恐怖の報酬
映画「恐怖の報酬」は、油田火災を消すために大量のニトログリセリンを運ぶトラック運転手の話だ。成功報酬に目がくらんで危険な仕事を引き受ける。
二〇一二年、電子カルテの開発運用を引き受けたのは、お金に目がくらんだわけではない。娘は独り立ちしたし、年金はある。ローンはない。ニトロのように危険な電子カルテの運転にゾクゾクしたからだ。その一例が、あのデータベースのバックアップミスだ。
さて、システムエンジニアを目指すみなさん、再発防止策をどうします?
【案1】マニュアルでバックアップするのはやめて自動化する。(当然ですね)でも、データベース操作はバックアップだけではない。
【案2】間違ったデータベース操作を取り消しできるようにする。データベースに機能はあるが、内部で常時バックアップすることになる。リソースを食うし、性能も落ちる。そして、正しい操作を取り消してしまう、というミスは起こりうる。
【案3】データベース操作は二人で行う。
これからやることを声に出し、もう一人がチェックする。パイロットの正副と同じだ。ヘッドホンの彼が手がすくんだから、ではない。(それもあるが)
電話局での現場実習を思い出した。電子交換機の入力は、必ず二人で行う規則だった。コマンドを清書し、一人が読み上げ、もう一人がタイプ、確認して「よし」エンターする。三十二年前の記憶が蘇った。
当時は、なんと非効率と思った。やらせてくれとお願いしても「見てろ」だった。交換機の日々の保守作業で多いのが料金未納による一時停止、ミスは新聞沙汰になる。そのことを認識していない新人には、やらせられない。当時の係長さんの気持ち、今は分かる。
人間系での防止策はすぐ始めることができる。しかし、徹底し、継続するには、恐怖を正しく認識していることが必須である。
茶道教室で「それは殿拝領の茶碗ですよ」と言われた。「割ったら切腹」そんな恐い茶碗、使いたくない。それではダメ。恐いから練習し、冷静に行動できるようにする。
クリニックの主要スタッフが参集する月間ミーティングに、私も参加することになった。毎回「電子カルテ、なんとかして」問題提起が全員から挙がる。中には「以前のに戻せ」と言う人もいた。だが、契約更新はやめて開発に回してしまった。もう背水だ。
ユーザインタフェースの改良は、恐いけれど反応がすぐある。修正すればいい。技術者として悩ましいのは、利用者には見えない「血圧」のような内幕の改良だ。直接の要請はないが、将来のために。だが、それは本当に正しい改造なのか、今やるべきなのか、データベースまで変更してしまうと、もう後戻りは難しい。(でも、逃げてちゃダメだ)
処方には二種類のデータベースがあった。そのため処方に関するプログラムも、それぞれに対応して二種類存在していた。処方プログラムは複雑で、片方に深刻なバグも見つかった。今後の維持管理を考えると、なんとしても一本化しておきたい。
なぜ二本になったか、推測できた。処方はカルテにひもづいている。診察して処方するのが原則だからだ。ところが、安定した患者の処方はそう変わらない。在宅医療では、未来の処方を用意する。カルテは無い。カルテとひもづかない処方データを別に作った。
それなら「処方用のカルテ」を新設してしまおう。そうすれば、処方プログラムはカルテ有りのもの一本にできる。
電子カルテは止められない。深夜も患者家族から電話があり、当直医がカルテを見る。電話が少ないのは夜明け前、データベース変更コマンドを二人で打つ。未来処方を使い始めるのは朝八時以降だから、それまでに既存データを移し、プログラムを差し替えてしまう。
「処方用カルテ」を導入しておいたことで、そのあと挙がった要望に簡単に応えることができた。在宅医療では、一人の患者を複数の医師が支える。内科、整形外科、皮膚科、精神科などだ。それぞれの医師が未来処方を用意したい。カルテには医師を記録できる。処方用カルテにどの医師の未来処方か記録できる。処方編集プログラムの変更も最小限で済んだ。
最初の一手は成功だった、と運転手はニンマリする。油田まで一年かかるとしよう。何を積んで出発するか、ニトロか、処方用カルテか。油田がいつ炎上するかも分からない中、運転する。
