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Tempalay『月見うどん』の感想

私にとっての静けさ

最近、少し音楽を聴けるようになってきた。頭の中の騒音が減ってきたからかもしれない。

私には苦手な音がたくさんある。大人になって音嫌悪症(ミソフォニア)という病名(?)を知った。
子どもの頃から咀嚼音や鼻水をすする音が苦手だった。多くの人は無視できる音が気になってしまう。だから人の多い場所へ行くときは、イヤホンか耳栓がないと怖い。

Tempalay Tour 2024 “((ika))”(愛知公演)の日記を書いているとき、ふと、私は静けさに関する言及が多いことに気が付いた。
「苦手な音がしない」という静けさも好きだけれど(というか、そうでないと辛い)、私の愛する静けさは音のしないことというよりは、心の平穏、心に波風が立っていない状態のことを言うのかもしれないと考えてゆくようになった。

音のある静けさ

この前読んだ最相葉月さんの『れるられる』に「静けさは無音とは異なる」と書いてあった。

映画は祈りを捧げる若い修道士の横顔から始まる。あたりは薄暗く、静かである。静けさは無音とは異なる。ガウンの布が擦れる音、ミサの始まりを告げる鐘の音、グレゴリオ聖歌、礼拝堂に向かう修道士たちの足音、湯の沸く音や野菜を切る音、散髪をするバリカンの音、そして祈り。かすかな音があることによって、観る者はむしろ沈黙に耳を傾けるようになる。

最相葉月『れるられる』107頁

これはフィリップ・グレーニング監督『大いなる沈黙へ』というドキュメンタリー映画の一場面だ。
この映画は観たことがないけれど、かすかな音があることによって、沈黙に耳を傾ける、静けさが意識されるというのはよく分かる。
自由がないと不自由という概念が存在しないように(逆もまた然り)、静けさもそういうものなのだろうかと考えた。

私はnoteにTempalayの曲とライブの感想ばかり書いているので、おそらく静けさに関する言及もそれらに関連することだ。
今回感想を書きたいと思った『月見うどん』や『大東京万博』は静けさを感じさせる。
単純に音の数が減るときにそう感じさせるのか、無意識に激しめな曲と比較しているのか、歌詞に描かれた風景がそう感じさせるのか、はっきりとした理由は分からないが、これらの曲が静けさについてより深く考えるきっかけになったことは間違いない。

頭の中の静けさ

私が明確に静けさを意識し始めたのは星野道夫さんの『約束の川』を読んでからだ。
2022年6月26日、ドミコと小原綾斗とフランチャイズオーナーのライブを観に行く前に倉敷にある蟲文庫さんを訪れて購入した。

蟲文庫さん

本を読んでこんなにも頭の中がクリアに、静かになったのははじめてだった。帰りの新幹線で泣きながら読んだので(隣に人がいなくて良かった)、涙を流して副交感神経が優位になり、リラックスした気持ちになったことが大きいのかもしれない。
もしくは、星野さんの描くアラスカの雪景色を思い浮かべたことが静けさをもたらしたのだろうか。

『月見うどん』に描かれた景色は、物悲しい感じがする。「不思議に夜は晴れて」とあるから殆ど雲はなく、月の浮かんだ薄暗い空をイメージする。
「祭りの音がする」し「飲めやれや」とあるので、人で賑わうところを思い浮かべはするけれど、それらは遠くで聞こえる祭囃子のような距離を感じる。

苦手な音を遮るため、環境音楽を聴くことがある。YouTubeで「祭りの音」で調べるといくつか出てくる。人々の話し声や、歩く音、祭囃子が聞こえて決して静かではないのに、どこかしんみりとした気持ちにさせられる。
この感覚が日本人に共通するのか、一部の人だけなのかは分からないが、そんな風に感じる私は『月見うどん』の歌詞にも一種の静けさを覚えるのだ。

人が身体を持つこと

いつからか、人が身体(肉体)を持つことの意味について気になるようになった。
以前、体調不良の原因を調べるため病院へ行ったら、別の病気が見付かったことがあった。
私が地味に感じていた疲れやすい体質は、どうやらその病気が原因らしいということが分かって色んなことが腑に落ちた気持ちになった。
健康には食生活や睡眠、運動が大切だと言われる。いくら規則正しい生活を送っても改善された気がしなかった。それは私の努力不足が原因ではないようだ!(あんまりうれしくはない)

