「日記」
自分のコミュニティがある。自由帳の様なコミュニティだが、無料で消費するコンテンツにしては少々刺激的で面白いものかもしれない。2年ほど前、コミュニティにて日記というコンテンツをみんなと共有しようと作ってみたんだ。日常的なあまり揺るぎのない感情が垣間見える瞬間が好きだ。今、本当はこんなことしている場合ではない。俺は今すぐにでもペンを握り勉強をする必要がある。もうすぐテストだ。しかし俺はいつだって、いつか誰かが言っていた机に向かうことだけが勉強じゃないというその人の真意もわからない言葉を妄信して、やりたいことだけをやっている。あるいは、やりたくないことをやらない。多くの場合はそれだ。しかし生きていく上で、自分の選択に伴った果たさなければいけない最低限の義務の多くは俺にとってはやりたくないことだ。反射的で本能的な日暮らしを繰り返す。そういう日常の多くに感情の起伏はあまりない。何か新しいことを始めてみようにも、何から始めていいかもわからない。いつも何かを始めるときは友人からの誘いか、それ以外に選択がない場合だ。すべてに興味がない。他人のやっていることはどうでもいい。自分が何をするのかもどうでもいい。「最近まで」俺にはそれを選択する自由すらなかった。しかしどうだろう。俺は今この文章を書いている。人が書く文章を読んでいる。どうでもいいのに本当にそんなことをするのだろうか?最初は純粋な疑問だった。いつも通り、そんな疑問に無意味に時間を割いて無駄にリソースを消費する前に頭から消そうとしたとき、ある人に言われた言葉を思い出した。「椅子に座り疑問に思うだけでなにもしないことをやめよう。行動して初めて何かが生まれる」と、ニュアンスの違いはあるかもしれないが、俺が言われたのは大体そんなことだ。しかし俺という人間は時に、日常を生きる中で空ききったお腹を満たすことすらめんどくさい。ハッキリ言って最初から生きていくことすらもめんどくさい。最初から幸せになるということに必要性を感じられない。自分自身それが欲しいとすら思っていないと最近まで思っていたのだ。しかし、恐らくそれらはすべて嘘だ。考えと行動の矛盾ですぐにでも証明できる。人を笑わせたい、人を幸せにすることで自分が幸せになる。今までそう思って生きていたが、それが自分の真意なのかすら定かではない。自分が自分の真意に嘘をついているのか、自身の興味を抑制しているのか、どちらにしても見事なまでの解離だ。自分がどのようなハンディキャップを背負っているかはよく知っている。だからこそ俺はうまく嘘をつける術を身に着けた。自分を欺けない嘘では人を欺くことすらできないのだ。そして欺いた報酬である平穏で起伏のない日常がいつもそこにある。賢くない選択だが、俺は最初からそれ以外の選択を自分で知りえるほど賢くなどない。そして、その日常とは俺が求めるものと近いようでまるで違う。前に言ったが、表面的な意味よりも俺が言いたかった言葉には少し含みがある。偽りの「調和」は必要がない。あまり適当な言葉ではないが必要悪というものは普遍的に尊重されない。少し誤解のありそうな言葉だが、ニュアンスだけでも理解してもらえれば俺の意図通りだ。必ずしもという訳ではないがその多くに被害者がいる。それでも、気遣いは無償で消費されるべきではない。優しさは吐き捨てられるものではない。お互いを知る必要もある。当然だが、ギブアンドテイクであるべきだと。しかし見返りを求める思いやりというのもまた違うだろう。つまりは調和だ。平和を乱す人間を許せるほど俺は寛容じゃないのだ。そしてその人を被害者としてしまう。加害者も被害者になり得る。その被害者であり加害者である傷付いた人を俺は見放すこともできない。だから、最初から触れないんだ。この場合の来るもの拒まず去る者追わずというのは優しさの欠片もないだろう。そして俺はこれを誰がどのような受け取り方で読むのか、最初から分かっている。だからこそ「日記」ではなくここに書くのだ。これは自ら行動する初めての非日常の1ピースだ。そうでなければ俺はまるでキチガイのように振る舞うしか方法をしらない。俺は君らが思うようには優しくはない。俺は個性的ではない。その個性のすべては枯渇した。時には命を天秤にやるせない選択を迫られることもあった。少々悲観的で被害者ヅラが激しいかもしれないが、俺はこれを被害とその経験以外ととらえられるだけの経験値を持っていない。人々が自身の糧をどのように次にパスを繋ぐのか、俺は知らない。俺が今、幸福が幸福を生むと信じて生きるというのは、不幸が不幸を生むというのを身をもって体験しているからできる事だと思ったのだ。それが俺の得た経験というものではないだろうかと思う。なにもいらないし、何も得ていないというのは噓ということになる
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