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2024年に見たコンテンツをまとめてみる

2024年に引き続き、インプットしたコンテンツという視点で俺の一年を総括してみる。
今回も印象に残ったものをなんとなく挙げていく形にしたいと思う。こうすることで俺の一年の中での感性というやつが浮き彫りになり、当時の心象などがわかる……気がする。


小説

・ハイペリオン

ずっと読みたかったやつ。
SFと文学のオタクが書いた叙事詩って感じ。とにかく設定と造語がかっこよすぎるので挙げた。
死ぬほど面白い。

・鏖戦

初グレッグ・ベア。
今年読んだ小説ではこれが一番好きだった。というか俺の中での殿堂入り。オールタイムベスト。
人生においてここまでかっこいい小説は読んだことがない。先述したハイペリオンとおなじく酒井昭伸さんの翻訳の技がめちゃめちゃ輝いている。
日本語を母語としていたことを感謝するレベルで最高な小説だった。
ちなみに凍月の方は読んでおりません。

・猫の地球儀

圧倒された。
だがなかなかにひどい話である。それがテーマだからしょうがないのだが、にしても「これはあんまりだよ……」という凄惨な展開に精神をやられそうになった。
テーマ自体は秋山瑞人本人が親切にもあとがきで語ってくれているように、「夢を追っかけることの業の深さ」だ。
夢を持つことは往々にして良いこととして語られがちだ。夢を持つ分には誰にも迷惑がかからない。だがそれを実行する段になると、多くの人の手を借りねばならない。文字通り猫の手も借りたくなるのだ。
また、借りるどころか誰かに迷惑をかけねばならなくなることだってある。「原爆を作りたい。そのせいで多くの人が犠牲になったとしても」……という具合に。夢を追いかける側からすれば屁でもないことでも、巻き込まれた方はたまったものではないだろう。
秋山はそうした「夢を追っかけること」の光と闇を、良し悪しではなく、単なる一つの現象として俯瞰目線で書き出してみせた。
秋山はそこに対するいかなるスタンスも示していない。ただあとがきで「興味深い」と述べるだけだ。
俺は「ひどい話である」と先述したが、ここから秋山瑞人は単なる悪趣味で残酷な物語を書いたのではなく、ひどく冷徹で現実主義的な視点でもって本作を書いたことが伺える。
こんなことを言っておきながら申し訳ないのだが、俺は彼の作品を「イリヤ」と「DB」しか読んだことがない。
だがいずれの作品も、そこで描かれる世界は残酷極まりない。つまりひどく現実的で、人の想いだとか、そういった綺麗事がまるで通じない世界になっている。
猫の地球儀で例を引くなら、「スパイラルダイブ」という戦いだけが生きがいの主人公の一人もとい一匹「ほむら」を唯一評価していた胴元のおっさんがいい証拠だ。「この人は孤独な焔の理解者になってくれるんじゃないか?」と思ったところで、焔が超強い怪物と恐れられていた「まだら」なる敵を倒してしまい、その後恐ろしさのあまり焔と口もきかなくなったことが示唆されている。
何が言いたいのかというと、普通の作品ならたとえ焔がどれほど恐ろしいことを成し遂げても、そういった理解者ポジションの人は彼の本質を理解し、寄り添おうとするはずだ。だが秋山はそうした嘘くさいフィクション的な人物造形を拒む。
イリヤの結末にしても同じことが言える。あれが、それこそ最近の新海誠の作品ならば、最後に主人公はイリヤを連れて逃げ切っていたはずだ。「世界が終わろうが知ったこっちゃない」という『天気の子』に出てきそうなお決まりの文言を口にして。
だがそうはならない。
これらはつまり「現実とはそうした人情の通じない残酷な世界だ」ということを体現しているわけだ。
ではなぜ秋山は自作のキャラクター達に対して、このようなカリカチュアライズした非情な現実を突きつけるのだろうか。
それはおそらく、彼がSF作家だからなのだろう。この冷たい眼差しは何かというと、それはSF作家の持つ眼差しであるといえる。
SFの定義は人によるとしか言えない。それこそ十人十色である。だが俺が思うに、SFとは一切のヒューマニズムを排し、たとえ人間であっても単に世界を構成する一つの事象として捉えることだ。それはつまり人間を動く肉の塊として捉えるということだ。そうすることで世界の正体を偏見なしに理解することができる。
秋山の文章はとぼけているようだがその根底にはこのような冷たさを感じるのであった。

