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おバカ映画二選(ネタバレ)

「オッペンハイマー」と「ゴジラxコング 新たなる帝国」をハシゴ鑑賞した。片や真面目ぶったおバカ映画、片やおバカぶったおバカ映画なので鑑賞後はテンションの落差のあまり心なしか頭痛を覚えたり覚えなかったりした。
 感想を書く。

・オッペンハイマー

 なんか公開前から荒れてたが、なんやかんや公開されてよかったと思う。
 んで、観てきた感想なんだが、「やっぱりノーランの映画って何もないよなぁ」という感じ。
「何もないとはどういうことだ」と詰問されそうなので仔細を説明したいが、そのためにはまずマイケル・ベイについて語らねばならん。
 さてさて、マイケル・ベイとは知っての通り「バッドボーイズ」、「トランスフォーマー」などを手掛けた世界最高の映画監督フィルムメーカーである。彼の特徴と言えばその絵作りだろう。望遠レンズや広角ワイドレンズを駆使して画面の手前と奥の対象物の間に視差を作り、その隙間をスモークや破片が幾重にも層を成すことで埋め、さらにそれらが複雑に動き回ることで広大で奥行きのある空間を出現させ、それらを流れるようなカットで繋ぐことでひたすらに躍動的ダイナミックな映像がスクリーン上に投影される。
 と、ここまでは基本的によくある手法に過ぎない。問題は彼がそれを過剰に多用することにある。すべてのショットは視覚的インパクトのために設計され、それぞれのシーンは個々の文脈から完全に切り離された構図レイアウトでもって語られる。極端な話普通の食事シーンと銃撃戦が同じような文法で描かれているのだ。ベイの中に“引き算”という言葉はない。いかに過剰に、いかに壮大にシーンを構成するか、おそらく彼の中にはそれしかないのだろう。ストーリーなど所詮ただの飾りに過ぎない。それは彼のフィルモグラフィを見れば瞭然だろう。
 その過剰さゆえに我々はあの映画群を観て「なんかわからんけどすごい」と感じる。
 俺がこの映画監督を好きな理由はそこだった(個人的にそれが最高の形で爆発したのがトランスフォーマーだと思っている)。彼にとってそれぞれのシーンに意味を持たせることはさして重要ではなく、ただただ絵面をいかに壮大に見せかけるか、それこそが至上目的なのだ。シンプルで俺の性に合っている。
 言うなれば、彼は文盲の習字の達人なのだ。ひどく美しい文字を書きはするが、彼の綴る詩は一切の意味を持たない。
 さて、ここでノーランに話を戻そう。
 マイケル・ベイの至上目的が「無駄に大仰で意味もなく派手な絵面を作ること」なら、ノーランの至上目的は「無駄に大仰で意味もなく壮大に物語を語ること」にあるように思える。
 いつだったか適当に繰った蓮實重彦の本に「ノーランは演出力に欠けた映画監督だ」というようなことが書かれてあった(本自体の詳細は忘れた。なんかの映画評論をまとめた本だった)。俺は特に氏の著書を愛読しているわけではないが、この点においては賛同する。ノーランにその能力が欠けているかはともかく、(仮に彼がそれを十分に備えていたとしても)それが彼の映画内においてまったくといっていいほど発揮されていないのは事実だろう。それは彼のフィルモグラフィを見ればわかる。例えば「ダンケルク」で民間船がイギリス兵を撤退させるために大挙して押し寄せるシーン。普通であれば観客は喝采を叫びたくなるようなシーンだが、それらは一切の盛り上がりを排したテンションで語られており、これだけ熱いシーンにもかかわらず奇跡と言ってもよいほど盛り上がらない。こっちの方がよほど「ダンケルクの奇跡」である。
