【短編小説】Oh! ブレーメン

 背中を丸めて歩く犬彦の目の前に、北風に吹かれた空のペットボトルがころころと転がってきた。苛立ち紛れにそれを蹴り飛ばすと、電柱に直撃してまともに跳ね返ってくる。チクショーと罵声を上げてそれを踏みつぶした彼を、通りすがりの人たちが奇異の目で振り返る。その姿を見た人々は、関わり合いになってはいけないとすぐに視線をそらし、歩調を速めた。

 金髪の丸刈り、黒い革ジャンに細身のジーンズ姿。肩にギターケースを担いだ犬彦は、口の中でぶつぶつと文句を言いながら通りを進む。そこは歓楽街の外れ。小さなスナックやバーが立ち並ぶ一角だった。今夜は憂さ晴らしにとことん飲もうと意気込み、店を探していたのだが、結局こんなところまで来てしまった。どこもみな楽しそうな客の声であふれていたせいだ。今はそんな雰囲気に包まれながら飲む気分ではなかった。

 クリスマスシーズンにこんなところをうろつくもんじゃない。こうなったらコンビニで酒を買い込んで家で飲むか……。そう思い始めた時、通りの脇に置かれたネオン看板に目が留まった。『老婆の休日』とある。年寄り向けの店なのか、それとも婆さんが営っている店なのか定かではないが、とにかくこんな名前の店なら客などそう来ないだろう。それなら静かに飲めるかもしれない。そう考えて、彼はその扉に手を掛けた。

 そこはカウンター席だけの小さなスナックだった。先客が二人いる。一人は作業服を着た中年の男。もう一人はこぎれいなスーツに身を包んだ初老の男だ。カウンターの中にはママと思しき女性の姿。しかしそこだけ照明が暗いのでどんな容貌なのか判断できない。

「いらっしゃい」と酒焼けした声が飛んできた。

 犬彦は二人の客を注視した。連れではなさそうだし、どちらも静かに酒を飲んでいる。これなら大丈夫そうだと彼は店の中に入り、ギターケースを壁際に立てかけた。

 席は五つしかなかった。その両端に客がいる。必然的に犬彦は中央の席に座ることになった。右側に作業服の男。左がスーツ姿の初老の男だ。

「何飲みます?」

 真正面に立ったママが訊ねてきた。いくら照明が暗いとはいえ、この距離ならその面相がよく見えた。滑稽に思えるほど厚く塗られた化粧は皺を隠すためのものだろうが、その効果は表れておらず、逆に化粧のせいでより皺が強調される結果となっている。少なくとも70は越えているだろう。

「ウィスキー。ロックで」

 ママが氷の入ったグラスをカウンターに置き、酒を注いだ。

 それを一気に飲み干した犬彦の口から、大きな嘆息が漏れた。

「あらお兄さん。どうしたの?ため息なんかついちゃって」

 ママは言いながら、犬彦のグラスに酒を注ぐ。彼はそれも一気に飲み干してから、叩きつけるようにグラスを置いた。

「放っておいてくれ」

 不愛想な客にママは肩をすくめつつも、空のグラスに酒を注いだ。

 犬彦は揺れる氷をしばらく見つめてから、三度グラスを呷った。

 その姿を横目で見ていた作業服の男が口を開く。

「兄ちゃん、随分荒れてるねぇ」

 相手を一瞥しただけで応えようとしない犬彦を気にする風もなく、男はさらに問いかける。

「あれ、ギターだろ?バンドでもやってんの?」

 彼の視線は壁際に立てかけられたギターケースに向けられていた。

 犬彦もちらりとそれに目をやってから、「ああ」と答えた。

「パートは?」と作業服の男。

「ベース」

「へぇ」

 男は数度うなずいてから、犬彦の方に顔を寄せ、自分自身を指さした。

「実は、私も昔はバンドやってたんだ」

 犬彦は品定めするように男を見た。薄くなりはじめた頭髪、ごま塩のような無精ひげ、よれよれの作業服。自分と同じジャンルの人間だとはとても思いたくない。彼は蔑むように鼻で笑った。

「冗談かよ、おっさん」

「おっさんって失礼だな。私だって若いころはあったんだぞ。君みたいな若造は知らないだろうけど、昔、バンドブームってのがあってさ。その流行に乗って、私もやったのよ。担当は、ドラムね。会社継ぐために止めちゃったけど」

 男は箸を両手に持つと、ドラムを叩く仕草をして見せた。

 その姿が以外にも様になっていることに犬彦が目を丸めていると、男は胸ポケットから名刺を取り出し、「これ、私ね」と言って犬彦の前に滑らせた。そこには、『鳥山鉄工所代表取締役社長 鳥山秀介』とあった。