ところであの後幽はどうなったのであろうか。この人のことだから多分死んでいるのだろうな。
というよりもそれを書くとこの作品の主題から外れちまうんだろうな。

漫画

・うしおととら

わざわざ一万円くらいだして電子で買ったが、現代っ子な俺のノリと合わず、雪女の話のところで止まっている。
いつか読む。

・フロムヘル

これも12章くらいで止まっている。
めっちゃ読みづらい。
いつか読む。

映画

・バッドボーイズ RIDE OR DIE

誰の人生にも、まったく無意味で下らない映画が必要である。
俺の中でバッドボーイズはそんな「バカ映画」枠に該当する作品である。
映画とは所詮見世物であり、客から金を搾り取ることを目的としているからして、とにかくただひたすらに観客を楽しませることはある種の正義なのである。
この映画はそういう意味でまさしく100点だった。
以前にも書いたが、実写TFにおいて世界はもはやマイケル・ベイ以外で満足できなくなっている。ベイヘムという言葉に象徴される破壊的なバロック映画表現とTFというコンテンツはあまりにも相性が良すぎた。それは興行収入にも如実に表れており、TFファンを除いて「TF=マイケル・ベイ」の構図で認識していると思う(ソースは俺)。
さて、ではこのバッドボーイズはどうか。
マイケル・ベイは2においてベイヘム的映画製作を確立した。瞳孔が完全に弛緩した究極のアドレナリン映画の誕生である。よってバッドボーイズ2が傑作であることはもはや疑いようのない事実だ。
だが実写TFとは違い、バッドボーイズに関してはベイヘムよりも「バッドボーイズというシリーズ」に味方したいと思った。
2はたしかに傑作だが、そこに充満するベイヘムが果たして「バッドボーイズというバディ刑事モノのシリーズ」にふさわしいものであったかというと、俺はあまりそうは思わない。「シリーズの生みの親が作ったものがふさわしくないとはこれいかに」と思われるやもしれぬ。だがベイヘムはありとあらゆるジャンル、映画ですらも爆発と混沌で飲み込んでしまうブラックホールであるからして、ありとあらゆるジャンル、映画と食い合わせが悪い。
当然バッドボーイズシリーズとの相性も悪くて然り、というわけである。

さて、そうした事情もあって今回のバッドボーイズは実にバッドボーイズらしさに溢れた作品になっていてよかったと思う。
ベイヘム特有の混沌が拝めないのは少し残念さもあるが、ベイ以降の実写TFを観た時のような物足りなさは感じなかったのでそこも評価したい。ベイとは違った路線のアクション映画として非常に楽しんだ。
続編も観たいと思う。

・Cloud

今年の邦画最高傑作(と言っても大して観ていないが)であると同時に黒沢清の最高傑作(と言っても大して観ていないが)。
清映画は大嫌いであった。
ダラダラと起伏のない物語を延々見せ続けられ、つまらんつまらんとばかり思っていたら世間では「黒沢清の醸し出す不気味さ」だの「黒沢清の映画は不可解なところが良い」だの絶賛しか聞こえない。「こんなもんを持ち上げてるから邦画はいつまでたってもダメなままなんだよ」と何度胸中で呟いたことか。
ところが今回のCloudは明確に違った。
なんというか、楽しい。これは清映画に最も欠けている部分だと思った。黒沢清はここまでキャリアを積んできてようやく面白い映画の撮り方がわかったらしい。
はじめは転売屋に天誅が下る因果応報系の話かと思いきや、主人公のアシスタント(佐野くん)が謎の強者感を漂わせはじめてから徐々に物語は予想もできない方向に転がりだし、しまいに銃が出てきたところで喝采を上げたくなった。
「お前単純に銃が出てくる映画が好きなだけだろ」と言われそうだが、そんな単純な話ではない(多分)。
つまり「映画に予期せぬものが予期せぬタイミングで登場したら面白いよな」ということである。本来ならば「主人公はこれまでの因果が巡って最後にひどい目にあって終わりました」というありきたりなオチに収束するはずが「主人公は反撃しました。それも彼のアシスタントが持ってきた銃で」というあたかもスラッシャー映画で襲い来る殺人鬼をバズーカ砲で撃退したようなめちゃくちゃさが最高な上に「やってやったぜ!」という快感もあって実に素晴らしかった。
これは多分映画にしか成し得ない快感なのではないかと思う。「映画だから」赤いドラム缶を撃つと爆発するし、「映画だから」銃弾をガンガン避けられる。この映画だから許されるのをいいことに物語をどんどん暴走させ、「主人公は地獄に落ちました。ただし忠実で有能な相棒と一緒に」という喜んでいいのやら悲しんでいいのやらわからない完全に突き抜けたオチに着地したのも素晴らしい。

