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「被害者行進曲」

 ダンダラダンダン、ダンダラダンダン。
 小気味良いリズムに、歩を鳴らして歩く。
 脳内ではアントニオ猪木の、リングインがオーバーラップする。ボンバイエ、汝鮮血を求めるものなり。
 ターゲットは我々が持て余した退屈のために、持てる兵力を総動員するなど夢にも思わぬことだろう。
 脳内ディスクジョッキーが、猪木から映画アルマゲドンのテーマ、ヴェルディのアイーダ、君が代と徐々にネタ切れを始める。後半は殆ど東京事変と相対性理論のシャッフルだった。

 我ら伊佐並寛治被害者組合は、本日早朝、作戦本部兼、雀荘であるたっちゃん宅へ一同に会した。
 眠たかった。大学二年の貴重な春休みが、こんな呆けたゲバルト擬きに付き合い、空費されていくのだと考えるとやきもきして暴れ出しそうだった。

 当被害者組合は総勢十三名から成る、単なる学生の被害者という集合の特異性に対し、珍しい大所帯である。尤も、被害者と呼べるのは中心の三人であり、私含め残りの十名は、三人を煽り焚き付けて、その業火でマシュマロを焼くクソ虫である。
 その中心の三人とは、肌着が常にタンクトップである遠藤、眼鏡の度数が強過ぎて目が小豆みたいな赤石、今回の行進を提案した上杉である。
 彼ら三人はそれぞれコードネーム、ないしは渾名があって、遠藤は戦車、明石はドス、上杉はたっちゃんである。
 遠藤の戦車は、もちろんタンクトップから由来するが、彼は重さ百キログラムを越える巨体の持ち主で、よくお祭りの群集を掻き分ける際に猛威を振るう。彼の猛進にかかれば、熱に浮かれたカップルの恋人繋ぎなどは綿飴のように簡単に引き裂かれる。実に信頼のおける男だ。
 他二人の渾名については、明石のドスは眼鏡の強い度数から、上杉のたっちゃんは上杉達也からである。
 以降は彼ら三名をコードネームで呼称するため、ご理解とご協力を承りたい。

 それにしたって、三人から同時に怨恨を浴びる伊佐並寛治とはどんな人物であるか。記憶を巡ったが僕はぼんやりとしか知らない。
 彼を見かけたのは学食で遠目に数回、一般教養の講義の数回程度で、その人柄や人物像に対してこれといった印象がない。
 裸眼で髪は黒く、少しだけ長い。顔はとても平凡で、思い出そうとするとのっぺらぼうになる。服装も量産型で、ひとたび電車に乗せれば一瞬で溶け込んでしまうだろう。
 強いて一つイメージを挙げるなら、麻痺属性の攻撃をしてきそうだと思ったことがある。これは偶々聞いた声がダミだった所為かも知れない。
 
 我々は行進を続ける。真座生駅を越え、笹嶋駅を越え、立川マシマシを経由し、目指すはあいつの籠城する伊佐並家である。
 僕は薄々予感があった。
 それは口にするにも悍ましく目を背けたいものであり、伊佐並の家に着いたとき確信に変わった。
「これ現地集合でよくね?」
 誰かが言った。
 言い出しっぺのたっちゃんの家へ疑いを持たず集まった男たちは、存外に長い距離に辟易していた。
 中心の三人以外で重い瞼を擦りながら辛うじて集まった精鋭の四人は、既に飽き始めていたのだ。