 彼の作品は大体がこんな感じで、いつもフラットな調子で盛り上がりに欠けている。情動や感傷というものが皆無なのである。
 そうした欠点を補うかのように、彼は無駄に難解でクレバー(っぽい)語り口を用いる。再びダンケルクを例に引くが、あの映画は三つの異なる時間の流れを扱う必然性など欠片もなかった。あの映画からそうした「語り方」を抜いたとしても、そこから失われるものは皆無である(というか元から虚無である)。強いて言えば「何かすごいものを見た」というひどく抽象的な感想くらいだろう。
「メメント」を思い出そう。あの映画から複雑(に見える)語り方を排した結果残るのは10分ごとに記憶喪失に陥る男が道具として利用されていたというひどくシンプルなストーリーである。最後に真相が明かされても何一つ盛り上がることはない。すごいのはその語り方であり、これがそのまま順行で語られていた場合、それらはチープなオチでしかないだろう(そういう意味で「TENET」が時間軸のシャッフルを設定として取り込み、そうした手法を用いる必然性を出してきたので俺はめちゃめちゃめちゃめちゃめちゃめちゃ評価している。抗エントロピー場による時間逆行という設定はSFではありふれているとはいえ)。
 もはや詐術じみているが、それこそが彼の最大の武器だ。彼は単純でおバカなストーリーをクレバーつぽく複雑に語り、あれやこれやを実写で撮り、凝った音響で誤魔化すことで抽象的な「なんかすごい感覚」を映画に纏わせ、そのハッタリでもって観客をして傑作と言わしめる作品を送り出してきた。
 つまるところマイケル・ベイとクリストファー・ノーランの間に能力的な差異はないのだ。やっていることは何も変わらない。どちらも詐欺じみた手法で観客の目をスクリーンにくぎ付けにするという大衆主義/商業主義的な職業監督だ(まあ「見世物」という映画のルーツ的にはとても正しい在り方なのだが)。にもかかわらず片やなんかバカっぽいから不当に過小評価され(まあ実際バカではあるが)、片や不当に過大評価されるのはひとえにノーランの映画がクレバー(に見える)からだ。これは別に俺だけの意見でなく、十年以上前から市井で言及されていたことである。
 ただ俺は別にノーランを中傷したいのではない。単に事実を述べているだけに過ぎない。また、余人が彼の真似をできるかといったらかなり難儀するであろう。なんでもないことをすごく見せかける、というのは稀有な才能だ。皮肉でなしにそう思う。
 そして同じくマイケル・ベイも才人であることは否定できない。彼をサポートする助監督の能力を差し引いても、一つの画を撮るためにあれほど複雑なセットアップを仕切れるというだけでとてつもなく優秀な人間であることは明確だ。
 であるからして(私的な好き嫌いはあれど)映画監督としての能力でノーランを評価するのであれば当然マイケル・ベイだけバカにしたりせず、両者を正しく評価してほしいと思う。つまりノーランを褒めるならベイも褒めやがれ。
 