また、このCloudは回路だの蛇の道だの、ひたすら平坦で薄っぺらい雰囲気(これは多分狙ってやってるのだと思うが)漂うこれまでの清映画とは違い、その薄っぺらさすらもが味になっている。
それを象徴するのが主演の菅田将暉の演技である。俳優に対して「演技上手い」という褒め言葉は果たして適切なのかは知らんが、あの誰にも心を許していない身勝手で自己中心的な人間をああも上手く演じられるのはすごいと思う。元々菅田将暉がそういう人間なのではないかと思うレベルで自然に演じられており、特に「勝手にパソコン見ないで」というセリフの怒っているわけでもなくただ拒絶しているというニュアンスの出し方は「ホントにこういう奴おる」となった。
他に俺が注目したのは登場人物の髪型のやる気のなさである。それも適当に崩しているわけでなく、けっこうスタッフによる手が入った崩し方という印象を受けた。特に佐野くんと窪田正孝演じる先輩の髪型のやる気のなさ。
俺は「現代においてヘアセットしていない若者はかなりやばいやつである」という偏った思想を持っているので、あの髪型のやる気のなさがキャラクターの荒廃した感じ、ひいては作品全体の危ない雰囲気を強調していると思った。

年1で出てくる「どうしようもなく好きになってしまう映画」であった。

・ソウルの春

国家における恥の歴史を映画化し、ここまで面白いものにしてしまうとは驚きである。
歴史的背景を抜きにしても戦争活劇としてよくできており、とてもハラハラする。
もう正直それ以外に言うことがないが、それだけで十分な映画でもあった。
傑作。

・オッペンハイマー

サー・クリストファー・ノーラン新作のタイトルが「オッペンハイマー」であると聞いた時、俺の心に浮かんだ感想は「こすいな」であった。
この人の本分は言うまでもなくバカ映画であり、彼の最高傑作といっても過言ではないテネットのさらにその先を期待していた俺を落胆させるには十分であった。「露骨にオスカーを狙いに来たな」と嫌味交じりに呟いたのを覚えている。
彼と似た映画監督といえばマイケル・ベイ神が思い浮かぶ。事実ノーランはベイのファンであり(彼のマネージャー談)、そのアクションのスタイルにはベイの影響を大いに感じる。大体インターステラーなんていうしょうもない作品を作るような人がよりによって伝記映画をとるなどありえんでしょ。常にバカ映画を撮り続けるベイ好きの俺としては「カッコつけるな」と言いたくなる。
そういうわけであるからしてノーランがオッペンハイマーなどという気取った題材を撮ることにはかなり否定的だった。

だが観終わってみると、ノーランがこんな映画を撮った事自体が面白くてならなかった。別に映画自体は「面白いけどまあ普通」という程度である。
では何が面白かったのかというと、それはノーランが今まで隠してきた自惚れというのがこの映画で明確に現れたことである。
ノーランはこの映画の冒頭で人類に火をもたらしたプロメテウスを引用した。つまりオッペンハイマーを「プロメテウスばりに人類に大きな影響を与えた人物」としたのである。
事実、オッペンハイマー本人も原爆開発の全責任が自らにあると考えている節がある。日本の被爆者にただひたすら謝り続けたという証言もそれを裏付けているように思う。
だが彼の見解は見当違いも甚だしい。
たしかにオッペンハイマーは原爆開発を主導したが、それにはマンハッタン計画に金を供出した米国政府や軍、計画の発端となったナチスドイツや日帝の等々の存在も絡んでいる。つまり決して彼一人の責任ではないのである。
にも関わらずここまで責任を感じているような素振りを見せるのは、彼がひとえに自意識過剰だからなのではないか。つまるところ「世界がダメになったのは俺のせいだあ!」というとんでもないナルシズムの発露である。
それに加えてノーランはエドワード・テラーの全地球炎上説と絡めてオッペンハイマーを冷戦の基礎を築いた人物として描いた。
さて、ここまで踏まえると、なぜノーランがオッペンハイマーを題材に映画を撮ったのかが見えてくる。ノーランは人類に火をもたらしたプロメテウスと原爆開発に携わったオッペンハイマーを結びつけ(もちろん原作でもそのような言及はあるが)、さらにそれらを自身になぞらえようとしたのである。
ノーランが映画メメントのマトリクス図を黒板に書く動画を見たことがあるだろうか。オッペンハイマーでも似たようなシーンがあり、そこからも彼がオッペンハイマーに寄せる気持ちというものが伺える。つまりノーランはオッペンハイマーに自己投影し、映画を通じて「俺こそが世界に変革をもたらすオッペンハイマー、ひいては映画界のプロメテウスなんだあ!」と声高に叫んでみせたのである。
なんとナルシスティックでエゴマニアックなことだろうか。
だが俺はここに可愛げを覚えた。

