よもやま話 (仮)

お風呂

 「風呂は命の洗濯よ」と言えば、某有名アニメのセリフである。確かに、お風呂では現実空間から物理的に引き離されて、更には生まれた時の状態でいるというので、精神的にもまた普段とは違った状態にあるというのは正しいのかもしれない。そして、多くの人にとって、そこは心が安らぐ空間であろう。ただ、自分にとってはお風呂という場所は何とも言い難い場所である。

 昔からお風呂は嫌いな場所ではなかった。まあ、小さい頃に父親と一緒に入った時に怒らせて、ドアが思いっきり壊れたこともあったが、今となっては良い思い出だ。こんなこともあったが、小学生の頃まではそんな風に、お風呂に対しては特に好きも嫌いもなかった。

 こういった思いが変わったのは中学生の頃からだろう。世間一般の中学生と同じように思い悩むことが増えて、つらいと感じる時期もあった。そういった心持ちの際に、一人お風呂に入ると思いをめぐらすことが増えて、それは大抵悪い方に向かっていく。ただ、高校生になると寮に入ることになって、多くの人とお風呂に入ることになったので、中学生の時のようには感傷的にはならなくなった。が、部屋で寝る時に感傷的になるようにもなったのだが、これは別の話。

 そして今、大学生で一人暮らしをしている訳だが、お風呂はそれほど感傷的な場ではなくなった。というのも、運のいいことに小さなテレビ付きの物件を借りることができたので、お風呂に入っているときは適当に番組を見たりして、悲観的な気持ちに陥ることは少なくなった。ただ、それでも悲しい気持ちに陥ったままお風呂に入ると、思考の坩堝に入ることもあるが、まあこれは…という感じ。

 この話の締めは、どうしたものかとウンウン考えてはいるが、何もいいものは思いつかない。強いて言えば、これからもお風呂に入ることを避けるということは当然できない訳で、お風呂くらいは日常の喧騒や悩みを忘れて気持ち良く入れる環境にありたい。こんな話を初めての小話に持ってきて、一体何なんだと自分でも思わなくはないが、まあこういう語りが苦手の人はこれからはあまり読まない方がいい、という注意喚起としてはいいのかもしれない。毎回こんな感じにするつもりはないが、ときたまこういった話をするのかもしれないので。中途半端な締め方かもしれないが、これも自分らしい…のかもしれない。

 今でも何故か強く印象に残る夢がある。特に頭に残るストーリーだった訳でもなかったけれど。
 自分は誰かの車の助手席に乗っている。ただ、生きているのではなく死んだ幽霊として乗っているのが何故かわかっている。しかも、自身が毒殺され たこともわかっている。そして、隣で車を運転しているのがその事件を捜査する刑事だ。おそらく、男だっただろう。そして、外には観覧車が見えた。     
 おそらく小学生の頃に見た夢だったと思うが、夢で情景、シーンを切り取ったようなものを見たのが変だったので、深く覚えているのかもしれない。

 ただ、記述の仕方でもわかる通り、この夢の記憶は非常に曖昧なものだ。実は前後にストーリーがしっかりとあったのかもしれないし、ともすれば、後付けで改竄されたものを当時の夢として覚えているのかもしれない。要するに、よく言われる通りに記憶というのは不確かなものだということだ。

 もしも、夢を見たままの記憶として残っているのなら、この夢を見たときは一体どういったものをその日に見ていたのか気になるし、自然に改竄していたとすればそれはそれでどうしてそんなことになったかは気になる。
 まあ今となっては確かめようがないが、毒殺されているというのもあって、あまり面白くはない夢だっただろう。夢がその日の記憶が脳内で整理される中で、睡眠の浅い状態の時に見るものだと考えると、ぜひとも常日頃から楽しい日常を過ごしていい夢を見たいものだ。

 (この小話を書いた当日には、家で蜂退治するという夢を見たがあれは一体…?)

好きの決意表明

 「好きの決意表明」。はっきりとは覚えてないが、Twitterかどこかで見た言葉で何となく心の中に残っていた。
 誰か…家族や愛する人、そして友人であったりに、タイプとしては異なるかもしれないが、大枠として「好き」であることをはっきりと伝えることは一般的なイメージではあるが、そうそうないだろうと思う。かくいう自分が家族や友人、そして以前に付き合っていた彼女にはっきりとそういった思いを言ったことはない気がするので、そういったステレオタイプに取り憑かれているのかもしれない。
 これもステレオタイプであるかもしれないが、欧米などではボディランゲージや言葉ではっきりと好意、あるいは友愛を伝えることが多いと思う。そういった諸外国の人達と同じようにまで伝えようとは思わないが。

 話を最初の「好きの決意表明」というものに戻すわけだが、誰かを好きであることは、当たり前だが恥ずかしがることではない。究極的に言えば、そういった思いを一人一人持っていることで、この社会が成り立っていると思うからだ。特に今のコロナの蔓延している時代では、人間関係が希薄になりやすいのでそうした思い、考えは大事かもしれない。ただ、最初にも述べた通りにそうそうきちんと思いを伝えるようなことはない気がする、明示的にも暗示的にも。
 自分自身も気持ちとしては当然持っているのだが、なかなか言葉や行動には出来ていない。ただ、まったくしない自分では居たくない。「決意表明」というほどではないが、ここではしっかりとそういった思いを少しづつでも表せるようにしたいと書いておく。こう書いておけば、これを見てくれた人には一応は「決意」したことにはなるので、その思いが自分の中に強く残っていくと願いたい。
 そして、これを書くのは蛇足になるかもしれないが、これを読んでくれた人も少しでいいからこういった思いを持っていてほしい。もしかしたら、日常がちょっぴり変わる…かもしれないと思う。
 
 

 

 


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