 ……さて、前置きが長くなったが、上記の理由から俺はオッペンハイマーという映画を通じてノーランの映画にはストーリー性、テーマ性、思想性といった「文脈」的なものがないと再確認したのだった。どこまで行ってもエンタメ職業監督の域を出ない(良くも悪くも)。
 んで、ここから肝心の感想である。
 鑑賞前に「原爆被害が描かれていなかった」等々の意見を見かけた。んが、俺に言わせればノーランにそんなものを求める方がおかしい。あいつにそんな上等な芸当がこなせるわけないだろ。ふざけるのも大概にしろ。
 人は何か思わせぶりなものを見せられるとその実態を知りたくなるのはわかるが、にしてもピュアすぎる意見だ。これらを特にノーランの映画を観たことがない人間が言うならまだしも、ノーランファンを名乗る人間ですら口にするものだから唖然とさせられる。彼らは一体ノーランの何を見てきたのだろうか。
 であるからして俺はストーリー性やらテーマ性やら思想性がない云々といった言説でもって本作を否定する気はさらさらない。彼はただオッペンハイマーという題材の文法を借りたに過ぎないためにこの映画内で語られるものなどないことは明白であるし、そこから汲み取るべきものなど皆無である(そういう意味で俺はゴで始まってラで終わる-1.0点な映画をこき下ろしたのは酷く愚かしかったと再認識したのだった。俺はあれがゴジラ映画としては嫌いだが、エンタメ映画として批判されるべき点は悉皆存在しなかったことを強く心に留めておこうと思う)。
 そも、核兵器の扱いの雑さを批判するなら「ダークナイトライジング」の段階で批判すべきだし、史実を正確に扱っていないという点で批判するなら戦争映画にもかかわらずほとんど血も流れなければ敵であるドイツ兵を全くと言っていいほど出さなかった「ダンケルク」の段階で批判すべきなのである(「プライベート・ライアン」以降のグログロ戦争映画路線から外れた形で戦争を描こうとしたのだという意見もあるやもしれぬが、しかしダンケルクにはそうする必然性が皆無であったことは疑いようがない。なぜならあの映画には反戦であるとかその他テーマとなりそうなものが欠片もないからだ。上で述べた通り、ノーランの映画にはそうした「文脈」は存在しない)。
 ではそうした文脈云々を排してこの映画を評価するなら「すげーよく出来ている」となる。3時間という尺を時間を感じさせずに描くのは並大抵のことではないだろう。そこは彼のややこしい語り口という手法が十分に生きていると感じた。順当に語っていけば多分上映時間の半分くらいで退屈していただろう。そこはやはりエンタメ監督としてさすがの力量である。失敗知らずの評価は伊達ではない。
 あとは主演のキリアン・マーフィーか。彼、けっこうイケメンなのに病み顔というか、いわゆるナーバスな面していて同じく繊細感あるオッペンハイマーにはなかなか適役だったのでねえかと思う。お前何回ノーラン映画に出るねんとも思うが、ノーランが同じ役者を使い回すのはもう様式美になってきている感もあるので無問題。ラストの「世界壊しちゃった……」のセリフの際に片目が神経質に震える辺りは「さすが一流役者!」と言いたくなる演技の細さである。
 また、ノーラン映画の中でもアクションが極端に少ない割にずっと見ていられる映画なため、俺はけっこう好きだったりするのだが、一つ問題がある。核爆発の描写である。ガソリンと高性能爆薬にアルミニウム粉で再現を試みたようだが、残念ながらしょぼいと言わざるを得ない。燃焼スピードの遅さやキノコ雲のまとまりの無さなどによって、原爆の威力がちょっとでかい爆弾程度の描写に収まってしまったことは残念である。常に壮大にものを語る監督が、ここではその壮大さを発揮できなかったのは失敗以外の何物でもないだろう。実写にこだわったのが裏目に出たように思う。俺は実際に米軍からひょいと核爆弾を借り受けてどこか適当な砂漠で炸裂させてくれるものと思っていたのでちょっと残念だった。これなら実際のトリニティ実験の撮影フィルムを着色した方がまだ凄さというものが表現できたのではないかと素人の俺でも思ってしまう。これに比べればまだギャレス・エドワーズが手がけたレジェゴジの核爆発の方が(原爆と水爆の違いはあれど)インパクトや壮大さというものがあったように思う。ゴで始まってラで終わる-1.0点な映画ですら爆発の表現という点ではここまでしょぼしょぼではなかった。
 まぁ人には得手不得手があるのでそこは気にしないことにする。
 かしこ。