ORCAとの同期問題は、改良案を思いつくまでに一年以上かかった。
診察の結果をカルテに書き、それを基に診療報酬を計算する。診療報酬はORCAで計算するのだが、医師がカルテとORCA両方を操作するのは大変だ。ORCAはCOBOLで書かれ、ユーザインタフェースも古いスタイル、Webではない。だが、医師の中には診療報酬にも明るく、カルテ画面から診療報酬も入力したい人もいる。事務スタッフがORCAに入力した診療報酬を点検したい先生もいる。そこで、カルテとORCAは相互に同期をとる仕組みに(一応)なっていた。
診療報酬の計算は一日単位である。ORCAは、患者IDと診療年月日しか持たない。一方、在宅医療では一人の患者に一日で複数カルテができる。定期的な診療だけでなく、電話で相談が来て緊急に往診したりするからだ。
外来では、一人の患者が一日に二回診療を受けることはない。(一回分しか請求できない)入院も一日単位。検温や回診が何回あっても報酬は一日単位だ。しかし、在宅医療では、電話相談も往診も別々に請求できる。(それだけ手厚い二十四時間対応を厚労省が要求している)
さて、ORCA側で入力した診療報酬を、どのカルテと同期するか。患者IDと日付だけでは、同期するカルテが決まらないケースがある。そこで、なんとマニュアルで同期した。毎晩私が一日に複数カルテある患者について、内容を見て同期するカルテを選択した。多い日には百件。
なにかいい案はないだろうか、毎晩ぼんやり考えながら同期作業をしていた。恐ろしいことに、こんな非効率な作業に人はすぐ慣れてしまう。慣れてしまうと改善案はもう出てこない。
ある日、一人の事務スタッフから電話がきた。一言「もう同期しないでくださいガチャン」衝撃は、同期作業が役に立っていなかったことだ。勝手に身を削り、勝手に感謝されるものと思ってやっていた。そんなことしてるより、ちゃんと抜本的に解決すべきだったのだ。
電話を切って忘年会にかけつける間に、いい案を思いついた。それを同僚に熱く語り、週末、コーディングしてしまった。
油田がどこかも分からないのに、ニトロを積んで運転する日々だった。
月曜は朝から看護師たちがそわそわしている。あの医師がくる(勤務の)日だからだ。「このカルテ、使いにくいんだよ」クリニックの隅で開発している私のところまで聞こえてくる。ジョーカーを引いた看護師が困っている。「こんなヘボ、誰が作ってんの」看護師がこちらを見る。どうかしましたか?医師の前に歩み出る。「あんたが作ってんの。俺はさ、病院で富士通と東芝使ってきたけど、これ世界一のヘボだわ」
大手メーカとの比較、ありがとうございます。あちらは開発に百億かかってまして、と言い返えしたいが、看護師が目で訴えている、黙って頭下げててと。いつかぎゃふん(使いやすい)と言わせてやる、と誓う。看護師が時計を指さし「先生、出発の時間です」とりなしてくれた。
その看護師、クリニックに帰ってくるなり「先生にカルテ教えるの、私たちの仕事ではありませんから」ごもっとも、本日ご苦労様でした。
しかし、ただヘボと言われても、改良の糸口がつかめない。どこがどう使いにくいのか、操作しているところを見てみたい。同行させてもらえそうにないが。
ある医師が、ある操作がうまく行かないことがある、とこぼす。その操作見てこい、新人を同行させた。研修も兼ねて一日張り付けたのだが、その日、その操作は機会がなく空振り。
かろうじてヒントが得られるのは、看護師が医師に代わって車中から電話してくるとき。どの画面で何をしている最中にどうなった。具体的に聞けると、あ、ブラウザの戻るボタン押しませんでしたか?などと踏み込める。
とにかく、待っているだけでは、ぎゃふん(使いやすいシステム)には近づけない。
【案1】マニュアルを作る。何度も要望されたが、経験上コストは大きく効果がない。それでも、簡単な数ページのマニュアルを作ってみた。やはり読んでくれない。「胸ポケットに入るように」と言われ、A4半分の超簡易概要縮刷版を、毎月のバージョンアップ時に配布してみた。朝、医師や看護師のパソコンの上に置いて回る。それでも問い合わせの電話がかかってくる。「聞いてない」と叱られる。