私が子どもの頃から読書が好きなのは、私が頭で読書が好きだと感じているものだと思っていた。
もしかしたら私の身体が普通の人よりも疲れやすいから、野球やサッカーや登山といった身体を使うようなことではなく、読書という肉体疲労が少ないことが好きになった側面もあるのかなと思った。

私(たち)は、何でも頭で考えて判断していると思ってしまう。頭(脳)に依存する部分は大きいとは思うが、全く身体が関係ないなんてことはないと思う。
私が静けさに惹かれるのも音嫌悪症という耳(身体の一部)の病気があるから、ただ音がしないという静けさだけでなく、心の平穏や物悲しい雰囲気といった静けさの親戚のような概念にまで惹かれるのだろうかと考えたりした。

でも、音嫌悪症は耳というより脳の病気なのかな。脳だって肉体の一部と言えるのか?よく分からなくなってきた。
しかし身体と他のものとの関係性について考えるのは、やっぱり楽しい。

自分の中の音

冒頭で引用した『れるられる』で、最相さんが無響室に入ったときのことが書かれている。

聴覚が研ぎ澄まされ、耳の中がじーんと鳴る音や血液の流れる音が聞こえてきて、自分がまるで自分の中に折り畳まれたような圧迫感を覚える。
(中略)
静かな図書館よりもざわめきの聞こえる喫茶店やファミレスのほうが読書や勉強がはかどるという人は多いが、それは自分の中から聞こえてくる音を周囲の雑音が掻き消すためではないか。自分が生きていることを証明するはずの自分の音が、自分を狂わせる最大の要因になるとしたら衝撃的である。

最相葉月『れるられる』106頁

無響室、一度入ってみたい。でも最相さんの文章を読んで想像するに、数分で耐えられなくなりそうだ。
雑音があった方が勉強がはかどるという人は、自分の中から聞こえてくる音を周囲の雑音が搔き消すからではないかという指摘は非常に面白い。

これは「自分の中から聞こえてくる音」とは少し違うかもしれないが、頭の中が色んな考えや感情に支配されてうるさいときがある。実際に声が聞こえるわけではないので幻聴とは異なる。
仕事中、Aさんにちょっとしたことを頼まれて対応する。「さあ、自分の仕事に戻るぞ」と思ったら、今度はBさんに声を掛けられる。続けてCさん、Dさんと声を掛けられ、「うわー!!!」となる感じと言えば良いのか……。

頭の中がうるさいと、他のことが手につかない。規則正しい生活や、家を清潔に保っておくこと、やるべきことを期限内に処理することは頭の中の騒音を減らしてくれる。
忙しい=頭の中がうるさいとは限らない。自分で自分を管理しきれないことが、頭の中の騒音に繋がっているのかもしれない。

一行目の話に戻るが、長らく音楽を聴く気になれなかったのは、ずっと頭の中がうるさかったからなのかもしれないと思った。
既に音が鳴っているのに、その上に音楽を重ねようとは思わない(同じフロアのあちこちで異なる音楽が鳴っているスーパーは狂っている)。
最寄駅に向かう途中や、仕事からの帰り道に数曲聴く。私にほんの少しの余裕が生まれて、そして頭の騒音が減って、音楽を聴こうと思えたのだ。
自分の中に静けさを持つことが、私にとってはすごく大切らしい。

情報の少なさという静けさ

静けさとは、聴覚に限って感じられるものではない。視覚的な静けさもある。
思えば、昔から人の貧乏ゆすりを見るのも苦手だ。視界の情報量が増えて、あらゆることに集中できなくなってしまう。だからある程度片付いた部屋が好きなのか(机やベッドの周りはすぐ本だらけにする)。

今年のツアーで『月見うどん』を演奏するとき、ステージの光量がぐっと抑えられたのが印象的だった。ぼうっと灯るオレンジ色の光が、うら寂しい路地を照らす街頭みたいで良かった。

また『れるられる』の話をしてしまうが、最相さんが「ダイヤローグ・イン・ザ・ダーク」に訪れたときのことを引用したい。
「ダイヤローグ・イン・ザ・ダーク」とは、1988年にドイツの哲学者アンドレス・ハイネッケの発案によって誕生した「目で見えない展覧会」だ。全く光が差し込まない暗闇の中を、先導者の声によって導かれていく。
五人で一つのグループになり、よちよち歩きで進んでゆく。会場を出た後、最相さんが感じたことを引用する。