・ゴジラコングx新たなる帝国

 公開前からバカ映画ということが十分に分かっていたので観客に対する誠実さという点では同じくバカ映画である-1.0点のゴジラよりも遥かに上である。
 そも、初代以降のゴジラ映画とは基本的におバカであり、3.11以降のゴジラ像を確立させたシン・ゴジラですら血液凝固ジュースやら無人在来線爆弾等々といったおバカ要素からは逃れられなかった。それくらいゴジラの歴史はおバカとは切り離せないものであるからして、やたらにシリアスぶる必要などないのである。にもかかわらずシリアス面をすることで自身を虚飾し、糊塗した上で稚拙なことをやられるからやたらと腹立たしくなってしまう。
 そういう意味でこの映画はしっかりとおバカであることに向き合っているのが超好感である。
 しかし本当に頭悪くて腹の底からゲラゲラ笑えるタイプの下品な映画を期待していくとちょっと違うものがお出しされて来る。なんというか、上品なのだ。もちろんきちんとしたA級映画なので破綻したものは出てこないのはあたりまえっちゃあたりまえだが、そこに製作者の地頭の良さを感じてしまったのであった。コロッセオで尻尾を抱えて眠るゴジラや、虫歯になったキングコング等々、おバカではあるのだがどこか可愛げがあり、クソバカという感じではないのである。
 だからといって悪い訳ではなく、むしろ頭の良い人が真剣に誠実におバカを極めようとするその姿勢は感涙ものですらある。
 KOMの段階ではまだ製作者も観客である俺もどこかギャレゴジのシリアスさを引きずっており、そのためか俺はKOMにはノれなかったが、こと今回にかんしては前作「VSコング」で吹っ切れたのかとても楽しめた(というかKOMは予告編の段階では怪獣黙示録であるくせして本編では「xコング」よりもおバカ映画なのがもうちょっとなんというかやってられない。話のテンポや怪獣描写に関しても過去の焼き直しというか、これは後述するが今作のような昭和ゴジラを現代の技術で再構築したチャレンジ精神がいささか欠如していたように見受けられた。まあ、しょうがない。メインテーマがかっこよかったからヨシ)。
 ふんで、この映画を面白くしているのはやはりテンポの良さだろう。コング君の地底世界パートとゴジラ君の地上パートといった作品の“あらすじ”に該当するシークエンスが徹底的に無駄を排除した最低限の描写で済まされ、クライマックスの怪獣ドッカンバトルへと突入していく様は脚本がかなり洗練されていると感じた。よくノルマ的に挿入される家族描写も観客のストレスを呼び起こす前にサクサクと片付けられ、その他人間ドラマも過不足ないと感じる。調べると脚本家が三人(!)もいるそうで、そう考えるとこの洗練された(おバカな)脚本も納得がいく(むろん向こうの映画では脚本家が何人も参加することはそこまで珍しくはないが、それにしてもこの映画に三人とはねぇ……(感嘆))。
 コングパートはセリフが全くないのにもかかわらず彼らのコミュニケーションが完全に理解できるのは何気にすごいことをやっていると感じた(もちろん会話の内容自体は割とありふれたモノではあるが、それでも凄いことはすごい)。昭和ゴジラの頃は「おい!アンギラス」等々のフキダシで表現していた会話がこんな形でグレードアップされたのはかなりの驚きである。映画において物事や感情をセリフで説明しない=えらい、というわけではないが、本作に関しては人間視点でコングと言語による会話は成り立たないわけで、そうした設定に対してフキダシを使うといったある種の「ズルさ」に逃げなかったことはもうえらいとしか言いようがない。さらに劇中には言葉こそ通じなくとも彼らと分かり合える人間はおり、観客をそれらと同じ視点に誘うという意味でもひどく優れていると感じた。
 正直このノリが続くならX星人も出し放題だしかなり期待できる。この調子で怪獣の手で地球を荒廃させていこう。個人的には夢の中でゴジラ君と交流する「オール怪獣大進撃」の一郎少年的なポジションの存在を出してほしい。ジアちゃんがそれに近いのやもしれぬがいまいち物足りんのでもう一人少年を出し、ボーイミーツガール的な感じで怪獣と心を通わせられる少年少女のドラマを挟んでくれればもう言うことなしである。
 
 あとこれは余談なんだが、今回バカ映画と聞いて吹き替えで観たのが間違いだった。これは映画とは直接関係はない。というのも隣に座っていた学生と思しきガキ二人組が上映中もスマホいじるわ割とデカめの声でしゃべるわでもう散々であった。
 おそらく吹き替えで映画を観ようとするとこういうのと出くわすのだろう。字幕で観ている時は特にそういうのとは出くわしたことはないので、今後二度と吹き替えで映画を観るまいと決心したのだった。
 映画館で人殺したいと思ったのはこれが初めてである。
 かしこ。


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