 伊佐並は実家暮らしだった。100平米ぐらいで三階建ての一軒家、中流家庭と呼ぶには僅かに豪奢な印象を受ける。しかし全体的に無難というか、やはり没個性的で記憶に残らないように思える。
 他所様のお宅に朝早く大人数で押しかけるのは気が引けるが、乗りかかった舟だ。ここまで脚を中心とした労力をかけての無駄骨は避けたい。
 乗り込む第一歩をみんなが躊躇う中で、戦車がインターホンを押す。こういう時の先陣を切る力は尊敬に値する。
 戦車は僕達の間で、切込隊長的な立ち位置であるという認識が強い。そういった勇ましさに憧れる男は多く、彼の背中はいつだって広く、力強く、偉大で、汗ばんでいる。
『やあ君たち、朝早くから群をなして一体なんだというんだい』
 インターホン越しに、伊佐並のダミ声がする。
「お前に話がある」
「居るんだろ、出てこい」
「心当たりがないとは言わせんぞ」
 戦車、ドス、たっちゃんがやいやいと応える。一人一人は陳腐な奴等だが、成人男性三人となるとそれなりの威圧感が生まれるものだ。
『そうかい、僕は話す事なんてない。それと、今こうして喋っているんだから居るのは当たり前だ、少しは考えてものを言いたまえ』
「伊佐並!貴、ふぐっ、、、!!!」
 ドスが早朝の住宅街の中だというのに大声で怒鳴るため、戦車が彼の口を分厚い左手で塞いだ。反応から行為まで一秒もかからなかっただろうか、実に洗練された動きだ。
「ドスが暴れそうだ伊佐並、取り敢えず一旦は中に入れてくれないか」
『分かった、だけど僕の家はそこまで広くないからね、入る人間を決めさせてもらう』
 そう言うと伊佐並は戦車、ドス、たっちゃんの三人。加えて僕を指名した。