「社長と言っても、小さな町工場さ。それに、その名刺が使えるのも今年度限りだけどね。もうすぐ会社、つぶれちゃうから」

「え?」

「うちみたいな零細企業はね、いつの時代も厳しいのよ。大手に契約切られたら、ハイそれまでよ。あっと言う間に会社は傾いちまった」

 そこで酒を飲み干した彼はグラスを眺めながら、

「もうね。飲まなきゃやってられないよ」

 と言ってからガハハと笑った。

「で、兄ちゃんのバンドはどうよ?」

「犬彦」

「は?」

「兄ちゃんじゃない。俺の名前は、及川犬彦ってんだ」

「ああ、犬彦君って言うんだ。珍しい名前だね。何か謂れがあるの?父上が犬好きとか?」

「俺の親父、字が汚くてさ。出生届に文彦って書いたつもりが、犬彦で受理されちゃったんだって。ま、本当かどうかわかんないけど。ちなみに親父はネコ派ね」

「へぇ。面白い話だ」

 ママが鳥山と犬彦のグラスに酒を注いだ。二人はそれを互いに掲げ、一気に飲み干した。

「それで、話しは戻るけど、バンドはどうなの?」

 犬彦はこれ見よがしにため息をつくと、

「うまくいってりゃ、こんなところで酒なんか飲んでないよ」

「こんなところで悪かったね」とママ。

 気まずそうにちらりとそちらを見てから犬彦が言う。

「俺もバンドの仲間も来年大学卒業なんだ。普通なら就活に励むところだけど、俺たちはそんなもの関係なく、音楽に打ち込んでた。でもね、そう思ってたのは俺だけで、他の奴らはいつの間にかちゃっかり内定をもらってやがった。俺はバイトでも何でもやりながらずっと音楽続けるつもりだったのに。そんな俺をあいつら、陰で笑ってやがった」

「おやおや」

 ママは二人の顔を順に眺め、

「今日のお客はみんな、似た者同士だねぇ」

「は?」と眉根を寄せた犬彦は鳥山を一瞥してから、

「どこが?」

「だってお兄さん、バンド仲間から愛想をつかされたんでしょ?」

「馬鹿言うな。あいつらは音楽から逃げたんだ。だから愛想をつかしたのは俺の方だ」

「そうかしらねぇ。逃げるのも悪いことじゃないと思うけど。自分たちの力をちゃんとわかってるってことだもの。じゃあ訊くけど。あなたお仲間から一緒に就活するよう誘われたことはある?」

「ないよ」

「と言うことはね、日ごろのあなたの言動から、誘っても無駄だと思われてたんじゃないかしら」

 犬彦は考え込むように口を噤んだ。それを見たママはフフンと意味ありげに笑う。

「ほら。それってやっぱり愛想つかされたってことじゃない」

 彼女は鳥山に視線を移すと、

「こちらの社長さんも、大手取引先に愛想をつかされたし……」

 それから右方向へと視線を流しながら、

「そして、あちらにも愛想をつかされたお客がもう一人」

 犬彦と鳥山もそろってそちらを振り向いた。その先に座っていた初老の男が照れくさそうに頭を搔きながら、会釈をして見せた。

「どうも。私、猫田と申します。去年まで、音楽教師をしておりました。定年退職して、今は酒を飲むだけが楽しみの毎日で」

「こちらの先生はね……」とママが言いかけると、

「もう教師じゃありませんよ」

 猫田はすかさず口をはさんだ。

 ママは面倒くさそうに一つ咳払いをしてから、

「こちらの元先生は、なんと奥様に愛想をつかされたとか」

 ああ……と、犬彦の口から同情の声が漏れた。

 それに対し恐縮して見せた猫田は、苦笑を浮かべながら口を開く。

「そうなんです。なんとも情けない話ですけど、定年退職したとたんに妻から離婚届を突き付けられましてね。年老いたあなたの面倒なんか見たくないから今すぐハンコ押して、って言われました」

