがあった。「失業保険をもらってみなさい」そんなこと考えてもみなかった。だいたい俺は失業じゃない、卒業だ、引退なんだ。ところが、金額を聞くと、結構いいではないか。こんなにもらっていいのか?「長年保険料を払ってきたのだから正当な権利。でも甘くはないからね」ちゃんと就職活動をやらないともらえない。
リーマンショック後、失業率は上昇し、ハローワークは朝からごった返していた。私よりずっと若い人も多く、みな真剣な顔である。「オッソイよ」と相談員に喰ってかかる人もいる。(相談員も非正規だとは知らないのだろう)これが日本の実態か。隠居の茶人などと気取っていないで、世の中の風に当たってきなさい。妻はそう言いたかったのだ。
まずは履歴書や職務経歴書を書く講習会から。池袋は予約が一杯で、すぐには受講できない。青梅のハローワークなら空きがあるという。青梅には東芝の工場があった。妻はよく打ち合わせに出張していた。講習会のついでに工場を見て来よう。
東京都の他のエリアのハローワークにも足を運んでみた。もちろん、講習会だけでは失業保険はもらえない。
【ソフトハウス】私は最期のプログラムを書きたかった。Webの開発なら仕事はあると思ったが、雇うほうはNTT向けの営業を期待する。そういえば研究所にもOBが営業に来ていた。後輩に愛想笑いしなければならない仕事は嫌だ。間違って採用されたらどうしよう、などと考えて面接した。(不採用となってホッとした)
【通信機器メーカ】もやはり営業を欲していた。海外の大手だったが、NTT向けに納めているのは意外にチマチマした製品だった。主要部分は日本メーカが抑えているのだ。そんなニッチな製品の営業なんて。(まったく生意気である)「全国の電話線がもう取替時期です。そこを狙いましょう。それなら一肌脱ぎますよ」と大きく出た。これは本心。銅の電話線は寿命に来ている。しかし、いきなりすべて光ファイバに替えるわけにもいかない。国家的課題だ。もちろん不採用になった。
【工業高校の校長】に応募した。これは本当にやりたいと思った。電電公社には工業高校の卒業生が大勢いた。交換プログラムの改良でも、彼らが実質の主役だった。それにロボコンも面白そうだ。ところが、六人の面接官は「就職率の目標は?」「教師の評定は?」「どうやってやる気を」高校生のつぶらな瞳と向き合えると思ったら、古い技術にしがみつく教師たちと向き合う役目らしい。大嫌いだった人事の仕事ではないか。
【製造工場】経営工学科卒だが、ソフトウェア開発しか経験がない。ハードウェアの製造現場に興味があった。工場内の監視や制御は交換機に似ている。昔の交換機は局舎のワンフロアを埋め尽くす大きさだ。栃木工場のIT部門、そんな経験が役立つかもしれない。ところが、いくら待っても面接の連絡が来ない。景気の急速な後退のせいか。大卒の一括採用と違い、再就職・中途採用では二股はできない。