クリエイターとは傲慢なものであり、そこをいちいちあげつらっていてもしょうがない。
だがそれが最低な方向に向かうこともある。
進撃の巨人がいい例だ。
初期の進撃において、作者の諫山創は鉄男やファイト・クラブのような、自身を拡張し世界を破壊することを渇望していた。あの残酷さがまさにその表れである。だが終盤に至り、彼はその衝動を捨て去り、安易かつ凡庸で最低な結末を選択した。おそらく時間がそうさせたのだろうが、十年も連れ添ってきた読者としては本当に最低の終わり方だった。
ではなぜ彼はそのような結末を選んだのかといえば、それはひとえに逃げたからである。彼は「世界なんてぶっ壊しちまえ」という連載初期に発した自身の主張に恐れをなしたのである。
最近よく「表現に対するクリエイターの責任」がやたらと言及されることがある。トッド・フィリップスは「自分の映画のせいで世界がダメなった」という笑止千万な理由でジョーカー2を撮った。
進撃の巨人における結末も、そのような諫山創の動機を強く感じた。おそらく彼の中でそのような破壊を推奨する、見方によっては思考停止ともとれる結論を避けねばという義務感があったのだろう。自身の漫画が世界をそのような方向に向かわせることを危惧したに違いない。
つまり「自分の作品のせいで世界がダメになる」というとんでもない傲慢な精神に端を発しているのである。
だが俺に言わせれば調子に乗りすぎである。
「貴様らの漫画や映画ごときで世界がダメになってたまるか」と思う。むろん一人の人生を変えるような素晴らしい作品は存在する。だがそんなものでダメになる世界ならとっくにダメになっているのは小学4年生でもわかる話である。

そうした不快で陰性な傲慢さに比べれば、ノーランの傲慢さなど可愛いものである。彼は自身をプロメテウスになぞらえて「俺こそが映画界に火をもたらす革命児なのだあ!」と叫んでいるに過ぎないのだから。
つまるところ陽性の傲慢さなのである。彼は自分の作品が世の中を楽しませることを信じているし、あくまでも映画という範囲内での影響力しか考慮していない。間違ってもそれが社会全体に影響を与えるなどとは思っていないのだ。
俺がノーランに対して皮肉でなしに好感を抱くとしたらその一点である。
またこの映画はこれまで「俺は全然大したことしてないけど?」とオスカーに選ばれた時ですらスカしていたノーランが唯一「俺すごい!」と本音を漏らした瞬間であり、そういう意味でも評価したい。
なので彼はこれからスカしたりせずバカ映画をじゃんじゃん撮ってもらいたいものである。