「ほらね。今夜は似た者同士が勢ぞろい」

 愉快気に客たちを見渡していたママに、猫田が窘めるような目を向けた。

「似ているのは我々客だけじゃないでしょうに。ママだって、同じ穴の狢だ」

「なんだよ。あんたも愛想つかされた口か?」と犬彦。

「失礼ね。あたしは誰にも愛想なんかつかされてないわよ」

「またまたそんなこと言って。私はちゃんと覚えていますよ。ママの若かりし頃の姿を」

 猫田はすいと背後の壁を振り返った。そこには色褪せたレコードジャケットが飾られていた。歌い手と思しき若い女性がモデルとなってポーズをとっている。

 犬彦と鳥山もつられるようにそれを見た。しばらく眺めてからママの顔と見比べ、最後には彼女の顔に視軸を定めた。

「あのレコード、ママなの?」

 鳥山の問いに、彼女はすまし顔でこくんと頷いた。

「うそ」と犬彦。

「めっちゃ可愛かっ……」

 言いかけて彼は口を噤む。ママが睨んでいたからだ。

「レコード出していたなんて、知らなかったなぁ」

 感心する鳥山に、猫田が話しかける。

「もう40年もまえのことですからね。当時は、美貌と並外れた歌唱力で、すごい人気だったんですよ。でも、スキャンダルを一つ起こしてしまったんですよね」

「ああ、それでファンに愛想をつかされたとか?」

「その通り」

「そのスキャンダルって、どんなの?」

 犬彦が問うと、

「そんなこと今さらなんだっていいだろう」

 ぴしゃりとママが言い放った。

「とにかくわかったでしょ?」と猫田。

「ここにいる全員が、誰かから愛想をつかされた。みんな似た者同士なんです」

「こりゃ傑作だ」

 鳥山が唐突に上げた大声に、他の三人は怪訝な表情を浮かべた。彼はそれらを順に見てから、

「ここにいるみんな、誰かから愛想をつかされた。つまり誰かから見捨てられたってことだ。まるで、ブレーメンの音楽隊みたいじゃないか」

「はぁ?」と眉を顰める犬彦に対し、猫田が「なるほど」と膝を打った。

「言いえて妙ですね。ブレーメンの音楽隊と言えば、ニワトリ・ネコ・イヌ・ロバが登場します。ニワトリは鳥山さん、ネコは私、イヌは犬彦君で……ああ、でもロバは……」

 言いながら彼はママに視線を向けた。

「何よ。あたしの名前にロバなんて入ってないからね。って言うか、ロバの入った名前なんてあんの?」

「いやいや、大丈夫」

 鳥山はニヤリと笑ってから、

「ロバ……ロバ……ローバ……老……」

「なによ。あたしのこと老婆って言いたいの?」

 カウンターから身を乗り出す勢いのママを懸命に抑えながら、

「だって、店の名前が老婆の休日でしょうに」

「あれは、あたしがまだ若いころにつけたのよ。ギャップを楽しんでもらおうと思って」

「それが、いつの間にか名は体を表すになってしまったわけですね」

「先生までなに?失礼しちゃうわね」

「元、先生です」と猫田。

「あの。ちょっといいかな」

 話を遮って犬彦が手を挙げた。

「ブレーメン?の、音楽隊?ってなに?」

 年配三人が瞠目して顔を見合せた。

「犬彦君、知らないの?」

 鳥山の質問に彼が頷くと、「驚きましたね」と猫田が口を開く。

「人間に見捨てられた四匹の動物が、ブレーメンと言う町へ行って音楽隊に入ろうとするお話です。確かグリム童話だったかと」

「動物が、音楽を?」

「まあ童話ですからね。細かいところは大目に」

「そうじゃないんだ。俺、少しだけその動物たちに共感しちゃってさ。仲間には捨てられたけど、俺もどこか別のバンドにでも入って音楽続けようかなって思っていたから……」

 犬彦の話を聞いていたママが、「そうだわ」と猫田に視線を向けた。

「先生は音楽教師だから、当然ピアノを弾けるわよね」

「ですから……」と言いかけた猫田を遮り、

「ああ、わかった。元先生ね。で、どうなの?」

「ええ。もちろん弾けますよ」

 その答えにしたり顔を浮かべたママは、三人の客を見渡した。

「だったら、あんたたち、バンド組んだらどう?」

「冗談だろ」と犬彦は嘲笑するが、残る二人はまんざらでもない表情を浮かべた。特に鳥山は乗り気の様子で、

「俺がドラムで犬彦君がベース。猫田さんのピアノがあれば……。うん。バンドの体は成してるな」

「私が、バンドですか?」

 困惑する猫田にママが言う。

「先……元先生も暇を持て余してるんでしょ?だったらちょうどいいんじゃない」

「そうだよ。私も会社をたためば時間はたっぷりできる。昔取った杵柄だ。腕が鳴るぞ」

 鳥山は嬉しそうに箸のスティックでリズムを刻み始めた。

「ちょっと待ってくれ」と犬彦。

「勝手に俺を入れるなよ」

「だめなのか?」

「だめに決まってるだろ。なんでおっさんや爺さんとバンド組まなきゃならないんだよ」

 語気を荒げる犬彦に、鳥山はまあまあと宥めてから口を開く。

「考えてみなよ。素人のバンドなんて掃いて捨てるほどいるだろ?そんな中から脚光を浴びるためには、相当な実力と運が必要だ。でもね、おっさんと、爺さんがメンバーのバンドなんて、その存在だけで世間の注目を浴びると思わないか?」