 早朝だというのに身形の整った伊佐並に連れ立って部屋に入ると、これまた個性のない部屋だった。埃を被ったギター、途中で買うのをやめた漫画、大学生協で購入したパソコンの隣に、専門書らしきものが山積みになっている。
 伊佐並は確か教養学部で、またもや掴み所のない印象がある。高く積まれている内の、武田砂鉄や岸政彦は僕も聞いたことがあるが殆ど新品のようだ。
 伊佐並は部屋の奥角のベッドの上に座り「まあ座りなよ」と促した。スペースの関係上僕らは床に座って、少し伊佐並を見上げる形になる。
「で、揃いも揃ってどうしたんだい、誕生日なら来月の15日だよ」
「別にお前を祝いに来たんじゃない」
 戦車が食い気味に応える。
「ドスとたっちゃん、そして俺、この並びに心当たりはないか?花田が居るのは分からないが」
 花田とは僕のことだ、渾名ではなく単なる苗字である。
「心当たりがあるに決まってるじゃないか!だって家に俺達を入れるとき指名したのは伊佐並なんだぞ、私はこいつが何を企んでいるかは知らないが、事態が既に奴の手中なのは確かだ!」
 ドスは喋りながら、伊佐並からこいつ、奴へと三人称が変わる。しかし極度の近視な割に、冷静な視野だ。
「私たちは集まった、貴様を吊し上げるためだ、私と戦車にたっちゃんは等しく被害者だ、貴様のな!」
 「私は」とドスは被害の全貌を語り始めた。それは後期末試験の二日前、事件は起こった。ドスが論理学のノートを貸した伊佐並が、煙のように消えたのである。LINEやDiscordの返信は途絶え、大学指定のメールアドレスにも音沙汰なく、SNSの類も更新がなかったらしい。
 前日に追い込むタイプであるドスはパニックになり、同講義で伊佐並の他に知り合いも居なかったドスは、誰かにノートを見せてもらうことも叶わず涙と共に成績を落とした。
 とはいえ彼は常日頃から切磋琢磨している為、A+がBになっただけで、他の怠惰極まる学生たちからすればしっかりと好成績である。因みに伊佐並は試験当日に何食わぬ顔で現れ、揚々と単位を取ったらしい。
「貴様の罪は二つ、私のGPAに傷をつけたこと!そして私のおかげで自分は単位を取ったのに、そこに感謝も謝罪もないことだ!!!」
 なるほどね、と伊佐並は表情を全く変えずに呟いた。
「ドス、君はどう生きるつもりなんだい」
 思わぬ角度の質問にドスが狼狽える。僕は意表を突かれ、ちらりと戦車を見ると、彼も眉を顰めて伊佐並の意図を量ろうとしているようだった。
「どうって」
「僕はね、君の為を想って言ってるんだ」
「話が見えないぞ!」
「君は極度な近視だね、周りが見えていないんだ、いや、敢えて見ようとしてない、何故か、それは怖いからだ」
 責められているにも関わらず、伊佐並はひどく冷静で、どこか温かみのある声だ。まるで母親が、癇癪を起こす子どもを宥めるみたいに。
「怖い?私に怖いものなどない、ある訳がない、何者も私へ脅威的に差し迫ることは出来ない」
 伊佐並の煙に巻く様な物言いに、ドスが少しずつ苛立つ。彼の所為で積み上げた努力が崩壊したにも関わらず、その根源は悪びれた素振りが一切ないのだ。
「ドス、君はずっと勉強ばかりじゃないか、完璧なまでにね、完璧主義が行き過ぎている、一度しかない青春を、君はちゃんと取り返しがつかないものにしなければいけないのに」
 間違いなくドスは、伊佐並が青春と口にした時に、ぐわりと揺れた。
「貴様に何がわかる、青春だなんだってのは商業戦略が生み出したファンタジーだ、あんな俗物に憧れるのは矮小な人種のやることだ」