ドラマ

・Fallout

俺は即物的で俗っぽい作品が好きなのだなあと認識させられたドラマ。
みんな大声で言わないけど、このドラマってつまらないよね?個人的にはイカゲームのような毒にも薬にもならない代物だという見解でいる。
同じAmazon MGM Studio製のポピュラードラマなら「The BOYS」の方がストーリー的にもテーマ的にも思想的にも残念ながら数段上に感じた。
まず同じエログロ悪趣味系なのに楽しさがない。ボーイズはグロ描写が出てきてもキャッキャ笑って見ていられるブラックコメディ要素があったが、このFalloutはそういうグロシーン見せられても全然楽しくないし、むしろ邪魔だからいらないとすら思った。笑えたのは主役二人がキスしてる下でグチャグチャになった生首同士がキスしてるところくらいだ。
一つ一つの小道具は凝っているとは思うが、実弾兵器しか出てこなかったり、(いくらVault製であるとはいえ)Apple製品みたいなデザインになってしまったリッパーや、あまりに出番のなさすぎるヌカ・コーラといった、いかれたプロダクトや50年代ノスタルジーを感じさせる小物の扱いの悪さに残念な気持ちになってしまったのだった。Fallout世界にはFallout世界特有のアホらしさあふれるスタイリングの代物が満ち溢れているはずなのに、これはそういった小道具一つ一つが現実に寄りすぎていて、あの外連味ある世界観から外れているのだ。
また、遠景が少ないために世界が狭く感じてしまった。Falloutの世界は広さというより密度に比重が置かれているが、そもそも密度の時点であまり大したことがない上に広さも乏しいというのは致命的である。しかし、これはおそらく予算の関係と思われるので、州からの補助金が増える次シーズンに期待である。
これはいつものFallout……というよりいつもの以下のFalloutだ。メディアの違いのせいもあるだろうが、ゲームと比べてあまりにも魅力に乏しい。
ストーリーもどこかで見たようなものをツギハギしてる感じで、特に起伏も驚きもない。Vaultの暗黒面なんてゲームの最序盤に5秒で済まされるものであり、そこを1シーズンまるまる引っ張る展開の遅さには辟易した。さらに終盤明かされる「Vaultの驚愕の真実()」とやらも「ああ、いつものやつね」としかならないため、既知の事実を延々並べ立てられているという感覚が強い。
また、一部を除いてスペクタクルの欠片もない。
これはどうしたことか、と思って原因を考えてみたが、ノーラン弟ことジョナサンノーランが監督と製作総指揮を務めているからということで納得した。あの兄弟、構図や絵作りはともかく情感や感傷といったものに対する演出力は皆無だからしょうがないね。
「Fallout: Nuka Break」みたいなお気楽で初見も楽しめる感じのやつを期待すると肩透かしを食う。
だがここで見方を変えるなら、これはあくまでもFalloutを知らない人向けに作られたエントリーモデルであり、あまりFalloutファン向けには作られていないのかもしれない。第一シーズンで丁寧に導入した後、徐々にFallout世界に没入させていくという流れとも考えられる。
ともあれ現状の評価としては「つまらんし好きくない」という感じであるが、この先変わるかもしれんので一応の期待はしておく。

あと作品自体ではなく、兄貴が「人間の罪が〜プロメテウスが〜」とシリアス面で原爆云々を語っているのに対して弟がこのような俗悪な核戦争後の世界を描いているギャップは面白いと思った。

・The Boys S4

皆さんご存知最低ドラマ。
今シーズンはフィナーレに向けての基礎を固めているところなので、けっこう地味になってしまうのは仕方ないのかもしれない。
だがその分オチは凄まじく、先がどうにも気になって仕方がなかった。
「果たしてアメリカの明日は(?!)。乞うご期待」ということで楽しみに待ちたいと思う。
だが最近のボーイズは拝金主義に走り出したこともあってかいささかの不安がある。「スピンオフドラマであるジェンVとはクロスオーバーしない」と製作を牽引するエリック・クリプキは語っているが、スピンオフも押さえていないといささかわからない部分もあるように思えたので、綺麗にオチがつかないのではないかという気もするのだ。そういうわけでこれから見る人は本編シーズン3のあとにスピンオフのシーズン1を見ることを推奨したい。
拝金主義批判をかましているくせして自分たちが拝金主義者になるとは一体どういうことか。まったく、反面教師の鏡である。
拍手。

ゲーム

・Dying Lightシリーズ

みんな大好きダイイングライト。
え、ダイイングライトを知らない(?)。人間の風上にも置けない野郎だな。さてはゾンビか。
ダイイングライトといえばパルクール×ゾンビオープンワールドの傑作だ(!)。

このゲームの基本的な快楽はゾンビに対してむごい殺し方をすること、パルクールを駆使して町中を駆け巡ることに尽きる。というかそれ以外にすることがない。ストーリーもバイオハザードをさらに薄く煮詰めたような感じで、特筆することもない。
徹底的にプレイ主体のゲームであり、くっそつまらねえ長尺ワンカット長回しムービーが売りの某ウーバーイーツシミュレーターとは大違いである(まだ文句言ってる人)。
また、ムービーが見せる盛り上がりの最大瞬間風速に関してもこちらの圧勝である。

