NOPEを観る。
映画は多様な方法で情報を伝達することが可能な媒体だ。
例えば小説などはテキストのみの一本槍で勝負せねばならない。なのでまず第一にシナリオの面白さが求められる。
しかし映画は手がかかる分、多様な表現を客に披露することが可能だ。ブランドン・クローネンバーグが言うように、映画は様々な表現の集合体なのである。小説のようにシナリオであっと言わせることもできれば、壮大な音楽をかき鳴らすこともできるし、絵画のように素晴らしいショットで圧倒することもできる。他の芸術が持つ多くの要素を有していると言っても過言ではない。
何が言いたいのかというと、映画はシナリオがガバガバでも画や音や編集といった他の部分で補うことが可能ということだ。
代表的な例が俺の大好きマイケル・ベイ神。彼が優れたストーリーテラーでもあることはフィルモグラフィーを見れば一目瞭然だが、それ以上に彼の過剰極まりないショットは映画のシナリオにおける論理的整合性の破綻を超越してきた。要はショットのパワーによって、映画を見ているあいだは細けえ粗は気にならなくなる。
他にも、論理的整合性の一切を欠いた後期宮崎駿作品が評価されている現状の世の中がそれを証明している。あれほど破綻しているのにもかかわらず、画のパワーだけで許されているのだから他の映画もそうであってならないという道理はない。
俺がエンタメ映画を語る際、ビジュアル系の監督を贔屓にするのはそういう理由がある。単純にそうした人が撮るパワーのあるショットがたまらなく好きなのもあるが。
さて、果たしてジョーダン・ピールがそのような才覚を持ち合わせているかというと、それは“否”だ。少なくとも俺は彼のショットに魅力を感じたことはない。
となると必然的にそれ以外の部分で映画の価値を測ることになる。
演出面では卓越していると思う。不気味な雰囲気づくりによって本来は30分で済む話を100分ほどに引き伸ばす能力は非凡だ。それは諸刃の剣であったりもするのだが、それについては後述する。
ではストーリーはどうだろう。一見上手くやっているように見えるが、実はこの監督の問題の根はここに存在するのではないかと思う。
ジョーダン・ピールの作品は、問題提起を客寄せのための大ネタで包んで娯楽作品に仕立て上げて客に提供するというスタイルだ。俺たちは面白そうなネタにほいほい釣られて劇場に足を運び、よくできたシナリオにキャッキャ言いながらも、その中にどことなく人種差別やら格差社会やらの問題を想起して帰路につく。
ここで大事なのはあくまでも娯楽作品にとどまり続けるということだ。これが監督の主張をダダ漏れにするような作品であればそれは単なるプロパガンダであり、それによる扇動や啓蒙が目的ならそもそも映画というメディアに頼るのではなく、かつてブロムカンプが言ったようにブラカードもって町中を徘徊した方が早い。
そういう意味で初監督作品のゲット・アウトはとても良くできた娯楽作品だった。娯楽作品としての方向性と、テーマ性がしっかりと合致してまとまっていたからだ。だからこそ観客も主人公と気持ちを同じくすることができた。「彼女の実家がやばい奴ばかり。なので襲ってきたそいつらを全員殺して脱出だ!」という筋書きに、彼女の実家の連中=敵は「白人の(ある意味)差別主義者だった」という設定を加えることで差別問題と結びつけ、観客の心情を巧妙に「襲ってくる奴らが許せない→その根本にある差別が許せない」という方向に誘導してストーリーと作り手側の主張をしっかりと統合することに成功していた。
だがその成功が次作品にも引き継がれたのかというと甚だ疑問だ。
次作のアスはゲット・アウトの「敵が襲ってきた」というテーマをさらに発展させ、今度は「私たちが襲ってきた」という形にして別の社会問題につなげたことが興味深くはあった。
主人公が実は地上側の人間ではなく地下側の人間だったというどんでん返しによって「彼ら(Them)も本当は私たち(Us)だった」、つまり「私たちは一つなのだ」いうことが判明する構成はよくできていると思う。
さらにタイトルのUsがUnited Statesの頭文字であると考えると、これは分断されつつある格差が広がりつづけるアメリカのメタファーであり「俺たちは一つの国民なんだぜ」というメッセージであることはなんとなくわかる。