 ドスは話しながら必要以上に手を振りまわし、伊佐並の言葉を跳ね除けようとした。
「本当に、君は本心から言っているのかい」
「当たり前だ、私は頭に花が咲いた奴らとは違う」
「君は楽しそうな集団を見ると、悪口を言いたくなるだろう、碌な大人にならないとか、学ばないなら学生を名乗るなだとか」
 確かにドスは日頃から、燥いている連中を見ると罵るところがあった。そして単位を落とした人間を見つけると、嬉しそうな、少し安堵した顔を見せるのだった。
「他人に口を出したくなるのは、自分が満足していないからだ、その執着の本体は後悔じゃないのかい」
「私は何も間違ってない、学生の本分は勉強だ、勉強なんだ、そうだ当たり前だ、勉強する為に私は大学に通っているんだ、畢竟は愛だの恋だのは脳下垂体のフェニルエチルアミンによって、苦しみはコルチコトロピンによる、だからその」
「ねえドス、選ばなかった自分を認めるのは怖いよ、臆病で踏み出せなかった自分を認めてしまったら、自己を否定する事になるからね、でも死ぬまで逃げ続けるわけにはいかないだろ」
 いつかは呪いを解かなきゃいけない、僕は君の青春を台無しにしたいんだ。
 伊佐並はじっとドスを見つめている。柔らかい心が繚乱な感情を包み込んで温めていって、ドスはやたら倍率の高い眼鏡を外して落涙した。
「つまり私に成績を落とさせることで、完璧主義に終止符を打ったのか。もう二度と私が逃げられないように、後悔しないように」
 ドスの学問に対する異様な執着は、愛情飢餓と承認欲求だったのかも知れない。求めているものに辿り着けないあり様に、伊佐並は気付いて手を加えたのだ。
 少し空気が和んでしまったが、僕達は思い出さなければいけない。
 被害者はドスだけではないのだ。

「な、なら俺の場合も俺のことを想ってなのか?」
 「俺は」とたっちゃんは彼の被害を語り始めた。それは雪の注意予報が出た二月の事だった。
 たっちゃんはバトミントンサークルに所属しており、そのメンバーである南山という女性に片想いをしていると専らの噂だった。
 しかし一介の学生の片想いが、サークル外部の僕の耳まで届くのは正直珍しい。何故ならサークル自体は数百人規模、同学年で数千人在籍している我が校では、比べ物にならない過激な話が白昼堂々に出回っているのである。
 そんな中で彼の片想いをそこまで有名にした理由は一つ、彼の話し方だった。
 たっちゃんは南山さんと話す時だけ、五回に一回声が裏返るという特性を持っていた。これが本人は無自覚で、次第に南山さんも真似をし始め、いつの間にかサークル外でも使われるミームまでに大成長を遂げた。
「俺はな伊佐並、お前のせいで振られたんだ」
 ある日たっちゃんは南山さんに呼び出されたらしい。好きな人からの呼び出し程、胸を躍らせるものはないだろう。
「達也くん、気になる人いるんだっけ」
「あ、ああ、いるよ」
 きっと、もしかして告白されるんじゃないか、といった類の期待を抱いていたに違いない。
「それって私の知ってる人?」
「そうなんだ、今すごく近くにいる人なんだけど」
「あっ、やっぱり?」
「え、やっぱりって知ってたの?」
 遂に言われたのだ、さっさと振ってやれと。
「面白かったけど、伊佐並くんに言われて流石に可哀想かなって思い始めて、てか私好きな人いるから、ごめんね」
 幸せをその直前に振り落とされた感覚、たっちゃんの絶望は計り知れなかっただろう。