上の動画を見てもらいたい。一人称視点にもかかわらずこのかっこよさ。素晴らしい。
ゲームのムービーがかくも感動的でポエジーあふれる瞬間を生み出すことができるのかと感涙を禁じ得ない。
拍手。

さて、名作の誉れ高い初代ダイイングライトであるが、次回作であるダイイングライト2は世間で大変評判が悪い。
だがそういった風潮にただ乗りして知ったようなつらでつらつらと批判を述べ立てるのは俺の好むところではないので、ここでは公平な意見を述べさせてもらう。
ダイイングライト2は1と比べて優れているのか。はたまた劣っているのか。
俺の答えは“両方”である。
優れた部分もあるが、同時に劣っている部分もある。

ではよかった部分を挙げてみよう。

◯空が飛べるようになった
正確にはパラグライダーによる滑空である。「バットマンのパクリじゃん」「ゼルダのパクリじゃん」等々の声が早くも聞こえているが、これまで壁を登るか引っ掛けフックでワイヤーアクションする以外に移動方法がなかったダイイングライトにおける新たな移動手段であるからして、これは正当な進化であると言えよう。移動の快適さにおいては段違いである。

◯パルクール全般の改善
パルクールの伸びが増えた。
「パルクールの伸びが増えたとはこれいかに?」
初代ダイイングライトにおいてはあくまでも人間が成し得る程度のパルクールしかできなかった。例えば「こちら側の屋根から向こう側の屋根に飛び移りたいぞ」と思っても、常識的な範疇から外れた間が空いていると跳躍を断念せねばならなかった。
だが2では初代の基準から考えると不可能とも言える距離の跳躍が可能になっており、これが、大きくパルクールの快感に貢献していた。
また「ギリギリ届かないかも!」なんて場面でもなぜか掴めていることが多々あり、こうした仕様がより大胆なパルクールを推進していた。

また、町中をパルクールで移動しているとどこからともなく音楽が流れはじめ、「ほら、もっともっとパルクールしなさい」と促し始めるのも個人的には良いと思った。
初代においては音楽が流れっぱなしであり、そこが良い部分でもあったが、このようにゲームプレイをダイレクトに反映したインタラクティブさは大いにゲーム的で好感を覚えた。
また、この音楽が流れている時に大きく跳躍したり落下したりすると音楽に重なってシームレスに「ふわぁーん」という音が鳴り(こういう音はなんというのだろうか)、これがまたクセになる。

◯グラフィックの向上に伴うゴア表現のディテールの向上
「ゲームはグラフィックじゃねえ。プレイの楽しさだ!」
おっしゃる通り。ゲームはグラフィックじゃねえ。プレイの楽しさだ。
だがゾンビゲームをプレイする際に俺がいちばんに要求するのはゴア表現である。ゲームの役割にはマナーやモラルからの解放という側面もあるが、ゾンビゲームは特にその色合いが強い(と思う)。「人をグッチャグチャにする気持ちよさ」をより強調するにはよりグッチャグチャさを鮮明にする必要がある。
そうしたこともあってこれは改善といえるだろう。

◯戦闘面における細かい改善
初代において、頭上攻撃というのはあまりにもすくなかった。このゲームには武器の耐久度というものがあり、頭上攻撃を行うにはそうした耐久度を削らなければならず、もやもやする部分があった。むろん遠距離武器を用いても可能ではあるが、近接主体のダイイングライトにおいてそうした武器を使用するハードルはなかなかに高い。よって前述の通り頭上から手軽な近接攻撃を繰り出せないため、歯がゆい思いをしていた。
しかし2では素手での頭上攻撃が可能になり、難易度ノーマルにおけるステルスキルなら一発で敵の頭蓋骨を破壊することが可能であった。

フィニッシャーの追加もありがたい。敵に一定数ダメージを与えると敵に対してブルータルな確定キルを繰り出せるようになった。さらにこれを行うことで、攻撃するごとに消費するスタミナが回復するのでやらない手はない。ここらへんのバランスも優れていたと思う。
ただ欲をいえばDOOMのグローリーキルのようにフィニッシャーのバリエーションを増やしてほしかった。

そしてなんといっても白眉はダイイングライトを象徴するドロップキック攻撃の大幅な改善である。初代ではドロップキック1回につき一人にしか用いることが出来なかったが、2では範囲攻撃と化し、複数の敵に対して有効になった。攻撃力も大幅に向上した。快感も倍増である。