【案2】Web画面にヘルプを仕込む。明解でコンパクトなヘルプを作るのは難しいし、やはり読んでくれない。動画のヘルプも試した。操作に何ステップか要する場合、動画が分かりやすい。しかし、カルテには患者の個人情報が満載だ。動画編集ソフトでそこをぼかす。その作業が大変だった。
【案3】どうせ電話がかかってくるなら、ヘルプデスクを強化する。私がやっていては開発できない。ヘルプ専担を育て始めた。IT技術者ではないほうが、相手に寄り添ったヘルプができる。しかし、育成に時間がかかる。結局、マニュアルやヘルプも用意しつつ、よりよい画面を試行錯誤していくしかない。
「試作画面、テストサーバで試してみてください」と医師や看護師に依頼してみても、やってくれない。本番に組み込んで試してもらうしかないと決意する。(燃える油田にニトロをちぎって投げ込む)
カルテの編集画面は、過去カルテの参照画面や検査結果の画面などと連動している。隠れたHTMLが巨大で、それを生成するプログラムも巨大だ。ちょっとしたことでフリーズしてしまう。そこで、
【案4】試作画面を、従来画面と併存させた。処方プログラムは一本化したのに、カルテは二本にした。本来は禁じ手だ。「新カルテはこちら」なんて、大手メーカでは絶対できないだろう。
見た目はボタンの形状や位置、メニューの改善だが、プログラムは全面書き直した。あるカルテを開いたとき、次のカルテと一つ前のカルテを裏側で用意するようにしたのだ。サーバの負荷は上がるので、高性能な機種にアップグレードもした。
患者のカルテを開いたとき、デフォルトは最新だが、医師はよくカルテをめくる。前回どうだったか確認している。悪化している患者は電話してくる。緊急往診もする。だから経過をチェックしているのだ。
カルテを一つ表示したら、その前後のカルテをサーバに要求しておく。めくるボタンを押したときには、もう端末に届いているので、切り替えは一瞬だ。サクサクめくることができるようになった。試作版をミーティングで見せたら、医師から「おお」と声があがった。(いける)
旧は残し、併存を半年続けた。新の改良は躊躇なくできる。フリーズしても「じゃ旧でお願いします」と逃げられる。
ミーティング以降、新の告知や研修はしなかった。試したい人だけ試してもらう。使いやすいと思えば自然に移行する。それが理想だ。ただし、誰が新を使っているか、トラッキングした。お、〇〇先生が新を使い始めたぞ。使い始めた人から問い合わせやクレームがくる。心構えできる。そして、過半数が新ユーザになった半年後、「旧はこちら」に替え、しばらくして旧を閉じた。
この新カルテ画面を基に、理学療法士向け、管理栄養士向け、訪問看護師向けとリリースしていった。通常の電子カルテは医師向けだ。理学療法士が医師と同じ電子カルテを使う、なんていうのは、この業界では革命。在宅患者のところには看護師も栄養士もやってくる。患者の状況を共有すべき人たちが、現状はそれぞれ別システムに記録している。
さて、「ぎゃふん」は意外な形で聞くことになった。
外部に販売するようになり、導入後一年経ったクリニックに挨拶に行ったときである。「堂山さん、〇〇先生ってご存知ですか?」と訊かれた。あの月曜の医師だ。よーく存じ上げております。「『俺が指導して開発した、使いやすいだろ』って自慢なさっていたんですけど、そうなんですか?」(ほおおお)声を落とし、じつはトラブルメーカーでしたと打ち明けると「やはり、そうでしたか」そのクリニックも一週間で辞めたのだそうだ。
クリニックを転々として「ヘボ」に再会、どう思ったろう。進化を感じてくれたのなら嬉しい。恐怖の月曜や月間ミーティングが、改良のモチベーションになっていたことは間違いない。それも指導なのだろう。
年賀状に「退職してマラソンを始めた、〇〇大会完走した」と書いてよこす人がいる。私の挑戦は電子カルテ開発マラソン、知識、経験、体力、勇気、それに忍耐を総動員し、いつの間にか患者十万人を支えるシステムに成長していた。
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