暗幕をそっと明けると薄暗い部屋があった。目を慣らすために設けられた部屋で、私たちはここで初めて同じグループの人たちの顔を見た。入る前にも見ていたはずだが、他人の顔をまじまじと見ることはふだんでもあまりないのでほとんど初対面である。さっきまで親しく話していたのに、体温や呼吸が感じられるほどの距離で一緒に歩いていたのに、恥ずかしさがこみ上げてくる。見えるようになった途端、四方八方からさまざまな情報が飛び込んでくるせいなのか、一人ひとりの印象がぼんやりと薄らいでいくようだった。

最相葉月『れるられる』115頁

最後の一文にはっとする。
私たちは毎日、処理しきれないくらいたくさんの情報を目にする。そのせいで大切にしたいことに注力できていないのではないか。ぼんやりしてしまってはいないだろうか。
情報は多ければ多いほど良い。本当にそうだろうか。情報の洪水に翻弄されるばかりで、コントロールできていないのではないか。

真っ暗な展示室を歩く中、最相さんは聴覚だけでなく触覚や嗅覚の鋭さが増したという。
暇つぶしにXやInstagramを見る。気付かぬうちに大量の情報を目にする。頭の中が情報でいっぱいになる。うるさくなる。

『月見うどん』に静けさを感じたのは楽曲それ自体もあるけれど、演出の効果も多分にあったようだ。演出を担当された方、ありがとうございます……。
最初はかなり暗いのに、だんだんと明るくなってゆくのも良かった気がする(うろ覚え)。私の目が暗闇に慣れたのもあるのかな。

色んな雨

歌詞に「通り雨」とあるが、小原綾斗とフランチャイズオーナーの『おかしな気持ち』にも「通り雨」があることに気が付いた。
人それぞれ気になるキーワードや感覚があると思う(私の場合、静けさ、余白、曖昧、透明など)。歌詞を書いた綾斗さんにとって「通り雨」はそういうものの一つなのかと想像する。

よくエスキモーには「雪」を表す言葉がたくさんあると言われる。この通説が本当かどうかは知らないが、似たような感じで日本語には雨を表現する言葉がたくさんある。
通り雨とにわか雨の違いを説明しろと言われたらできないし、霧雨、小雨、村雨、夕立、驟雨、雷雨、豪雨……ちょっと考えただけでもこれだけある。

辞書によると通り雨は「さっと降って、すぐやむ雨」で、にわか雨は「急に降りだしてまもなくやんでしまう雨」とのこと。通り雨の方が降っている時間が短いのかな。
辞書の意味はさておき、綾斗さんが「通り雨」にどんなイメージを持っているのか気になる。季節的に『おかしな気持ち』は夏で、『月見うどん』は秋か冬だ。
「驟雨」は夏の季語らしいが、「通り雨」は季節を問わないはずだ。

ライブでAAAMYYYちゃんが「通り雨」と歌い出すとき、さっと静まる空気がすごく好きだった。
歌い始めの音が「と(to)」であることも素晴らしい気がしてくる。例えば「にわか雨」の「に(ni)」とか、「霧雨」の「き(ki)」だったら聞こえ方が絶対に違ったはずだ。
AAAMYYYちゃんの歌声は寒い日の空気のように透き通っていて、『月見うどん』の季節にもぴったり合う。

余白という静けさ

『ドライブ・マイ・イデア』の感想日記に、辞書に載っていない言葉がたくさん使われていると書いたけれど、『月見うどん』の方が綾斗さん独自の言葉だらけだ。
言葉の意味も分からなければ、文章の繋がりもよく分からない。だからこそ何回でも聴いたり読んだりしたくなるのかな。
「分からない」は、決してネガティブなことではない。契約書や法律が穴だらけだったら困るけれど、歌詞だから解釈に幅があることは問題じゃない。
解釈の幅が狭いのは、契約書みたいに文字(情報)がみっしりしている。

綾斗さんの歌詞は、余白がたくさんあって一面の雪景色のようだ。ただ真っ白というわけではなく、ところどころ木が生えていたり、灯りの点った家が建っていたり、よく見ると動物の足跡があったりする。静かだけれど、音がないわけじゃない。

辞書で「静けさ」を引くと「静かであること。また、そのようす・状態・程度」としか書かれていない。
でも『月見うどん』が感じさせてくれたように、静けさにはもっとたくさんの意味がある。まだ真っさらな雪の上を歩きながら、埋もれたその意味をこれからも探してゆきたい。