「これ伊佐並悪くなくない?」
「俺もそう思う」
「私も同意見だな」
「ありがとう君たち」
 僕が伊佐並を擁護すると、戦車とドスが同調した。伊佐並はたっちゃんから視線を外さない。
「な、なんだってお前たち、俺は伊佐並の所為で振られたんだぞ、それも伊佐並が南山さんに俺を振れって命令したから!」
 もともと大人数で一般人の実家への殴り込みを指揮するぐらいだから、ある程度考え方の浮世離れは認識していた。しかしここまで手の施しようがないと誰が想定し得ただろうか。
 この可哀想な生き物を如何に鎮めるか全員が思索を巡らせたとき、伊佐並が口を開いた。
「君は南山さんが好きかい?」
「え、ああ好きだ、当然だろ」
 弁明を予期したたっちゃんの反応は少し遅れたが、依然として憎しみが声色に表れている。
「ではいつ、何処で、彼女に好意を伝えるつもりだった?」
 それは、とたっちゃんは口籠る。僕らは来年三回生で、インターンの申し込みやゼミで忙しくなる。同学年の南山さんも同様だろう。
「でもタイミングというものがあるじゃないか、俺は南山さんを困らせないように、もっと自然な流れで告白するつもりだった」
「自然な流れね、タイミングを待って少しずつ距離を詰める予定だったんだね」
「そうだ、LINEは偶に返してくれるし、インスタも三ヶ月前に教えてもらった、軌道に乗ってたんだ」
 なんて純朴な男なんだろうか、僕はなんだかこの男を救ってやりたいと思い始めた。伊佐並の影響だろうか、ドスも眼鏡の奥の小豆みたいな目が優しく光っている。
「あそこにギターが置いてあるね、埃をかぶってる」
 伊佐並は部屋の隅に立て掛けられたギターを指差した。弦の錆具合から、少なくとも数ヶ月は放置されている。
「僕はあれを半月以上触ってない、恐らく今後数ヶ月も弾かないだろう」
 たっちゃんは伊佐並の言葉の意味が分からないといった様子だ。
「人はね、出来なかった物事が急に出来るようになったりしないんだ、初めてなら未知数だ、でもやらなかったという実績が確かにあるんなら別だ」
「何のことだ、ちゃんとLINEしてる上にインスタを教えてもらったんだ、出来ていないどころか順調だった」
「たっちゃん世間一般でそれは、アプローチとは呼ばない、君はたった一度でも彼女に好意を伝えたのかい」
「そんな事できるわけないじゃないか、そういうのはもっと自然な流れで伝えるんだ」
「正にそれさ、僕たちはもう直ぐ三回生になる、君は約二年の歳月がありながら、たった一度も自然な流れを生み出せなかった、もう時間がないんだよたっちゃん」
「そんなの、チャンスがなかった、運がなかったからだ」
「一年間で色んなイベント事があったね、二年間なら尚更、僕はあれを恋愛の付属品として括りたくないけど、きっかけにはなった筈だ。君は自然さに拘るけど、本来なら恋愛という不自然な関係は不自然に始めるしかないんだ」
 映画やアニメのような恋の、多くは不自然さを受け取る側が主役になる。人はこれを自然な事だと錯覚してしまう。
 友達のような関係から恋人に発展するとしても、最後は飛び越えなくてはいけないハードルがある筈だ。
「君は臆病なだけだ、南山さんに迷惑かけないように自然にと言いながら、拒絶されるのを恐れた小心者だ」
 たっちゃんは薄々、自信がないことを自覚していた。そんな彼が彼女と直接話すときの、勇気はどれ程だったのだろうか。
「そんな人間に彼女を幸せにする事が出来たのかい、僕はそうは思わない、万が一付き合えたとして顔色を伺い続ける臆病者のままだ」
 たっちゃんはもう反論する気力がないようで、俯いて自分の握った両の拳を見つめている。
「そんな奴はとっとと振られればいい、相手の事より自分を重んじていながら好きだなんて嘘だ、だから君は嘘つきだ」
 惨めに縮こまっていくたっちゃんの背中は、戦車の隣に座っている所為で相対的にかなり小さい。まるで母親に叱られる子どもの様だ。
「臆病者で嘘つきの君の恋は終わった、僕がとどめを刺したんだ、君に彼女を好きになる資格なんてないよ、だってまだ一度も好きだって言ってないんだろ」
 ハッとたっちゃんが顔を上げた。伊佐並の慈しむ様な目線と出会って、たっちゃんはとうとう涙し始めた。
 最期に振られる瞬間でさえ、たっちゃんは南山さんに好意を伝えられていない。殆ど二年間独りで拗らせ続けた恋が、不完全に終わったのだ。彼はこの後悔を一生抱えて生きていくのかも知れない。
「告白せずに振られた君の傷心はどうだろう、いま僕に憎しみを向けるのはいい、でもいつか、いつかは己の行動の不甲斐なさにちゃんと向き合うべきだ」
 たっちゃんはどういう心境だろうか、伊佐並に責任転嫁しなければ耐えられない程の恋だったのだろうか。それを伊佐並自身に宥められ、何を感じているのだろうか。
 たっちゃんが静かに啜り泣き、それを伊佐並は上から肩に手を回して、頭を優しく撫でた。
「仮に、それでもまだ諦められないって言うなら、君の片想いはやっと始まったんだ」
 もう一度聞くけど、と伊佐並はたっちゃんに目を合わせる。
「君は南山さんが好きかい?」

