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「退日」

ロッシュ限界

惑星や衛星が、破壊されることなく近付ける距離の限界のこと。


 あの日から一年が経った。
 墓石に柄杓が当たると、かこんと間抜けな音が鳴った。水が抜けていくほどに軽くなる繪先を、落とさないために込める力の度合いが難しい。
「あー!先輩を叩いたな!」
 そう言いながら墓石の頭をぴちゃぴちゃ鳴らしながら撫でる伊織の愛らしさに、曖昧な笑みを向ける。
 
 三年一組、僕と伊織は同じクラスになった。担任に国公立を目指すことを伝えると入れる、学年でも一つしかない特進クラスだ。
 自称進学校のこの学校では、毎年国公立入学者を輩出する事へ全霊をかけていて、このクラスに入ると心なしか教員の態度も穏和かつ下手になる。
「もうすぐ夏休みだね」
 一限が終わると伊織は、いつも僕の席までやってくる。
「受験生に休みなんかあるか」
 夏は天王山とも呼ばれる。明智光秀が無念にも得られず、天下を転げ落ちたあの頂を全国の高校生が目指す。
「休まずに走るなんて無理だよ、だって人間だなも」
「なんか語尾が気になる」
「だも夏休みだね」
「語頭が気になる」
 受験中心のこのクラスは、どことなく生徒同士がよそよそしい。交流に時間をかけつつも、個人で頑張る分だけ、二年生の頃よりも互いに距離がある。
「だもだもももなもん」
「お前が気になる」
「それって恋?」
「違う」
 伊織は一年生の時に、停学ギリギリの問題を起こした兼ね合いで、一部の真面目な人達からは倦厭されていた。加えて二年生の頃はあまり学校に来なかったから、交友関係は微々たるものだった。
 そんな中で以前と同じクラスでかつ、陰気で何をやっても怒らず、この上なく御し易い僕のような人間というのは心強いのだろう。
「気になるといえば阿莉花ちゃんかな」
「おい野中に照準を向けるな、真辺がキレる」
 隣の席では、双子みたいな少女たちが編み物をしている。
 その席の主が野中阿莉花で、手前の机の椅子へ勝手に座っているのが真辺ふわだ。
 二人とも似たような外見をしていて、見分けるのが難しい。僕は二年生の頃に二人共と同じクラスだったから、今では直感的に分かるようになっていた。
「阿莉花ちゃん、何作ってるの」
「雪だるま」
 言われてみれば、円形が二つ並んだような形をしている。
「夏なのに?」
「暑いから、涼しげなものを作ろうと思って」
 阿莉花の机の前の座席を陣取って、アイボリーの毛糸を持っている真辺が説明する。
 丸い瑠璃色のボタンをあてられた雪だるまは、笑っているようにも無表情にも見える。

「ほら先生来たよ、席戻りな」
 野中が真辺の左手首をとんと叩いた。
 扉の方に目をやると、青色のジャージで中肉中背、くるくるしたパーマ毛な古典の先生が、気怠げに入ってきた。
「月曜の小テスト返すぞ」
 そう言って先生は三十六枚の答案を、机の列の先頭に、束ごとに渡していった。
 
 前の人と目を合わせないよう伏せながら紙を受け取る。その点数は分かっている。小テストは解き終わったら、毎度答案を隣の席と交換して採点し合い、戻して提出する。このかいは確か十点満点中の三点だった。
「ねえ」
右を向くと、野中がこっちを向いていた。
彼女の持っている雪だるまの視線が、僕の人中を射抜く。 
「鳥山くん、小テスト手抜きしたでしょ」
 僕の答案を採点した野中は、当然僕の得点を知っている。
「僕はやっても仕方ない人間だから」
「うわニヒリスト、鳥山くんはそうやってずっと自分を憐れんでいくのかな」
 単にやる気のない厨二病を腐らせたような、やさぐれだ少年でしかない。、
「去年もずっと私の次だったもんね、次席くん」

 僕は天才になれない、という予感。いつしか直感になり、疑いようのない事実になった。
 それは常に僕の上にいる、野中だけに由来する考えじゃなかった。

 この世には覆しようのない格差がある事を、僕は17歳にして知った。
 伊織は見たものを全て記憶できる、映像記憶の才能を持っていた。
 それを知ったのは去年の冬、寒さで強張った波音のする、海辺で砂を蹴飛ばしていた時だった。
 僕がオリオン座の三つ星を指差したとき、伊織はそれに続いてリゲル、シリウス、プロキオン、双子座のホルックスにカストルと繋いでいった。
「前に図書館で見た」
 まるで空に文字が書かれているかの様に、伊織は次々に星の名前を読み上げた。
「牡牛座の眼になってるアルデバランはね、冬のダイヤモンドを作る恒星の一つなんだけど、すごい赤いでしょ。あれは赤方遷移じゃなくて単におじいちゃんだから温度が低いせいなんだって」
 バナナの剥き方さえ知らない問題児の彼女が、どうやって入試を突破したのかそれまで不思議だった。
「あと牡牛座にはプレアデス星雲っていう星の集まりがあってね、あのもやもやしてる点々が見えるでしょ、あれは散開星団の一種で」
 流星群のように止まらない天体知識を聞かされている内に、耳は波の音へ傾いた。
 それからは初めて会ったときの服を言い当てられた。僕の顔は不安げだったらしい。
 最近見た本の話をされた。全てのページを見てから、暇なときに目を閉じて読むらしい。
 ずっとそれが当たり前の事だと思っていて「どうして知らないふりするんだろう」と首を傾げていた。"忘れる"という概念を、よく分かっていないようだった。
「経験したことが、経験していない状態に戻ることだよ」
「タイムスリップってこと?」
 釈然としない彼女は、また僕が冗談を言ったと思ったらしい。
 海の沖のずっと先に、今にも落ちてしまいそうなカノープスが瞬いていた。

 僕は極めて欠陥品だった。能のない代わりに優しいわけでも、顔が良いわけでも生まれが良いわけでもなかった。かといって悪徳でも、不細工でも悲劇の出自でもなかった。僕が抱えたのは一つ、ただ掃いて捨てるほど凡庸である、という事実だった。
 主星を廻る衛星の一つ、永遠に主役になりようがない、人差し指の一スクロールで忘れられる登場人物、それが僕の等身大だった。
 描き映えのしない人生は、誰かを彩るにも足りない。味も栄養もなくお腹を満たさない、空気を食べる人間はいない。
 時折は生きる意味、と深く考えそうになる。
 そして、そもそもこの思考の退屈さ!なんてあり溢れているのだろう!
 特殊なことを考えれば、特殊なことを考える凡人になり、普通を極めては天井がある。いっそ犯罪に走ろうにも、半端な倫理観が心臓に根を張っている。
 居なくなって尚、彼女の心を縛り続ける男と、僕は何が違うのだろう。

「蒔白くんって人に嫌われるのは怖いのに、自分に嫌われるのはいいんだ」
 野中は目をゆっくりと細めて、黒板に向き直った。



後日追記

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