だがそのテーマがゲット・アウトのようにストーリーとしっかり結びついていたようには思えなかった。
「敵は私たちだった。私たちは一つだ」などと宣われても、そもそも襲ってきた時点で敵なのだから殺してもかまわんだろうという風にしか思えない。
ストーリーと結びつくということは作り手と観客と主人公がその見方を共有することでもあるが、観客である俺からすれば入れ替わって地下から這い上がった主人公は今まで幸せに暮らしていたわけであるからして、別段他の地下人間を殺したところでもはやどうでもいい気がする。
ゲット・アウトではあくまで背景情報としてのみ配置されていた問題提起がアスではより前面に押し出され、ストーリーを語ることよりもテーマを語ることに傾倒してしまったのは娯楽作品としては失格である。デス・ストランディングと同じような作家の傲慢と暴走を感じる。
さて、ここからが本題のノープだ。
ノープがゲット・アウトの時のようにストーリーとテーマの方向性が重なっていたかというとやはり眉をひそめざるを得ない。
ノープにおけるジョーダン・ピールの主張とは端的に「世界初のスタントマンであり映画スターは黒人なんだぞ。これだけは覚えて帰りやがれコノヤロー」だ。なるほど、俺は世界初の映画が走る馬の映像であることは知っていたが、その騎手の名前や背景情報は知らなかった。そういう意味でその啓蒙は正しく機能したと思う。
またそこから派生してUFOを撮影して金を手に入れることで牧場を守ることにつながり、ひいては自分たちの矜持を保持することにも繋がるという動機の部分は納得のいくものでもある。
ただそのためだけに2時間の尺を使うのはいかがなものか。前述の通りジョーダン・ピールの弱点は本来30分で終わる「社会問題を絡めた世にも奇妙な物語」を無駄に引き延ばすことだ。
チンパンジーに絡めた最悪の奇跡やらUFOやらといった要素を盛り込んでもいるが、それがそれらが上手く一つに統合されているかといったら、俺にはそうは思えない。そこら辺に俺の知らないコンテクストが埋め込まれているのやもしれぬが、よくわからん。
そもそも馬を出す必要があるのか(?)。
また、「UFOを撮影して金持ちになるぜ!」という目的を共有した人々でチームを組んで頑張るわけだが、その部分の盛り上がりが非常に弱い。もっと熱い展開になってもよさそうなのにひたすら平坦なノリで話が展開されるのが、どうにもシンプルなスペクタクル映画としての構成と噛み合っていないのだ。
ヴィルヌーヴといいノーランといい、最近こういうスカしたノリが流行っているが、俺としてはコシンスキーくらいには王道に盛り上げてもいいと思った。
そういうわけで今作も結局は金のかかった『世にも奇妙な物語2時間特別編』を観た以上の感慨は得られなかった。
不気味さや思わせぶりな演出は上手い。父親の不審死をフックにどんどん話を進めていくあたりは無敵の面白さだ。
撮影監督がダンケルクの人なのもあって映像のワイド感は確かにあったし、UFOがぬるりと空から降りてくる画も迫力がすごい。聖書に出てくる上位天使をモチーフにしたと思しきUFOの造形も冴えている。
だがジョーダン・ピールはそうした画で押し切れる作家ではないので、俺からするとやはり尺は1時間でいいと思った。
思うに彼はビッグバジェットの作品は不得手なのではあるまいか。映画監督にはその人が扱うにふさわしい規模というものが存在するが、彼に関してはゲット・アウトのような一軒家レベルの規模感がちょうどいい気がする。少なくともアスやノープのような社会全体と直結させようとしたり、デカいものを出そうとすると破綻をきたすようだ。
なので次回作はぜひ小さな話に回帰してほしいものである。因習村とかよさそうだ。
というわけでジョーダン・ピールの全作を観た結論としては、彼はニール・ブロムカンプと同類である。
はじめは社会派作家としての評価を得ていたが、次第にボロが出てきた形だ。ブロムカンプの場合は画が面白いので観ていられるが、残念ながらジョーダン・ピールにそのような才能はない。
なので好きかと問われると……いいや。