「すまなかった伊佐並、俺は思い違いをしていた、お前はいい奴だ」
 たっちゃんは丁寧に、伊佐並へと頭を下げた。僕は成人男性が粛々と泣く姿を連続で見せられ、面白いという気持ちがないと言ったら嘘になる。しかしそれらは彼らの呪いを解くもので、やんわりと晴れやかな心持ちにもなっていた。
「戦車の被害って、自転車壊されたんだっけ」
 僕は水を差すように、好奇心をぶつける。
「ああそうだ、あれのせいでバイトに走って向かう羽目になった、ペース配分間違えて早く着いちまって退屈したんだ、責任を取れ」
 何で走った方が早いんだろう、と思ったが、彼の体格ならあり得ない話ではない。
「戦車の自転車なんだけど、あれは不慮の事故だ、弁償しようと思ってて」
 伊佐並はリュックの中からファイルを取り出し、その中から茶封筒を取り出した。
「これ修理代にして」
 戦車は少し多めに金額が入っているであろう茶封筒を受け取ると、そういうことなら、とそれ以上伊佐並を責めることはしなかった。
 
 仰々しくも大人数でかち込んだ被害者の会は、和解という結果になった。伊佐並のおかげで彼ら3人の人生は多少なり変わっていくであろう。
 それは、僕も例外ではなかった。
「ところで花田、君は彼女がいるよな?」
 三人の視線が一斉に集まる。まさか、そう、まさかである。ゴタゴタを外野から鑑賞し、時には助け、時には嘲る、そんな僕に恋人がいる。ほんの一瞬であまりに分かりやすい弱点が曝け出されたのである。
「なあ花田、君は葛西なんてつまらない女に収まる器じゃない、なんだい趣味が手芸って、アバウトじゃないかい」
「なんでそんなこと知ってるんだ、お前らに知られたら面倒臭そうだから黙ってたのに!」
「貴様は前に恋とか要らない、勉強が恋人だって言ってたよな、それを裏ではしっかり女と宜しくやってたのか」
 ドスがぎらりと僕を見る。
「俺が南山さんの事で悩んでる間、高みの見物してたんだな花田、さぞ楽しかったろうな花田」
 たっちゃんの鋭い視線も合わさる。
「俺はまあ、面白いやつだし彼女ぐらい居そうだなって思ってたけどな」
 戦車はブレない、彼がおかしいのは人間離れした体格のみだ。
「花田、葛西はA型らしい、しかも文学部で夏目漱石を好むらしい」
「なんで詳しいんだ、気色が悪いぞ」
「趣味は手芸とYouTubeを観ること、なあ平凡すぎないか花田」
「何故マイナスみたいなニュアンスなんだ、寧ろ愛らしいだろなにが悪い!」
 伊佐並のじっとりとした眼が僕を見つめる。
「花田、君には僕の助手になって欲しい、僕と一緒にこの大学に在籍する全ての冴えない男たちに青春を届けるんだ、恋人がいたら活動に集中出来ないだろう」
「断じてやらん!危うくお前をいい奴だと思い始めていたが正体を表したな!」
「君には才能があるんだ、僕はそれを求めてる、でもどうやら強行策しかないみたいだ、ドス、たっちゃん、花田を捕まえたまえ」
 鼻息の荒い男二人がじりじりと近寄ってくる。戦車は一瞬止めに入ろうとしたが、暴行の意思がないと分かると傍観を決めた。
 僕に才能があるなんぞ耳を疑うが、あるとしたらそれは、逃げる才能だ。
 僕はドスの右手をしなやかに回避して、たっちゃんの掴みかかる両手を横から打ち払った。伊佐並は座ったまま動かない。
 そのまま部屋の入り口まで駆けて、力一杯押す、すると打撃音が鳴った。
「ごめんな花田、それは内側に開くんだ」
 男二人に囲まれ、ドアを開けるスペースを失った僕はあえなく捕まった。
「僕をどうする気だ、何をされても葛西さんへの気持ちは変わらんぞ、僕は謀略と暴力には屈しない!」
「君がどうあるか、それは関係ないんだ、今から葛西の君への好感度を叩き落とす」
 伊佐並は徐に立ち上がり、クローゼットを開けた。中から顕現したのは夥しい数の仮装グッツだ。いつから用意していたのであろうか、伊佐並の趣味か或いは、始めから予期していたのか。
「花田、君を魔改造する、そして仕上がったあられもない姿を葛西に見せつけてやる」
「なんたる羞恥、それでも人の子か!」
「僕は目的の為なら手段を選ばない、さあ先ずはこの緑色のピエロの鼻だ」
「やめてくれ、赤色じゃないのが絶妙に気色悪い、よせ近寄るな!」
 いくら抵抗しようとも、男二人に掴まれた状態ではなす術はない。
 数分後そこに居たのは、金色のカーリーヘアに角、誕生日おめでとうのサングラスに緑のピエロの鼻を付け、上裸に天使の羽を生やし、全体を光源がアクリルで包まれた電飾で巻かれた、神聖で哀れな男一匹であった。
「僕が右手を画面に落とせば、君の写真は葛西に送られる、最期に言い残すことはあるかい?」
 僕のスマホが奪われてしまっている。顔認証を登録したことを後悔する。おかげで僕のLINEアカウントから、僕の醜態が送られる寸前である。
「葛西さんに、愛してる、と」
「ほう、なんて曲がらない信念!やっぱり君は助手にふさわしい!!!」
 伊佐並は一人で昂って送信ボタンを押した。
 ぽんっとラインの送信音が、虚しく響いた。
 
「ね、ねえ花田くん、ハンバーグ美味しい?」
 僕はいま、葛西さんの家で手料理を堪能している、もちろん美味しいに決まってる、君がこねたなら僕は土塊だって喜んで食すだろう。
「よかった、スープもあるからね?」
 有り難い、少し冷えた身体にこの温度は沁み渡る。春が近いとはいえ、上裸は少し肌寒いのだ。
「花田くん、私その格好ほんっとうに大好き、可愛い」
 神聖で哀れな男一匹は、恋人の不埒な扉を開けてしまった彼を、伊佐並を絶対に許すまいと誓った。
「葛西さん、お米おかわり」

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