 彼はその間も両手に握った箸でエアドラムを打っている。その動作をしばらく眺めていた犬彦は、反対側に視線を向けた。いつのまにか、猫田も鳥山のリズムに合わせるように鍵盤をたたく仕草を始めていた。

「おやおや」とママ。

「社長と先生はノリノリだね」

「元、ね」と猫田。

「どっちでもいいよ」

 犬彦は吐き捨てるように言ってから口を噤み、考え込んだ。

「なんだい、迷ってるのかい?」

 カウンターの中のママがニヤニヤとしながら言った。その姿に思わず舌打ちが出た犬彦は、煩そうに彼女の顔を睨む。しばらくそのまま見つめていた犬彦は、やがて「そうだ」と言って左右の席を交互に見た。

「いいだろう。やってやるよ。あんたたちとバンドを。ただし条件がある」

 条件と聞いて鳥山と猫田は手を止め、視線を交わした。

彼らの会話は無関係だとばかりに煙草に火をつけたママの鼻先に、犬彦は人差し指を突き付ける。

「あんたがボーカルならやってやる」

 彼女はせき込みながら紫煙を吐き出すと、

「ちょっと、何言いだすのよ。あたしが引退してからどれくらいたったと思ってんの」

「40年ほど、ですよねぇ」と猫田。

「往年の美人歌手がバンドで復活。話題性は十分です」

「嫌とは言わせねえぞ。そもそもバンドの話を持ち出したのはあんただからな」

 反論しようとしていたママは犬彦の台詞で口籠った。

「いいじゃないか」と鳥山が嬉々とした声を上げる。

「これぞまさしく、ブレーメンの音楽隊だ」

 彼は勝手にカウンターに入ると、四つのグラスに酒を注ぎ、その一つを強引にママに持たせた。

「さあ、みんな。新たなる門出に、乾杯」

 グラスを掲げた鳥山が一気に飲み干す。犬彦も猫田も、それに倣ってグラスを空けると、最後にはママも仕方なくグラスを持ち上げて中身をちびりと舐めた。

「ちなみに、なんだけどさ」

 犬彦が口を開くと、猫田と鳥山が「ん?」と視線を向けた。

「ブレーメンを目指した動物たちって、最後はどうなるの?」

「ちゃんと音楽隊に入るんじゃなかったっけ?」

 鳥山が言うと、「いえいえ」と猫田が首を振った。

「ブレーメンに行く途中、泥棒の家を見つけた四匹は、協力して泥棒を追い出し、そこを自分たちの終の棲家とするんです」

「え?じゃあブレーメンには行かないの?」と犬彦。

「そうです」

「タイトルがブレーメンの音楽隊なのに?」

「そうなりますね」

「なんだよ。やる気が失せるエンディングだな」

「どうして?」

「だって、音楽隊に入るとか偉そうなこと言ったくせに寄り道して終わってるじゃん。なんだか俺たちのことを暗示してるみたいだろ。バンド組むって威勢のいいこと言ってるけど、結局は俺たちもブレーメンにはたどり着けないってことなんじゃないの」

「そんなことはないぞ、犬彦君」

 鳥山がカウンターの中で、立てた人差し指を振って見せた。

「我々は、ここでバンドを結成したんだ。いわば、ここが我々にとってのブレーメンじゃないか」

「そして、私たちのバンドのスタート地点でもあると言うことですね」

 猫田の言葉に犬彦は真顔でなるほどと呟いた。

「やれやれ……」とグラスを置いてカウンターを出たママは店の扉を開けた。外に姿を消し、しばらくしてから彼女は店のネオン看板を引きずって戻ってきた。『老婆の休日』の灯りはすでに消されている。

「もう店じまいか?」

 時計を眺めながら鳥山は怪訝な表情を浮かべた。

ママは名残惜しそうに看板をひとしきり撫でてから、

「こうなったら店の名前、変えるしかないでしょ。ブレーメンって」

 三人の口から、おぉ……と、感嘆の声が漏れた。






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