こんなところだろうか。
次は悪くなった点。

◯パルクール全般の改悪
「え、改悪もされてるの?」
その通り、改悪された部分も存在しているのである。
初代では突起を一個ずつ把握しての登攀が、レベルが上がるにつれてスピードアップしていく仕様だった。最終的にはかなりのスピードになったものである。2では平坦な壁は壁蹴りによって初代以上に素早く登ることが可能だが、ハシゴ状に設けられた突起を一個一個掴んで登っていく動作のスピードは特に上がったりしない。
これがくっそ不満である。もたもたと壁を登っていく様にはひどくイライラさせられた。

パルクールにスタミナを消費するのもいただけない。スタミナ自体は強化できるのでそこまで大きな不満ではないが、パラグライダー使用時に限定してもよかったのではないかと思う。

特に初代において立体機動装置を体験させてくれたグラップリングフックの改悪は看過し難い。初代では直線的なワイヤーアクションだったが、2では牽引力が乏しく、天井に引っ掛けてターザンの如くぶらぶら揺れる以外に大して使い道のないくっそくそくそな仕様である。俺はストーリークエスト以外で使ったことがない。
これに関しては完全にトラッシュでガーベッジであることを開発元のTechlandに強く発信していきたい。

◯戦闘面における細かい改悪
「え、戦闘も改悪されてんの?」
いえす。
2では戦闘にガードが導入されており、そのせいでコントローラー勢はボタンを圧迫され、結果として操作が複雑化してめんどくさくなった。
またせっかく導入したガードにしてもあまり有用とは言えない。敵は一定の確率でパワーアタックというものを繰り出してくるのだが(いわゆるつうこんのいちげき)、これに関してはガードが無効化されてしまうので、結局通常攻撃も含めて避ける方が早いのである。せっかくなのだからジャストガードすればパワーアタックをしのげるとか、あるいはそもそもそんなものを導入しないでほしかった。

ニューゲーム+の戦闘における難易度調整が敵を硬くすることで一点突破を図る雑さは特に最低である。個人的にはこれが一番許し難かった。
Techlandは戦闘デザインがあまりにも下手すぎる。

このゲームにはグラップルと称される敵の攻撃を受け流す操作が存在しており、初代では敵をグラップルした先に柵などがあったりすると敵はそれを乗り越えて向こう側に落っこちて死ぬ、なんて楽しい仕様があった。だが2では柵にあたっても手前でへたり込むだけであり、その楽しみが削がれたことには憤りを覚える。

初代では戦闘スキルレベルをMAXまで上げると攻撃にスタミナを消費しなくなるという素晴らしいご褒美があった。しかしながら2ではそのような仕様が廃止され、代わりにスタミナ消費減少の効果が備わった防具などを使う羽目になる。それも完全ではない。
端的にめんどくさい。

◯適当なレベルデザイン
初代と比べてコピペマップが多い。別にコピペ自体はそこまで気になることでもないが、それに伴うカラーグレーディングや緑一色となってくっそつまらなくなった景観の劣化、前作ではかなり詳細に描写されていたリアリティある太陽の運行の廃止等々、見栄えは完全に悪くなったと言えよう。これに関しては擁護の余地なしにつまらなくなった。ゲームはプレイの楽しさが第一であるが、その楽しさに寄与するのが没入感でありそれを引き立てたり強調したりするのが景観のような、いわゆるディテールというやつの積み重ねなのである。
そこを省いてしまってはクソゲーの称号を与えられるのも宜なるかなといったところだ。

◯つまらねえムービー
初代におけるムービーは「見ていられる」という理由で評価できた。基本的にゲームのムービーなんざどう頑張っても映画に勝てるわけがねえのだから、見ていられる程度のムービーを提供できればOKなのである。しかしながら2のムービーは全般がつまらなくて見ているのが非常に苦痛であった。
一人称視点にこだわるあまり例のウーバーイーツシミュレーター以下の映像体験となったことは特筆に値する。

