オザケンのツイートが、おかしい
前々から、「意味わかんねえな、これ」と思っていたオザケンのツイート。
90年代~現在を東京で過ごした男が、若者からオッサンになるまでを描いた、「ボクたちはみんな大人になれなかった」と言う映画に、この小沢健二と言うオッサンは「90年代における若者の憧れの存在」として(作品と歌のみで)登場しているらしく、彼はそのプロモーションツイートに長文を費やしているのだが、プロモーションにも関わらず、この小沢のオヤジ野郎は、様々な理由からこの映画を未だ直視できずに居ると言う、訳のわからない事を供述しているのである。
でもその割に、「オリーブ世代はこの映画に向き合え(笑)」などと言って、妙にえらそうだったりもする。
何が彼をそうさせるのか。また、何故、ファンが反発もせず彼の言い分を黙って聞き入れているのか。その辺の経緯が私にはよくわからないのだが、一応映画を観ない事には何も始まらないので、ヒマだし、ネトフリでサラっと観てやった。
・・・何か、いつも思うのだけど、業界やサブカル界隈の人間が「食えた」「釣れた」オザケン女性ファン像ばっかりを映像化するの、いい加減やめませんか?そして、私たちがおばさんになったら、今度は「90年代リバイバルがオシャレ」みたいなテイで若者を釣ろうとしてさ。その欲深さと浅さが透けて見えて、私は、眩暈がしてくるんだよ。もう本当きらい、商売っ気のある渋谷系モノって。
あと、主人公の彼女が、オザケンと共にオーケン(筋肉少女帯)のファンであった事もしっかりと描かれているのに(だからインド好きで厭世的な部分があったのだろう)映画でオーケンの音楽を一曲も使っていないのは、はっきり言って、アタオカレベルじゃないのか。どんだけ別ジャンルの音楽+90年代を生きた女のリアル、舐めてかかってんだ。
原作はどうなのか知らないけど、映画で小沢健二の音楽だけを使うのなら、映画版彼女を「小沢健二フリーク」と言うキャラに徹底的に作りこむべきだったと思う。
業界の渋谷系オヤジにかかると、いつも大体そうである。「90年代を生きた」と言う人間の歴史を、「渋谷系を生きた」と言う人間の歴史に変えてしまう。渋谷系って言っときゃ、男ブスでもモテるから。
小沢さんのフリッパーズ時代の曲に、ほっぺたつねってからじゃないと他人にハローと言えない天邪鬼な従兄弟の話が出てきて、私はその曲が大変好きなのである。小沢さんの曲と言うのは、いつもそう言った、「誰かに伝え忘れていた素朴な親愛の情」に溢れている。そこにオシャレな部分も文学的な部分も加わり、高度なバランス感覚の上でそれら全てが成り立っているから彼の音楽は素晴らしいのであるが、このままこう言う映画ばっかりを見せ続けられると、私は小沢さんのほっぺたをただ意地悪に捻るだけでそっぽを向いて帰ってしまいたくなる。
あと、小沢さんが相当年上であっても「小沢君」と気軽に呼ぶ文化がファンの間で根付いているのなら、「映画見たくないでちゅ~~!!」と「小沢君」がゴネた時点で、「小沢君?」「小沢君・・・!?」「しっかり!」「気を確かに!」とみんな気軽に突っ込んでやれよ、と本当に思う。
映画に曲提供しといて、ファンにプロモーションもしておいて、あげく自分は観ないなんて、奥田民生が泥酔してステージに上がるのと何が違うんだよ、それ。マジ仕事しろ。(ほっぺぎゅー!!)
まあアレだ、映画の感想は、ハローアゲイン小沢健二!!って事で。