◯つまらねえシナリオ
初代におけるシナリオは「やっていられる」という理由で評価できた。基本的にゲームのシナリオなんざどう頑張っても小説に勝てるわけがねえのだから、やっていられる程度のシナリオを提供できればOKなのである。しかしながら2のシナリオは全般がつまらなくてプレイするのが非常に苦痛であった。
RPGとしての形式にこだわるあまり例のウーバーイーツシミュレーター以下の破綻したシナリオとなったことは特筆に値する(これに関しては元々ニューベガスのライターが開発を主導していたところにTechland社内のゴタゴタが巻き起こってこうなった経緯があるのでしょうがない気もするが、そんな事情はプレイヤーからすれば関係なかったりする)。

◯つまらねえ音楽
初代では打ち込み主体の音楽が印象的であり、作品のアンセムとなっていたが、今作の音楽のつまらなさは特筆に値する。

と、ここまで思いつく限りの良い点と悪い点を挙げてみたが、総合的な評価としては「どっちも同じくらい面白い」。
良くなった部分と同じくらい悪くなった部分がある。
単純に一つのゲームとして見たとき、ダイイングライト2はけっこう面白くてやりがいのあるゲームだと思う。
しかし「ダイイングライトの続編」として見たとき、やはり物足りなさを覚えるのもまた事実だ。続編というのはプレイヤーからのフィードバックを得た上で作られるので当然前作も完全に改善されることを期待される。前作の上位互換でなければならないのだ。
だが残念なことにTechlandはその期待に応えることができなかった。
2025年はダイイングライトの最新作が発売される。これが初代と2のいいとこ取りになっていることを祈るばかりである。
期待している。

・DOOMシリーズ

DOOMと聞けば「なんかThe洋ゲーの肌に合わないやつ」と勝手に食わず嫌いしていたが、新作「DOOM: The Dark Ages」の予告を見た時、そのあまりのブルータルさにときめきを覚えて2016とエターナルをプレイした。
素晴らしいゲームである。無駄がなく、そぎ落とされて洗練された美学に支えられた至高のFPS体験であった。

特に2016は任天堂ゲームと言っても過言でないくらいよくできたゲームだった。これは全国の小学校でゲームの義務教育の教材とすべきである。
5歳児にだってプレイさせてもいいだろう。CEROもZだし。

エターナルに関しては俺があまりにも下手くそすぎてあまりその魅力を完全に引き出せなかった感がある。
上手い人のプレイを見ていると全てのスキルをフル活用している様子が伺えるのだが、俺の方はといえばコンバットパズルに身体がついていかず、ほうほうのていで逃げ回ってはスーパーショットガン様の御稜威によってなんとか波状攻撃を凌いでいた。
TAG2までを難易度手加減無用でクリアできたことに関しては奇跡といってもよいくらいで、俺の人生有数の誇りでもある(え、難易度ナイトメア(?)。そんなのやりませんよ)。
このゲームに関して特筆することがあるとすればやはり戦闘デザインの緻密さだろうか。このゲームには公式にチートコードというものがあり、探索によって手に入れることができる。そして一度クリアしたステージをチートコードを用いて再プレイできるのである。
このチートコードを使ってわかったことは、このゲームはどれか一つの要素を緩めてしまうと途端にヌルゲーになってしまうということだ。
つまりとんでもなく絶妙なバランスで成り立っているゲームなのである。開発陣はこのゲームバランスの調整に多大な労力を払ったことが伺い知れたため、尊敬の念を抱いた。
ゲームはかくあるべし。



おわりに

こうして2024年を振り返ってみると「2023年よりかは真面目に生きたな」という気がしてくる。一昨年はまるで適当な人生を歩んでいたため、ちょっとは進歩した……と思う。
例年よりも映画観たりとかゲームやったりとか。本はあまり読めなかったけど。
久しぶりに小説を書いたりとかしてむつぎ大賞なる私設賞に投げつけたりもしてみた(クオリティに関してはお察し。でも書いていてとても楽しかった)。
もちろんいいことばかりではなく、ちょっとした別れとか、ちょっとではすまない別れとか、同級生に差をつけられて凹んだりとか、会社の先輩と後輩が同時に退職して新たな職場で楽しそうにやってて「きぃーっ!」となったりとか、プライベートでいろいろとネガティブなこともここには書かないし書けないけどあった(インターネットとは楽しむための遊園地であってセラピーの場ではないので)。
だけど全体的に見て良い一年であったように思う。
「てめーはただ映画観て文句たれてただけじゃねーか!」という声が聞こえた気がするがうるせえ。
俺だってなんとか生きているのである。
今年もなんとか生きていきたいと思う。

できれば億万長者になったりとかしたい。

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